第三章「穿山甲」④

 風呂から上がり、私服に着替えてゆっくり寛いでいると、先程案内をしてくれた和装の女性が部屋まで藍那を呼びに来た。

 当主と面会する用意が整ったのだという。

 藍那は重たいザックを背負い、母家へと続く廊下を歩いた。

 既に陽は傾いていた。気温も随分と涼しく感じられる。渡り廊下から見える中庭には、影が長く伸びていた。どこからか鈴虫の鳴く声も聞こえて、秋の風情を感じる。

 これで周りの景色でも見ることができれば尚のこと良いのだけれど、と藍那は思った。

 この家は、四方を塀に囲まれている。そのせいで外の景色を見ることはできない。屋敷の入り口にあった巨大な門を通る以外には、この敷地から外に出る方法はない。

 何かをここに封じ込めるように、白い塀は高くそびえ立っていた。

 案内人に続き、藍那は母家に足を踏み入れた。そこかしこに人の気配がある。夕飯時が近いこともあり、料理をしているような匂いもした。使用人の数も随分と多いようだ。

 藍那が通されたのは小さな和室であった。

 離れにある応接室ではなく、わざわざ母家に呼びつけられたのには訳がある。

 取り扱う品が普通ではなく、ひっそりと商談を行いたいのも一つ。しかし、一番の理由は当主の体調が芳しくない事にあった。

「やぁ……久しぶりだなぁ、薬売り」

 肘掛けにもたれるようにして、その老人は座っていた。

 竜堂家当主、竜堂式部である。

 式部は藍鼠色の着流しを纏い、畳の上に胡座をかいて座っていた。

 枯れ木のような腕を掲げて、式部は歓迎の意を示した。随分と痩せたな、と藍那は思った。

「式部さんも、元気そうで何よりです」

「ふん、皮肉にしか聞こえんよ」

 鼻下に蓄えた真っ白い髭を歪めるようにして、式部はそう答えた。だが不快な様子ではなかった。むしろ、どこか楽しげでもある。

「もう、部屋を移動するだけで重労働だ。いつまでも若々しいあんたが羨ましいよ。使用人に聞いたが、駅から歩いてきたんだって?」

「車の免許がないので。でも、前からずっとそうですよ。最近は服や靴も機能が良くて、昔よりだいぶマシになりました」

「洋服か。昔は凝りもしたがなぁ。今では、この通り」

 式部は着流しの袖を持ち、広げてみせた。

「爺は、爺らしい格好でいるべきだとよ」

「お似合いです。良い着物ですよ」

「フッ。あんたにそう言われると、まんざらでもない気分になるから不思議だよ」

 そうして藍那と式部は、少しのあいだ昔話に花を咲かせた。

 藍那は古くから薬売りとして竜堂家に出入りしている。当主の式部とも旧知の仲だ。一介の取引相手ではなく、ほとんど客分としての扱いを受けているのは、そういった関係性があるからだった。

 当主という立場に収まると、抱える責務も多くなる。利権をめぐる対立、守るべき伝統。一族の長として常に重圧にさらされる式部にとっては、浮き草のように飄々とした藍那との会話は気の休まるものだった。

 こうして威厳たっぷりに当主として振る舞う以前から、式部は、藍那に自分という人間を知られている。己の弱い部分を知る人がいるという事は、存外に助けになる。この立場になってから式部は思うようになった。

