プロローグ②俺はお前になら

 声にならない声を上げて不良Aがうずくまった。不良Bはそれを見て唖然としていたが、すぐに激怒して美香に背後から襲いかかろうとした。ぼくは咄嗟に美香をかばおうとしたが、同時に勇助が動いていた。不良Bの前に躍り出た勇助の拳が、気づけば相手の顔面を打ち据えていた。

 顔を抑えてよろめく不良を更に攻撃することはせず、勇助は両手で美香とぼくの手をそれぞれ掴んで走り出した。

「サクラ! トウジ! 逃げるぞ!」

 引っ張られるようにアーケード街を全力疾走した。いつの間に元バレー部キャプテンで健脚の美香が勇助を追い越して先頭を走っていて、足の遅い男子二人を引きずり回すような形になっていた。

 何度か後ろを振り返ったが、追手は上手く撒けたようだった。というより奴らも本気でぼくらを追いかけなかったのではないか。子ども扱いするように攻撃を全てよけられた相手と、不良相手に啖呵を切って股間を蹴り上げる女だ。ぼくが奴らの立場ならこれ以上関わり合いたくない。

「さっきの何? サクラとトウジって……」

 それは見てきたばかりのアニメ映画の登場人物の名前だった。なぜ美香とぼくをその名前で呼んだのか。

「偽名だよ偽名。逆恨みしたあいつらが、俺らのことを調べるかもしれないだろ。私服だからどこの中学かはわからないだろうけど……美香はデカくて目立つからさ」

 高校で追い抜くまで、美香の身長はぼくと勇助より高かった。でも美香が見つかってしまうとしたらそのせいじゃない。

「あたしが目立つのは大きいからじゃなくて、かわいいからでしょ」

 あえて勇助が言わないことを自分で言ってしまう。そう、美香は昔からそういう奴だった。

「……とにかく、わざと偽名を奴らに覚えさせて、嗅ぎ回られても大丈夫にしたんだよ」

「そんな。ヤクザにケンカを売ったわけでもないのに大げさな」

 まるで修羅場を何度も潜っているかのような彼の言動――今にして思えば危機管理意識とでも言うべきもの――にぼくは、勇助が急に知らない人になったかのような感覚を覚えた。

「危ない奴ってのはいるんだよ。用心に越したことはねえって。だからそもそも穏便に済ませるのが一番なんだよ。股を蹴り上げたりしないでさ。……まああいつらはただの雑魚だけどな。俺にパンチが当たらないって、相当弱いよ」

「それそれ! 勇助すごいじゃん! あれどうやったの?」

 美香が目を輝かせて訊いた。確かにあれは驚きだった。スポーツ万能な美香と違って勇助もぼくも運動は不得意というのが三人の共通認識だったはずだから。

 勇助の説明によると、映画「ロッキー」をたまたま気まぐれで見たところ、すっかりハマってしまい自室でボクシングの真似事をするようになったらしい。蛍光灯の紐に向かってパンチを繰り返したり、跳ね返ってきたそれをかわしたり、そういうことをここ数か月勉強の合間のストレス解消に続けてきたと。

 嘘だろうな、というのは当時から勘づいていた。

 元々運動神経がいいわけじゃない勇助が、見様見真似でしかもぶっつけ本番で、あんな芸当ができるとは、中学生の頃のぼくだって信じちゃいなかった。

 大方こっそりボクシングジムにでも通っていたのだろう。でも何のために?

 美香のため――勇助ならそれ以外ありえない。

 付き合っているわけでもない幼馴染の女子を、いざというとき守れるように格闘技を習う――はたから見たら常軌を逸していると思われるだろうか?

