2 そんな昔のことは忘れたよ
「小学生のときさ、国語の時間によく漢字テストやったじゃない」
「ああ、俺あれ苦手だったな」
「五年生の同じクラスだったとき、五十問の漢字テストが始まってしばらくして、先生が呼び出されて職員室に行ったの覚えてる?」
「ああ、そんなこともあったな。担任の子供が事故に遭ったんだっけ」
お前は五年のとき別のクラスだったから知らないだろうが、確かにそういうことがあった。担任の子供は大事なかったみたいだが、電話で事のあらましを聞いた担任がそのまま病院へ向かい、それを報告しに別の教師が教室へやってくるまでの時間、およそ十分間教室は監視者がいない状態だった。
「先生がいなくなって、しかもすぐには戻ってこなかったから、みんなわからない漢字を教科書や辞書で調べ始めたのね。カンニングというにはあまりにも……臆面なく、悪びれなくね。赤信号、みんなで渡れば怖くないとでも言わんばかりにさ」
彼女の大仰な言い回しに違和感を覚えたが、今にして思えば、彼女は「堂々」という表現を使うのを避けていて、それが不自然だったのだ。それは先刻俺が彼女を言い表すのに使った言葉だったから、卑怯な行為の形容には使いたくないと美香は考えたのではないか。そうだったらいいと思う。
「あたしはそれまでの漢字テストは全部満点だったんだけど、たまたまその日は一問だけ書けない漢字があって、必死で思い出そうとしたんだけど出てこなくて。そんなときにみんなが先生がいないのをいいことに平気でカンニングし出したから、あたしも教科書を見ちゃったの。じゃないと連続で満点だったのが途切れちゃうし、この分だと確実に何人か満点の子が出るから、あたしが一番でなくなっちゃうって焦ったのね。それで、悪いことだとは思ったけど、みんながやってるのにあたしだけやらないのも不公平だしなんて心の中で言い訳して、最後の空欄を埋めたわけ」
「……成績優秀なのも大変だよな。一番を取って当たり前だと思われるし、自分でもそう思うんだから」
けれどそうした優秀であるが故の苦悩を、美香は決して周囲には見せなかった。俺やお前に対してもだ。だから俺は美香のこの告白を意外な思いで聞いていた。
「でもね、そうやって無事に全部の解答を書いても嬉しくなんかなかった。みんながやってることなんだからって自分を納得させようとしても、後ろめたい気持ちが消えなかった。で、ふと勇助の方を見たら、何も見ないで普通に問題を解いてたわけ。近くの席じゃなかったから答案は見えなかったけど、たぶんたくさん空欄があるんじゃないかって思った。みんながカンニングして点数がよくなるはずだから、そのまま提出したら最下位になっちゃうかもしれないのに、それでも教科書や辞書は取り出そうとしなかったの」
「まあ、カンニングしていい点取ったって仕方ないしな」
くすぐったいような気分になった俺が何でもないことのように言うと、美香はそれこそ小学生のように無邪気に笑った。
「後になってあたしがどうしてカンニングしなかったのか訊いたときも、今と同じように『カンニングしていい点取ったって意味ないから』って答えてたよ。でもね、あたしは聞く前から勇助がそう言うだろうってわかってた。ひとりだけ正正堂堂とテストを受けてるのを見て、あたしも卑怯なことはしたくないって思えた。だから一度書いた、わからなかった問題の答を消して提出したの。満点じゃなくなるし、一番になれなくなるけど、それでもいいって思えたから」
「……そんな立派なもんじゃねえよ。俺はどうせ漢字テストの点数はいつも悪かったし、今更いい点取ったってしょうがなかったわけだし……」
「そうそう、こんなこともあったな。中学二年生のとき、勇助のクラスに林田君って子がいたでしょ」
「ああ、いたなそんな奴」
中二のときは一緒のクラスだったから、お前も覚えているだろう? クラスで一番運動ができなかった小太りの男子だ。
「運動が苦手で、いじめってほどじゃないけどよく他の男子に馬鹿にされてたでしょ。特にサッカー部の子たちに」
知ってのとおり、中学時代サッカー部の連中は俺にとっても天敵だった。少し運動ができるってだけで偉そうにしている奴らに対して俺は嫌悪感を抱いていたし、そういう気持ちが態度で伝わるものだから連中も俺のことを敵視していた。
「球技大会のとき、じゃんけんに負けるかどうかしてサッカーに割り当てられた林田君が、試合でミスを連発して、観戦してたサッカー部の男子たちに散々野次を飛ばされてたでしょ。……あー、思い出したらなんか腹立ってきた」
「おいおい、妊婦が苛々すんなよ。身体に悪いだろ」
憤る美香と、苦笑半分、慌て半分で彼女を諌める俺の図はお前なら目の前にいるかのように想像できるだろう。俺たちは昔から、時折強い義憤に駆られる美香の姿を目の当たりにしてきたし、そういう真っ直ぐな正義感で俺たちを魅了する女の子は他にはいなかった。善人ぶったり綺麗事を並べてふんぞり返ったりする女子はいても、彼女らは一様に美香のような芯の強さを持ち合わせていなかった。
