3 先のことはわからないな
三人で夕食を囲みながら、俺は爽也さんに仕事のことを訊いた。無難な話題だと思ったからだ。だがケニアで医療ボランティアに従事しているという彼の先輩の話が出ると、いつの間にか談笑は終わり、真剣な議論が始まっていた。
「俺もその人のことは立派だと思いますけど、爽也さんだって十分偉いですよ。病気の子供を助けるのに、日本でやるより発展途上国でやる方が偉いってことはないんじゃないですか?」
「けど明らかに医者が不足してる場所で働くことの方がより意義のあることなんじゃないかと思うときもあるんです。極端な話、僕が今仕事を辞めても担当してる子供たちが死ぬわけじゃありません。別の医師が彼らを治療することになるはずです。けど先輩が仕事を投げ出して日本に帰ってきたら、助からない患者が沢山いるはずです。向こうでは医師の補充が簡単にできる訳じゃないし」
「それはそうかもしれませんけど、爽也さんは結婚してるんですよ。これから子供も生まれるわけだし、世界中を飛び回れるほど身軽じゃないんじゃ」
「いや、結婚してるからってのは言い訳ですよ。僕は独身だったとしてもやっぱり彼のようなことはできないと思います。インフラも整備されてない僻地で生活して、不十分な設備で連日連夜治療に追われ、それでも助けられない人を何人も見ることになる。結局、僕はそんな生活が嫌なだけなんですよ」
「でもそれは当たり前ですよ。後ろめたく思う必要はないでしょう」
俺が更に爽也さんを擁護すると、美香もそれに加わった。
「そうそう、爽也君は自分に厳しすぎるんだよ。人を助けることばかり考えてたら参っちゃうよ」
「このくらいで参ってたら、大学病院の医者だって勤まらないさ。そういえば、海外で働くにもいい部分はあるね。医局の人間関係に煩わされなくて済む。うん、それは大きな利点だな」
「何? ちょっとアフリカとか中東とかに行きたくなってきた?」
「行くって言ったら、ついてきてくれる?」
「うーん、上下水道と電気が通ってる所なら一緒に行くかな。それ以外の僻地は単身赴任の方向で……」
「ひでえ奥さんだな」
俺は苦笑した。爽也さんも苦笑いしていたが、彼は美香のそんな答に満足そうだった。黙って俺についてこいなんて言うようなタイプじゃないことは知っていた。そもそもそんな男なら美香とは合わなかっただろう。
「俺なんて、中学高校の頃は『将来は人の役に立つ仕事がしたい』なんて進路調査の度に言ってたのに、結局はそんな理想とは無縁の仕事に就いて、しかも一年半で辞めちまったんですよ。それに比べれば小児科医の爽也さんがどれだけ立派なことをしてるか……」
自分に甘すぎる人生を送ってきたということを、こうして言葉にしてみると改めて思い知らされる。爽也さんの常に努力と研鑽を怠らない人生とは比べるのもおこがましいくらいだ。
「いや、勇助さん、そんなふうに卑下しないでください。僕は美香からあなたと孝太郎さんのことはよく聞かされてますけど、美香があんなに褒める人は、同性の友達の中にだってそう何人もいないんですよ」
「いや、それは……長い付き合いですからね。どうしても甘くなりますよ」
「勇助は自己評価が低すぎるよ。ちょっとつまずいたくらいで自信なくしすぎだって」
妊婦がいらいらするのはよくないと言っておきながら、気づけば俺の卑屈な態度が美香を明らかに不機嫌にしていたので焦った。だが脳天気に彼女の言葉に首肯するわけにもいかない。
「自信が持てるようなことを俺はここ何年もしてこなかった気がするけどな」
「何をやっても思うような成果が出ないで毎日が過ぎてく人の方が多いんじゃない? それを良しとしないで奮起するならいいけど、憂鬱になるだけなら悩むだけ無駄だよ」
俺のちっぽけな自己憐憫など、美香にかかれば一刀両断だった。
「わかってるよ。ぐだぐだ考えてても仕方ねえって。ただ、今は何をやっても上手くいかない気がして……」
「まあ人生にはそういう時期もあるのかもしれないけど……」
俺を元気づけようとしてくれているのはわかったが、挫折とは無縁の人生を歩んできた美香に言われても慰めにはならなかった。
「気分転換に何か新しいこと始めてみれば? 資格の勉強とかつまらなさそうなことじゃなくて、習い事とか。勇助、格闘技観るの好きだったよね? 空手でもやれば? 身体は鍛えられるし、精神鍛錬にもなるし」
「勘弁してくれ。痛いのは苦手だよ」
「じゃあ役に立つところで、料理なんかは? イーストウッドの『ヒア アフター』って映画観たことある? あれ観たらお料理教室に通いたくなるよ」
「俺がそんなとこに通う柄かよ。あとイーストウッドは『ミリオンダラー・ベイビー』と硫黄島二部作しか観てない」