 だが勇助という男は――ぼくの幼馴染は――そういうことをやりかねないくらいに美香を――ぼくのもう一人の幼馴染を――大切に思っている奴なのだ。


 この事件があって、初めてぼくは勇助への認識を改めた。美香の輝きが強すぎて気が付かなかったけれど、実はこいつもとんでもなくすごい奴なんじゃないかと。

 そう、もしかしたら美香と釣り合いが取れないとは言い切れないくらいに。

「そうだよ。おれが告白したって、美香を困らせるだけだったさ。でもお前はどうなんだ? 勇助なら、美香も断らなかったんじゃないか? だって勇助はいつだって……」

「やめろよ。俺が爽也さんに敵うわけないだろ」

 それを言われると、咄嗟に返答に詰まった。

 美香がぼくらに爽也さんを紹介してきたのは、二人が付き合い始めて二か月ほど経った頃だった。名門大学医学部の学生で剣道も強いという話は美香から聞いていたが、容姿については特に聞かされていなかったので、初対面の際、男のぼくでも見惚れてしまいそうな正統派美男子に、改めて天は二物も三物も与えるのだということを再認識させられた。

 物心がつく頃から美香が近くにいたぼくは、世の中には天に愛された人間がいるということをよく知っていた。だからぼくは、そうでない男たちが彼女に交際を申し込むのを身の程知らずと笑い、あろうことか彼女に釣り合う男など現れないと半ば信じていた。だが爽也さんと会って話すうち、誰にも手が届かない存在だと思っていた美香に相応しい相手がついにやって来たのかもしれないと思った。文武両道の真のエリートでありながら、ぼくのような凡人を見下すそぶりは一切なく、何より言葉の端々から美香のことを真剣に想っていることが感じ取れた。

 ぼく自身は美香とどうにかなることなどとうの昔に諦めていたから、人格までケチのつけようのない爽也さんと美香が出会って惹かれ合ったことを素直に祝福したはずだ。もしも勇助があれほどまっすぐに彼女のことを想い続けていなければ。

「そりゃ、爽也さんは完璧だよ。けど、勇助はずっと美香のことを」

「爽也さんだって美香のことを誰よりも大事に思ってるさ。美香と一緒になるべきなのはあの人しかいない」

 本当にそうだろうか。勇助が中学の終わり頃から突然勉強を頑張り出して進学校に入ったのも、美香に追いつこうとしていたからではないのか。その後入部して数か月の剣道部で驚異的な上達の早さを見せたのも、また美香が危ない目に遭ったとしても、どんな相手からも守ってやるのだという決意があったからではないのか。

「剣道じゃ勇助の方が上だったろ」

 勇助は剣道を始めるとすぐに頭角を現し、大学四回生のときには全日本学生剣道選手権大会でベスト十六に入った。爽也さんは同大会のベスト三十二で敗れていたから、勇助の方がいい成績を残したことになる。

「直接対決したわけじゃないけどな。まあでも、一つくらいは勝たせてもらわないとな」

 勇助の顔には、美香が誰かのものになる悔しさなど微塵もなかった。ぼくはなんだか自分がバカみたいな気がして、思わず勇助に詰め寄った。

「なあ、これで、ほんとによかったのかよ」

「いいに決まってるだろ」

「そうか、もやもやしてるのはおれだけかよ」

 ぼくと勇助は同じ苦悩を共有しているものと信じていたのに、実際はぼくだけが美香のことを吹っ切れていなかった。ぼくが並の高校に行く一方で彼が進学校に合格したときより、昔はぼくと同じようにスポーツが苦手だったはずなのに剣道で注目される選手になったときより、今この瞬間の方が、勇助に置いて行かれたような気持ちになった。

「いじけんなよ。俺だってこう見えて辛いんだよ」

 そんなことはわかっていた。きっとぼくよりもずっと彼女を愛していた彼が、そう簡単に彼女への想いを断ち切れるはずがなかった。

 堅実な人間だと思っていた勇助が有名大学に入ったにもかかわらず就職活動をしなかったことも、美香に爽也さんを紹介されたことと無関係とは思えない。剣道で優秀な成績を残した勇助のところには大学のOBの警察官がスカウトに来ていたが、そちらの試験も一切受ける気は見せなかった。卒業してからの勇助は、短期のアルバイトで金を貯めて海外で放浪生活をして、資金が尽きればまた日本に戻って、また稼いで渡航するという彼らしくない不安定な人生を送っている。それもきっと、彼女への想いを断ち切るためには、遠く異国の地へ旅に出るようなことまでする必要があったからだろう。

