第一章「夢の帆船」⑫

 灰色に薄汚れた灯台の麓、俯き加減に海を見つめている人影にナツキは近づきながら声をかけた。

 少女の表情は、影に隠れていてよく見えない。ナツキが、彼女を柄井ついりだと判断したのは、その背格好がよく似ていたからだ。

「ついりん……大丈夫か?」

 少女は学校の制服を着ていた。けれど、それはナツキと同じ高校のものではなかった。紺色のシンプルなデザイン。ついりの部屋のコルクボードに貼られた写真に映っていた。ついりが中学生の頃に着ていたものだ。

 少女の左手には、金色の楽器が握られている。トランペットのようだった。

「なぁ、ついりん?」

 再度少女に声をかけたナツキの耳に、クスクスと笑う女の声が聞こえる。

 その笑い声は目の前の少女が発していた。

「何が、大丈夫だと思うの? ナツキさん」

 はずむような楽しげな声で、少女はナツキに聞き返した。ナツキはギョッとする。その声はついりと似ていたが、あまりにも印象が異なっていた。思わず半歩、後ずさる。

「大丈夫なわけないよ。こんな私で。可愛くない柄井ついり。スタイルの悪い柄井ついり。家が貧乏な柄井ついり。吹奏楽部にいられない柄井ついり。ああ、なんて私は可哀想なんだろう。こんなに頑張っているのに」

 自らを卑下する言葉の内容とは裏腹に、その声はウキウキと楽しげだ。

 少女は手にしていたトランペットを砂浜に投げ捨てた。そのまま軽やかな足取りで歩を進めて、ナツキとの距離を詰める。

 ぐい、と少女の首が突き出された。いまにも鼻と鼻がくっつきそうな距離で、ナツキは初めて面と向かってその少女の顔を見た。

 少女は笑っていた。紅い亀裂が弧を描いたように口角が歪に上を向いている。

 その顔は柄井ついりのようにも見えたし、そうではないようにも見えた。ナツキは目を凝らして少女の顔を注視したが、何故か意識が集中できなかった。

 笑っていることは確かに分かるのに、それが誰なのか、という点において何一つその顔を認識することができないのだ。

 少女の手がナツキへと伸びる。ひどく冷たい指が、ぬるり、と頬を撫でた。

「あぁ、なんて綺麗な顔。みんなに称賛されたでしょう。みんなが愛してくれたでしょう。羨ましい。嫉ましい。妬ましい。ねぇ、ナツキさん。ソレ、私にちょうだい?」

 後ずさりをしようとしたナツキは異変に気が付いた。

 身体が、動かない。

 足どころか、指の一本すらビクともしない。身体の周りから、何かが強く押し付けられているような感覚だった。

 動かないナツキの身体に少女の冷たい手が触れ、這いずりまわる。頬から首、鎖骨を辿って胸から脇へ。両の手をナツキの背中に回した少女は、抱きつくような体制になった。

 ナツキの鼻腔に、少女の身体から甘い匂いがたちのぼっている。痺れるような、精神の中枢を刺激する蠱惑的な香り。あの黒い香と同じ匂いだ。

 背中から臀部を辿り、少女はしゃがみこんで、ナツキのスカートの中に手を伸ばした。

 膝の裏から腿を伝って、内腿から鼠蹊部を撫でていく。その探るような手つきに、ナツキは思わず顔をしかめる。

「……ふぅん。やっぱり、こっちにはないんだね」

 少女がつまらなそうにポツリと呟く。

 ナツキは目を見開く。

「おま…え……ついりんじゃないな……」

 歯を食いしばるように言葉を捻り出したナツキを見て、少女はケラケラと笑った。

「さぁね。でも、あなたがここに囚われているのは、間違いなく柄井ついりの意思だよ。あの子があなたを、竜堂ナツキを、ここに導いた」

 ナツキの身体から手を離し、少女は立ち上がってクルリと身を翻す。その眼前には、暗い海が広がっている。

「ここは此岸の際だよ。人ならざる世界との境。人間という生き物は単純で愚かだね。少しつついただけで、取り返しのつかない過ちを犯す。ここから何人が片道切符の旅に出たと思う? みんな、あの子がやったんだよ。なんてことはない理由でね」