「ああ、そういえばミリタリー系も好きだよね。よし、じゃあもう自衛隊入っちゃおう。銃が撃てるし、体力もつくし、寮生活でお金も貯まるし」
「いや、それ空手教室よりハードル高けえし。っていうか人の人生だと思って投げやりに言い過ぎだろ」
真面目な空気はその辺で薄れてしまって、後はまた食卓を囲んだ直後の歓談に戻っていった。大体爽也さんを無視して二人で俺のうだつの上がらない人生について語り合っているのは失礼だった。こうやって周りの空気を読めなくなるから社会人として上手くやっていけないのだと思うと気が滅入った。
しばらくしてお開きになると、爽也さんが通りまで送ると言ってきた。俺は当然遠慮したが、ちょっと話したいこともあるからと言うので従った。
「何? 男二人で内緒話?」
美香の様子からは、もしかしたら険悪な話し合いがされるのではないかと心配している様子は微塵もなかった。だが俺は察していた。今後自分がいない家に上がり込むのは遠慮してくれないかと言われるのだろうなと。説教するために生徒指導室に呼ばれた中学生のような心境だった。
ところが爽也さんが語ったのはまるで別のことだった。
「さっき美香が言ってましたけど、勇助さんはもっと自分に自信を持っていいと思いますよ」
呆気に取られた。こんなことを言うためにわざわざ出てきてくれたとは。
「いや、でも今の俺が自信満々だったらはっきり言って痛い奴ですよ」
「確かにふんぞり返るのは変ですけど、せめて自分はやればできるんだってことくらいは信じてもいいんじゃないですか? 少なくとも美香はそう信じてます」
だから爽也さんも信じているとでもいうのだろうか。美香の言い分ではそういうことになる。しかしいくらシンプルに、妻の信じるものは自分も信じるとしても、所詮妻の友人に過ぎない俺をそこまで信用できるものだろうか。
「でも俺には……そもそもやりたいことなんて何もないんです」
これから一層就職活動に力を入れようにも、その動機付になるのは結局収入と安定した生活だけだ。やりたい仕事なんてものはない。
そして今となってはその安定さえ、心からほしいとは思えなくなっていた。真面目に働いて金を貯め、いつかどこかの女と結婚して家庭を作る。そんな人並みの人生設計に、全然リアリティを感じなくなっていた。
小学生の頃は、いつか俺は美香と結婚するのだとぼんやり思っていた。中学生になり少し現実を知ると、それを途方もない高望みだと諦め、妄想の中だけの慰めにした。いつか美香は彼女に相応しい男と結ばれ、俺もまあ何だかんだ誰かと恋に落ち結婚することになるのだろうとぼんやり思っていた。
しかし美香の花嫁姿を目の当たりにした俺は、自分があんなふうにウェディングドレスを着た誰かの隣に立っている絵をまるで思い描けないことに気付いてしまった。考えてみれば俺は美香と別々の高校に入ってからも、結局は美香の影を追い続けて、他の女子に目を向けなかった。それでも意志薄弱な俺のことだから、誰かが愛の告白などしてきたらあっさりその女の子と付き合って、幸せになっていたかもしれない。だが高校時代の俺は絶望的にモテなかったし、大学で多少改善されたといっても、結局は女の子との関係はせいぜい友達止まりで、特別な関係などにはなりはしなかった。
いつしか結婚どころか恋愛という営み自体が自分の人生と縁遠いところにある気がしていた。一生ひとりかもしれないと思うと、興味のない仕事に就くため何度も面接を受け、それに受かったとしても今度は忙しない毎日が始まり、あくせく働いた上に手に入るのはやりがいでも名誉でもなく金だけであり、その使い途は自分の細々とした生活の中だけであり、そうした全てが灰色で澱んだ未来に思え、自分はそんなものがほしいのかと自問し、かといってそうした全てを下らないと笑い飛ばし自由人気取りで全てを投げ出す度胸も持ち合わせていない。時間だけが無為に過ぎていく。
「昔は人のためになる仕事がしたかったって言ってたんですよね?」
「子供の言うことです。社会人の発想じゃないですよ」
「そうですか? 具体的には決まっていないけど、何か人を幸せにするような仕事がしたいっていうのはそんなにおかしなことですか?」
「でもそんな考えで仕事が見つかるでしょうか」
「すぐに就職と結びつけて考えなくてもいいんじゃないでしょうか。やってみたことが、いい経験になって就職活動に役立つこともあるかもしれない」
「やってみたこと?」
彼が何を言いたいのか、抽象的すぎてはっきりしなかったが、次に口を開いたときはもう別の話題だった。
「僕はね、あなたに感謝してるんです」
「えっ?」
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