第一章「夢の帆船」⑬
「演奏会のソロパートさ、辞退してくれないかな」
突然そう切り出されたのは、昨年度の二月のことだった。年度末に控えた定期演奏会で、ついりは一年生の中で唯一トランペットのソロパートを割り当てられていた。
放課後、音楽室に居残って練習をしていたついりのところに彼女達は現れた。同じ吹奏楽部の部員達。
「え、な、なんで……」
言葉に詰まり、オドオドとした態度をとってしまった。
ついりは、彼女達のことが得意ではなかった。
その態度や言動が、自信に満ち溢れているからだ。中学生になってから部活で演奏を始めたついりと異なり、彼女達は幼い頃から楽器に触れてきたという。子供の習い事に数十万もする楽器を買い与えるような家庭で育った、違う階級の人達。資産に恵まれている人間特有の、余裕と自信。何でも思い通りになる、と信じて疑わない彼女達の態度が、ついりはどうしようもなく苦手だった。
「次の演奏会、私のパパも見に来るの。同じ一年生が一人だけソロパートを吹いていたら、どうしてうちの娘にはそれが無いんだ、ってことになるでしょう?」
それはあなた達が練習をしないからだよ、とついりは密かに思った。
左手にできているトランペットダコを無意識にさすり、下唇を噛む。
そんな訳の分からない理由で、努力して手に入れたソロパートを手放したくはない。
けれど、彼女達に向かってついりは自分の気持ちを強く言うことはできなかった。
下を向いて押し黙っていると、先程とは別の子が口を出してくる。
「それにさぁ……柄井さん、部費も払ってないんでしょう?」
ついりの顔がカッと熱くなった。
ドクドクと心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる。胸が苦しくなって、息をうまく吸い込めない。
「うち、親が会計係やってるから知ってるんだよね。先月も、先々月も払ってないって」
「たった数千円なんだから、ちゃんと納めた方がいいんじゃない? ただでさえ、柄井さんは部費で買った楽器を使わせてもらっている訳だからさぁ」
使わせてもらっている、という部分をことさらに強調した目の前の少女は、その頬に薄らと笑みを浮かべていた。嘲笑だった。
ついりは顔を真っ赤にして、目の前の譜面をそそくさと片付け始めた。
部費を払っていないのは事実だ。父親が突然なリストラにあった事もあり、ここ数ヶ月はどうしても部費の支払いが出来なかった。
自分の家の家計が苦しいことはついりも知っている。両親はどうしても必要なところから優先順位をつけ、部活動に支払う分を後回しにした。
でも、その支払いは待ってもらえるように山賀先生には話を通してある。こうやって同級生に糾弾されるような謂れはないはずだ。
「おい、逃げんなよ」
冷たく放たれる言葉と同時に、ついりの肩がぐっと押された。
がしゃん、と譜面台が倒れる音がして、音楽室の床に、譜面が散らばった。譜面には、一枚一枚に丁寧に書き込みがされている。定期演奏会で使う為に、ついりが準備したものだ。
ついりの肩を押した生徒がその譜面を拾いあげ、仲間と目を合わせてクスクスと笑った。
「あんたみたいなのに、優雅に演奏する権利なんてねえんだよ」
「ちゃんと自ら申し出て辞退しておいてね、柄井さん。私には自信がありません、とでも言えば、あの顧問なら納得するだろうから」
少女達は連れ立って音楽室を出て行った。
誰もいなくなった音楽室で、ついりは床に散らばった残りの楽譜を拾い集めた。
しゃがみ込んで、一枚ずつ手に取った。そのたびに涙が溢れてしょうがなかった。
楽器を吹くのが好きだった。中学生の時は部活がすごく楽しくて、夢中になって練習した。
いつから、こうなってしまったんだろう。どうして、私だけなんだろう。部費が払えないのは私のせいだろうか。家庭のせいだろうか。ついりは、父親が慣れない夜勤で苦労している事を知っている。母親の体調が優れない事を知っている。二人のせいにすることはできない。
じゃあなんで、私だけがこんな仕打ちを受けなければならないのか。
この部の中で、私だけ。
泣き疲れて、涙も枯れ果てる頃には、もう音楽室は暗くなっていた。
自宅に帰り着いたついりは、制服を着たまま自分のベッドに突っ伏して眠った。
あの奇妙な夢を見たのはその夜の事だった。
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