 笑い話でもするような口調で少女は饒舌に語っていた。その声は、いつの間にか幾重にも重なっていた。低くしゃがれた声。妖艶な女の声。幼い子供の声。洞から響くような低い男の声。何人もの人間が同時に話しているようだ。

 ナツキは自らの身体に触れた少女の指を思った。この世界で希薄になりかけていたナツキを、少女の指は確かに触れて弄った。強い干渉力を持ったその指は、海の向こうから漂う冒涜的な気配に呑まれることなく存在している。強大な奔流にも逆らうことの出来る、圧縮された魂の質量。

(いったいあの中に、何人いるんだ)

 ナツキは密かに、言葉を失っていた。

 数え切れないほどの怨念のような思念体が、ついりの形を真似たあの少女の形に集約されている。

 少女の顔を認識できない理由が、その時ナツキには分かった。

 それが目まぐるしく流転しているからだ。

 常に誰かであって、同時に誰でもない。ぐるぐると周りながら形を変える走馬灯のように、目の前の少女は「存在」を少しずつズラしている。

 ただその意思が強い感情によって統率されているから、表情だけが如実に読み取れるのだ。

「ねぇ、ナツキさん。私、あなたが持っているものが欲しいの。どこに隠したのか、教えてもらえないかな」

 少女の指が、つつつ、とナツキの白い首筋を撫で、その顎をくいと持ち上げる。

 自らの意思で身体を動かせないナツキは為されるままになっている。

「俺は……どこにも、なんにも隠してねぇよ……へへッ」

 ナツキは虚勢を張り、鼻で笑ってみせる。

 少女はその笑いが不快だったようだ。亀裂のような笑みをおさめ、ナツキの首をグッと掌で掴んだ。

「ぐぇ」と潰れるような声が、ナツキの細い喉から漏れる。

「忌まわしき一族。その最も濃い血統。同じ血を何百年もまぐい合わせ、この世に産み落とさせた、月鱗の最後の苗床よ……」

 シワがれた老婆のような声で、少女はぶつぶつと呪文のように言葉を唱えた。

「それがおまえだ、竜堂ナツキ。その忌まわしき力、我らに渡せ。一族をも滅ぼしたその力。我らが扱うに相応しい……」

 地の底から響くような低い声でそう言うと、少女は掴んでいた喉元からその手を離した。

 カハッと乾いた声で咳き込み、ナツキはその場所に倒れ込む。

 息も荒く地面に突っ伏しているナツキの黒髪を、少女は片手で掴み、力任せに引き上げた。

 苦悶の表情を見せるナツキの耳元に口を近づけ、妖艶な女の声で囁きかける。

「ねぇナツキさん。力はどこに隠したの。教えてくれたら、もとの世界に返してあげてもいいわよ」

 艶かしい手つきで、少女はナツキの頬を撫でる。虚な表情でその指を視線で追いかけるナツキを見て、少女は再び紅い亀裂のような笑みを浮かべた。

 べちゃ、という汚らしい音がした。

 少女は自分の顔の中央に手をやった。

 そこはべったりと生暖かい液体で濡れている。

 ナツキは「へッ」と鼻で笑ってみせた。少女の顔に自分に唾を吐きかけたのだ。

「お……まえが、何のこと言ってんのか、ぜんっぜんわかんねえよ、バーカッ……!」

 それはナツキにできる最大限の抵抗だった。

瞬間、強い力で地面に叩きつけられた。少女の怒りを買ったのだ。

「ぐあっ」という声が漏れるより先に、ナツキは下腹部に触れる熱い何かの存在を感じた。

「ッうあああああああああああああ!」

 ナツキは叫んでいた。

 痛い、なんて言葉では表現できない。強い衝撃が身体を貫く。けして触れられてはならない場所を、弄られている。それは焼け付くような温度でほとばしりながら、下腹部から胸元の方へとせり上がってきていた。

 少女の手が、ナツキの体内に侵入している。ずぶ、ずぶと掻き分けるようにして手が動くと、尋常ではない激痛がナツキを襲った。白目を剥き、涎を垂れ流して悶絶するナツキを、少女は道端の小石でも見るような表情で眺めている。

「……ナツキさんにはわからないみたいね。だったら、身体の隅から隅まで探してあげる。どれだけ時間がかかってもね」

 ぼそりと少女は呟いたが、その声はもうナツキの耳には届いていなかった。暗い海の浜辺で悲鳴のような叫喚が鳴り響いていた。

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