1 やましさと切なさと心細さと







 俺はその日、美香の新居を初めて訪れることになっていた。本来なら孝太郎と一緒に訪ねて久しぶりに幼馴染三人が揃うはずだったのだが、孝太郎が風邪を引いたせいで俺がひとりで行くことになった。こうなると楽しみだった訪問に憂鬱な影が落ちる。美香と爽也さんという誰から見ても理想的な夫婦が新しい人生を始める住まいの敷居を、俺のような男がくぐっていいのだろうかと、そんなくだらない考えが押し寄せる。

 卒業間際に内定が決まった会社は、結局一年半ももたずに辞めた。辞めることは半年足らずで決意していたのだが、美香から披露宴の話を、式の日の半年以上も前から聞かされていたから、せめてその日までは我慢して会社に居続けようと思った。話を聞く限りでは美香が式に呼ぶことを決めている男は、親戚を抜かせば俺と孝太郎だけで、何人もの女友達の中にたった二人だけ混じった男の友人のうち一人が無職だというのはなんだか申し訳ない気がしたからだ。美香がそんなことを微塵も気にしない人間なのはわかっていたが。

 彼女の花嫁姿を目に焼き付けた二か月後、何の心残りもなく辞表を出した。A4用紙にワープロソフトで半分だけ書いたそれを上司は無礼だと憤激したが、こっちだってその上司には散々無礼な態度を取られている。いくら上下関係があるといっても奴の言動の数々は限度を超えていた。それに終電帰りが当たり前の、時給に換算すれば最低賃金を軽く下回るような、しかもたいして技能が身に付くわけでもない仕事を延々とやらせるような人間が礼儀云々を偉そうに語る資格があるのか? とにかく無理をしてここにいても将来はないと思った。この会社自体いつまで経営しているか怪しいものだし、昇進どころか昇給があるという確信すら持てないとなると、もはや会社にしがみつく理由はなかった。

 しかし正社員として勤めているという地位を失ってしばらく経つと、自分が少なくない割合の人間から白い目で見られているのではないかという疑心暗鬼なやましさに苛まれた。たとえ景気が悪かろうと、働いていない人間より働いている人間の方がずっと多いのだ。

 辞めたことを後悔はしていないつもりだったが、ぽっかりと空いた時間に、再就職のために動いたり動かなかったり、暇がなくて出来なかったゲームを半日以上プレイしたり、挙句の果てにはじっと家にいると落ち着かないという理由だけで用もなく街に出かけたり、逆に町外れまで電車に乗ったりという無為な時間の使い方をしていると、自分が世界から置いて行かれたような焦燥が募った。

 そして何よりも、こうして美香に会おうとしたときに後ろめたさを感じるのが辛かった。

「いらっしゃい」

 チャイムを押すと、美香がドアを開けて出迎えてくれた。元気そうな顔を見てとりあえず安心した。

 マンションの一室は二人で生活するには十分すぎる広さだった。しかしもう一人家族が増えることを前提としているのだから、これくらいでちょうどいいのかもしれない。

 茶を入れようと台所に立つ美香に、俺は慌てて声をかけた。

「ああ、いいから座ってろって。安静にしてろよ」

「何言ってんの? 生まれるのはまだ半年近く先なのに」

 俺は赤面して、座布団に座りこんだ。確かに安静にしなければいけないのはまだずっと先だった。それに予定日が近づいたからといって一切運動しない方がいいということはないだろう。妊婦と接する機会などないからつい馬鹿なことを口走ってしまった。盆を持ってきた美香の腹部の辺りを盗み見たが、もちろんそこにはまだ外から見てわかるような変化はない。

「勇助、今日ごはん食べていきなよ。爽也君にも伝えてあるから」

「いや、でも悪くない?」

「たいした手間じゃないよ。四人分準備しちゃったから、よかったら孝太郎のところに持って行ってあげてくれない? 一人暮らしで風邪引いたら、食べるものも困るだろうから」

 結婚しても驚くほど美香は美香のままだった。意志が強く毅然とした女だが、俺と孝太郎の前ではこっちが心配になるほど屈託がなく、無防備だった。

「いや、俺が言ってるのは、爽也さんに悪くないかってことなんだけど」

「夫婦水入らずの食卓を邪魔してるって?」

「それよりもさ、そもそも旦那の留守に奥さんのいる家にお邪魔するってだけでまずいかもしれないじゃん。長々と居座った上に飯まで食わせてもらうってのは……それに俺今無職だし。平日の昼間から仕事もしてない男がお茶しに来て、飯まで食っていくってのはちょっとどうかと思うんだが……」

「平日なのは仕方ないでしょ。孝太郎が土日休みじゃないんだから。それにあたしだって無職だよ」

 何でもないことのように言う彼女にもどかしさを感じた。頭のいい彼女ならわかっているはずだ。マンション暮らしを快適なものにするには、もっと世間体を気にするべきだと。俺が部屋に出入りするところを人に見られただけでも、引っ越してきた若い夫婦の奥さんが若い男を、しかもなぜか旦那よりもずっと冴えない男を連れ込んでいるなどという噂が立ちかねないというのに。

「俺がひとりで来ることになったって聞いて、爽也さんだって内心穏やかじゃなかったんじゃないのか。爽也さんにしてみれば、俺のことを全面的に信用できないはずだろ。つまり、俺だって一応男だ。何か間違いを犯すんじゃないかと心配するのは自然なことじゃないか」

「爽也君はシンプルなんだよ。あたしが信じてるものは信じる。だから今日のことも何も言わないの。まあ少しも気にしてないってことは、そりゃあないと思うけど、でもそれはお互い様だから。爽也君は研修医の頃から患者さんにも看護士さんにもモテモテだったけど、あたしは彼に限って間違いなんかないって信じてる」

「いや、でも周りの目なんかもあるだろ」

「近所の人に見られたって、堂々としてればいいよ。変に焦ったり隠そうとしたりするから不倫か何かだと勘違いされるんだよ。大体ある程度ご近所付き合いがあって、普段から話をしてれば誤解なんてすぐに解けるって」

 いつだって彼女はこうだった。お前も知ってのとおりさ。やましいことなんて一つもないって顔で、その目に見つめられると、後ろ暗いことがある人間は目を伏せずにはいられなくなる。

「参ったよ。変わんねえなあ美香は。威風堂堂って感じで」

「あたしはいつでも胸張って顔上げて生きていたいからさ。……でもね、あたしがそうなったのは、勇助のおかげでもあるんだよ」

「えっ、何のこと?」

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