「すまん。わかってるんだ。勇助がおれよりも辛かったんだって。でも、お前がそんなふうに平気そうな顔してると、自分が情けなくなって――」

 肩を軽くたたかれた。こういうスキンシップを取るのは勇助にしては珍しい。俯いた顔を上げると、彼が優しく微笑んでいた。全てわかっている、という顔だった。こんなときぼくには、誰よりもよく知る親友がまるでずっと年上の人生経験豊かな年長者のように思えた。

「今は完全に吹っ切ったように見えるだろうけどな、俺が美香のことを本当に諦めるまでには、お前よりずっと時間がかかったんだぜ。長い、長い時間が……」

 そう言うと彼は、鞄から紙の束を取り出して、酒やつまみで埋まった机に置くのを諦めて、ぼくの横の床に置いた。

「これを読んでもらえば、俺がどんな思いで今日の式に出たのかわかってもらえる」

「何これ?」

「小説というか手記というか」

「誰の?」

「俺の身の上話を書いた」

「なんでまた……」

 そういえば高校に入ってからの勇助は、随分熱心な読書家になっていた。だが自分で何か書いていたという話は聞いたことがない。

「話すと長くなるし、たぶん黙って聞いてもらうのは無理だと思って」

「何だよ。長くなったって聞く用意はあるぞ」

「いや、それはわかってるんだが、ただ……いくら俺らの間柄でも信じ難い話だと思うからな」

 そもそもこんなものを読んでくれと言われることが既に信じ難い。しかも美香への気持ちを綴った文章にしては、少し量が多すぎる。

「こんなにたくさん、何を書いたんだよ」

 五十ページ以上はありそうなラブレターを、しかも美香宛てを読まされるのはちょっと勘弁してもらいたい。だが勇助にそんな感傷的すぎる一面があって、しかもそれをいくらぼく相手とはいえ他人にさらすとは思えなかった。

「俺は読んだ本の内容をよくお前に話すことがあったけど、覚えてるか」

 勇助は質問を無視して訊いてきた。

「ああ、おれはほとんど漫画しか読まないから、かえって小説の話を聞いたら忘れなかったな。あっ、もしかしてその中にも自作の話が含まれてたとか?」

 我ながらいい読みだと思ったが、勇助は首を振った。

「いや、俺は自分で話を作ったりはしてねえよ。これもあくまで自叙伝だ」

「自叙伝を出すには若すぎないか?」

「お前以外に読ませる気はないんだ。そしてお前に読んでもらうには、今しかない。俺たちが美香の門出を祝った今が、俺の人生の物語を話すのに相応しいときなんだ」


 その後は思い出話も途切れがちになり、眠気に耐え切れなくなったぼくらは適当に横になって眠った。

 翌朝、といっても正午近くだったが、ぼくが目を覚ますと既に勇助の姿はなかった。ぼくを起こさずに帰ったらしかった。

 その日は休日で、他に何もする気が起きなかったので、まだ式の興奮が冷めやらぬ中で、勇助の自伝とやらを読み進めることにした。

 表紙は白紙で、一枚めくると最初の数行が空白で、すぐに本文が始まっていた。

 勇助が寝る前に真剣な表情で念を押していたのを思い出す。眠気で朦朧とし始めていたぼくの、最後のはっきりとした記憶だ。

「読み始めてすぐにお前は違和感を覚えるはずだ。そしてすぐにこの話が真実ではありえないと判断するだろう。だがとにかく読み進んでくれ。美香が好きだってことは隠してきたが、俺がお前に嘘をついたことは一度もなかっただろう? 今度もそれは変わらないから」

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