「ああ、そうだね。うん、怒るのはよくない」
芝居がかった仕草で深呼吸をして、美香は話を続けた。
「それで、確か誰かが、『お前のせいでうちのクラスが負けたらどう責任取るんだよ』って叫んだのね。そしたら林田君と同じでじゃんけんに負けてサッカーやることになった勇助がさ、『うるせー! 球技大会ごときでぐだぐだ言ってんじゃねーよ!』って叫び返して。あたしもみんなもびっくりしたよ」
「……覚えてねえな」
別に林田君をかばったわけでもない。ただ連中の、まるでクラス全員を代弁しているかのような態度が気に入らなかっただけだ。
「それでサッカー部の一人がフィールドに乱入して、勇助の胸ぐらつかんだから、あたしも焦ったよー。しかもその状態でまだ挑発するようなこと言うし。確か、『お前ら、学祭の準備や何かは適当にやって、合唱コンクールの練習は何度もさぼるくせに、よくクラスの迷惑とか言えたもんだな』って啖呵切ったんだよね」
「言ってることけっこうめちゃくちゃな気もするんだが……」
「いや、間違ってないよ。あいつらにはクラスがどうこう言う資格ないし、そもそも全員強制参加で事前にたいした練習もしない球技大会で、人のプレーを責めちゃだめだよ。たとえ勇助が明後日の方向にボールを蹴ったとしても」
「それは言うなよ」
何のことはない。あの即席チームで林田君の次に下手だったのは俺で、お前も知ってのとおり、その試合中にも何度か無様な姿を見せた。だが俺に罵声は浴びせられなかった。もちろん俺が美香の幼馴染だからだ。
あの頃校内で、美香から嫌われても構わないなどと思っていた男子がいるだろうか。美香から嫌われるということは、彼女を慕う女子からの人気も大暴落するということだ。あの中学のサッカー部の連中のようなかっこつけ野郎共には特に耐え難いだろう。
「まあ結局至近距離から睨まれるだけで済んだからよかったけどな。その後は誰も試合中にわめかなくなったし」
胸ぐらをつかんで睨めつけてきた相手は俺を殴りつけるのを何とか我慢しているようだった。俺に手を出せば確実に美香に憎まれるということがわかっていたからだ。
もっとずっとガキだった頃は違った。美香はよく男子にちょっかいを出されて、今の彼女の姿からは想像しにくいが泣かされることも珍しくなかった。だからガキの頃の俺は、自分が美香を守るのだと息巻いていたが、実際は俺の方が美香に守られるようになっていたというわけだ。もちろん当時から気付いていた。このときに限らず、サッカー部や他の奴らと揉める度に、美香の加護があることを認めざるを得なかった。うちの中学校は平和でのどかな学校だったが、それでもクラスで力を持ったグループと馬が合わない俺は、それこそ奴らからいじめを受けるなんてことも大いにあり得たはずだ。
「そういえばあのときの勇助は勇気があってかっこよかったって言ってる女子も何人かいたよ」
「マジかよ。そういうことは教えてくれよ」
「女の子同士の秘密だからね。それは教えられないよ」
まあ冗談めかして言ってはみたが、実際当時の俺がそれを知ったとして、美香以外の女子に好かれても仕方ないと思っただけかもしれない。
それにそもそも俺は勇敢なんかじゃない。あのときだって、もう数秒胸ぐらを掴まれ続けたら、「……悪かった。言い過ぎた」と謝ってしまうところだった。その前に奴が手を下ろして心底ほっとしたものだ。
「まあそういうところを見てきたから勇助を信じてるわけ。ただ幼馴染ってだからだけじゃなくてね」
それからしばらくして、爽也さんが帰宅してきた。俺が夫のいない家に上がりこんでいることを内心快く思っていないのではないかと心配していたが、彼はそんな様子を微塵も見せずに挨拶してきた。
俺も立ち上がって挨拶したが、どうもぎこちない動作になってしまった。身体を固くするのは劣等感から来る緊張だ。将来を嘱望される勤勉な新人小児科医とその美しい妻。そんな家庭に俺のような奴が招かれていることが何かの間違いのように思えてきた。
自室でラフな格好に着替えてきた爽也さんを見ると、その劣等感はますます肥大した。まったくため息が出る。女が放っておくわけがない。筋骨隆々の体躯というわけではないが、よく見ると背中が広く、手首や二の腕に秘められた力強さは隠しきれない。そしてしなやかな身体の一番上には、まあ個人の好みはあるだろうが少なくとも十人に尋ねれば九人は整った顔立ちと認めざるを得ないであろう顔が乗っている。
これが、俺たちが想い続けた女と結婚した男だ。実に完璧な夫婦。他人の入り込む隙などない。そのことに俺は嫉妬すると同時に安堵する。
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