「では……そろそろ本題に入りましょうか」

 藍那が切り出すと、式部は軽く頷いた。

 式部は手元に置いてあった鈴を鳴らして、人を呼び付けた。先程の使用人とは異なる男性が、ジュラルミンケースを運んでくる。

 畳の上に置いたケースのロックを外し、男は藍那にその中身を見せた。そこには大量の紙幣の束が敷き詰められている。

 式部はニヤリと笑った。

「爺の小遣いにしては多すぎるかもしれんがな。どうせ、老い先短いんだ。今回は好きに使わせてもらうさ」

 藍那は、荷物の入ったザックを体の近くに引き寄せる。

「式部さんのご期待に添える品が用意できていれば良いのですが」

「謙遜も度が過ぎると嫌味だぞ、薬売り。いつもスッカラカンになるまで搾り取る癖に」

 藍那もまた、笑みを浮かべた。

 ザックから品を取り出し、畳の上に並べていく。造形の美しいもの。見るからに怪しいもの。一見すると何の変哲もないもの。

 その全てが普通ではないことを式部は知っている。藍那という薬売りが、平凡なものを持ってくる訳がない。それが長い付き合いの中で構築された「信用」というものだった。

「これは二蔵という地域でのみ採取できる自然薯です。口に入れれば老化を和らげ、活力を漲らせる効果があります」

「随分と小さいな。これっぽっちで効果が出るのか?」

「効果は保証します。近年、収穫量が格段に落ちてきていて、サイズの大きいものは入手できませんでした。ただ、今後は手に入れる事がより困難になります」

「むぅ……仕方がない、百だ」

「百二十です。繰り返しますが、効果は絶大です」

「ふん、相変わらず足元を見る商売だな。わかった、百二十で手を打とう。ある分は全て売ってくれ」

 そういって式部はケースの現金を掴み、藍那にそれを手渡した。

「……では確かに」

 きっちり勘定すると、藍那は桐箱に納められた自然薯「山神の乳」を、式部の方へと差し出した。

 実際に相対してその場で現物を交換する。それが藍那の取引だ。

「次はこれです。『願いを叶える手』。似たような逸話はいくつかありますが、私も本物を仕入れたのはこれが初めてです」

 藍那が取り出したのは、三十センチほどの細長い箱だった。上蓋を外すと、黴のような臭いがした。中には細長い物体が、古い布に包まれて収まっている。そのシルエットは確かに肘から先の腕のようだった。手首に相当する部分に、金属の輪がはめられている。

「この手は確かに願いを叶えます。ですが、望んだ形とは限りません。代償として支払われるものも大きい。剥き出しだと危険なので、サービスでセーフティもつけています」

 藍那は金属の輪を指差した。

「願いを叶える、か……。あまり好かんな。支払う価値と、受け取る価値。そのどちらもが不確定なら、それは取引の形を成していない」

 式部は指で顎をさすり、難色を示した。

「当主らしいご意見です」

「おべっかは使わんでくれ。所詮は好みの問題だ。そいつは保留だな。あんたが次にここを訪れた時に、まだこの爺が生きていたら、その時に考える事にしよう」

「それまでに、売れてしまうかもしれませんよ?」

「俺以外、こんな怪しいものに金を出す人間がいるものか! 薬売りよ、これをいくらで売ろうと考えていた?」

「二千五百です」

 藍那の言葉を受け、式部は可笑そうに声をあげて笑った。

「ははは! 流石だな。あんたがその値を付けるんなら、間違いなく本物なんだろう。だが、言ったようにこれは好みの問題だ。次の品を見せてくれ」

「……わかりました」

 そのようにして取引は夜まで続いた。

 藍那が持参した品の半分ほどを式部はその場で買い付けた。延命に関わるもの、魔除けの力を持つもの、力の要になるもの。

 ぺったりと凹んだ藍那のザックの側に、大量の札束が積み上がっている。式部が対価として支払った金額は二千万をゆうに超えた。

「それでは……次は私の番です」

 藍那はその札束を手に取った。

 竜堂家は馴染みの客であるのと同時に、藍那が品を買い付ける相手でもあった。

「『穿山甲』はおいくらでしょうか」

 それは藍那の取り扱う商品の中でもかなり高価な部類に入る薬の名だった。

 本来、穿山甲とは同名の動物の鱗を使った漢方薬の事を指す。しかし竜堂家に於いては、全く異なる別の薬を意味した。

 世間一般で語られる『穿山甲』の薬効は、ほとんど迷信に近い。だが、その名前の影に潜み、時の権力者や富豪にのみ存在を知られた秘薬が裏の世界に存在した。

 竜堂の血を濃く受け継ぐものには、ある体質が発現する。鼠蹊部を中心とした下半身の皮膚が鱗のように硬化するのだ。竜堂家ではそれを『月鱗』と称した。

 満月を思わせるその鱗は、人体に多大な影響をもたらした。竜堂家はその鱗を調合し、秘薬とした。精力剤、媚薬、惚れ薬。人の欲望を満たす秘薬の効果は絶大で、古より高価で取り引きされた。竜堂家がこれほどの財を成したのは、ひとえに『穿山甲』と呼ぶその薬があったからである。

「それなんだがな……少し、待てるか。ほんの二、三日でいい」

「いくらでも待ちますよ。その為にここまで来たんですから」

 藍那は微笑む。

「すまんな。……それと、紹介しておきたいヤツがいる。おい、呼んでくれ」

 式部は、襖の方に声をかけた。

「御当主自らの紹介ですか」

「それだけ、こちらとしてはあんたとの取引を重要視しているってことだ。……次の当主は、俺とは違う部類の人間だが、とにかく頭がいい。あんたに取っても有益な取引をする筈だよ。今後とも、よろしく頼む」

 式部は深く頭を下げた。

「……まるで、もう居なくなるような言い方ですね」

 藍那は伏し目がちにそう言った。

 式部は老いた。様々な手を使ってなんとか保たせてはいるが、もう長くはないだろう。

 昔馴染みと言える相手が。自分にはあと何人いるだろうか、と藍那は考える。みんな先に逝ってしまった。

 藍那はまだ、長い旅路の途中だ。自らの追い求めるものに辿り着けていない。

「俺は長く生きすぎたぐらいだ。後を任せるつもりだった人間が立て続けに逝ったからな。寿命が来る前にこうして話せてよかった」

 トントン、と襖を叩く音がした。

 式部が呼び寄せた人物が、そこに到着したようだった。

「来たな……入れ」

 スッと襖が開いた。

 若い男が一人、そこで膝をついていた。床に額が付くほどに、深く頭を下げている。

 和装の人間が多いこの屋敷において、男は珍しく洋装だった。ライトグレーのスーツを身に纏い、黒い髪はきっちりと整えてある。

 ビジネスマンのようなその風貌は、少し場違いのようにも感じられた。

「嫡男の不由彦だ。調合の方法を仕込んである。今後の取引はこいつを通して欲しい。俺の財産を欲しがっている傍流が騒ぐかもしれんが、考えは変わらん。まぁ、遺言と思って呑んでくれや」

 男はゆっくりと顔をあげた。

 理知的な瞳だ、と藍那は思った。動じる様子も全くない。式部が、当主としての役割を委ねようというのだから、それほどの人物なのだろう。

「竜堂不由彦と申します。以後、よろしくお願い申し上げます」

 男は淡々と挨拶を述べた。

 藍那もそれに応える。

「藍那堂の藍那です。どうぞよろしく」

 式部が手で合図をすると、不由彦は静かに後退り、襖を閉めた。文字通り顔見せ、といったところだろうか。

「今日はこのくらいにしておこう。……正直なところ、俺は疲れた。この品数の取引、老体には堪えるぞ」

 確かに式部の様子を見る限り、だいぶ消耗している様だった。体調も良くないと聞いている。快活に会話をしていたが、気を遣って無理をしていたのだろう。

 もう少し式部の身体に気をつけるべきだった、と藍那は反省した。

 荷物と現金をザックに詰めて立ち上がる。

「わかりました、そうしましょう。では数日の間、離れの部屋をお借りします。時が来たら声をかけてください」

「恩に切る。……それと、当代の『苗床』の事なんだがな」

 式部の言葉に、藍那は足を止めた。

『苗床』とは、竜堂家の秘薬の原料となる鱗を、その身体から生み出す人間の事だ。

 鱗の発現は血の濃さによる為、『苗床』はほとんどの場合当主の血縁となる。因果としてはむしろ逆で、鱗が発現せず『苗床』とならず育った竜堂の人間から、才能あるものが当主となる教育を受けるのだ。

 人を狂わせる『月鱗』の性質からか、『苗床』となる人間は、ほとんどの場合、成長過程でその精神に異常をきたした。加えて、彼らと接する人間にもその影響は及んだ。『苗床』の吐息や汗、身体の分泌物の全てが『月鱗』と同じ性質を持っていたからだ。

 影響を最小限に抑える為に、竜堂家は『苗床』を隔離した。『苗床』となる竜堂の子は、その年齢が十に至る前に体質が発現する。体質を持っている事が分かった時点で、その子供は石蔵の奥へと移された。その時からずっと隔離されて過ごすのだ。

 藍那は竜堂家を訪れる度に、石蔵に住む『苗床』の所に顔を出していた。普通の人間と違って藍那の身体には幾らかの耐性もあるし、数十分話すくらいであれば、『苗床』の分泌物の影響はそれほど受けないからだ。

 歴代の『苗床』は、ほとんどの場合藍那の来訪を歓迎した。彼らの情緒は幼い。幼少期から外界との接触を断たれているからだろう。外の世界の事をもっと聞かせて、とせがまれて、藍那はよく街の話をした。それが、どんなに残酷な事であるかも知っていながら。

「今回も『苗床』の所に行くつもりか?」

 式部が藍那に問いかけた。

 前回の来訪から随分と間も空いた。藍那は当代の『苗床』とまだ会ったことがない。

「そのつもりでしたが……」

「やめておいた方がいい」

 ピシャリ、と式部は言い放った。

 藍那は少し驚いた。

 式部は、竜堂の当主として『苗床』の処遇にもっとも心を砕いてきた一人だ。彼らがもっと人間らしく生きられる術はないか、と模索を続けてきた。藍那が『苗床』と面会する事を許されたのも、式部が当主になってからだ。彼の口から、それを止める言葉が出てくるとは思ってもいなかった。

「……何故でしょうか」

 藍那は思わず聞き返していた。

 式部は俯き加減に、目頭を指で押さえた。

 その表情を伺うことはできない。しかし、その指が震えていることに藍那は気付いた。

 式部は、何かに怯えていた。

「あれは……あれは鬼子だ」

 絞り出すような、震える声だった。

 かつてはあれほど逞しかった式部が、藍那には随分と弱々しく見えた。

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