第一章「夢の帆船」⑨

「世話が焼けるんですよ、あいつは!」

 三角巾で頭を覆い、クリーム色のエプロンをスーツの上から身に付けた秋人が、床に座って必死にアイロンをかけていた。

 アイロン台の上にあるのは、チャコールグレーのセーラー服である。昨日、ナツキが盛大にきな粉を付着させていたものだ。

「まぁまぁ、ナツキちゃんも悪気があってやってるわけじゃないんだからぁ」

 そんな秋人を少し上から見下ろすように、椅子に座ったまま湯呑みを携えているのは、漢方藍那堂の店主、藍那ナイアだった。

 藍那堂の二階は秋人とナツキの居住スペースだが、普段は一階にいる店主もこうやって時々くつろぎにやってくる事がある。

 土曜日の朝。店を開ける前に軽くお茶でも、という様子で今日も藍那はフラリと二階に現れたのだ。

「悪気があったらそりゃあもうね、許しませんよ。なんて言うか、あいつはガサツが過ぎるんです。特に、食べ物を目の前にすると、他がどうでも良くよくなる、というか」

「ナツキちゃんって元々そういうモノだからねぇ。逆に考えれば、あそこまで社会に適合しているのって結構すごい事だと思うだよぉ?」

 そういって藍那は湯呑みに口をつけた。深緑色の湯呑みには、行書の文字で「極楽蜻蛉」と書かれている。

「そんなもんですかね。まぁ、僕は自分の目的が果たせればそれで良いですから。あいつも、そうだと思いますし」

「うーん、私としては、君たち二人はとっても良いコンビだと思うんだけどなぁ」

 藍那はにへら、と力の抜けた笑みを浮かべて手に持った煎餅を齧った。

「僕は嫌ですよ、あんなに食べカスをポロポロこぼすようなヤツは」

 そう言う秋人の目の前で、藍那は煎餅の欠片をポロリと床にこぼした。悪びれもせずにゆっくりとお茶を飲んでいる藍那を見て、秋人は大きくため息をつく。

 この家のキッチンには、常に何種類もの菓子が常備されている。ナツキが絶え間なく街中の菓子屋を巡って、新作だのなんだのを勝手に補充してくるからだ。

 時々思い出したようなタイミングで藍那が二階に上がってくるのは、ナツキがセレクトしたお菓子のストックが、キッチンにたっぷりとある備蓄されていることを知っているからだろう。彼女が今手にしている煎餅も、ナツキが選んで買ってきたものだ。

 ナツキにしろ、藍那にしろ、自由に食べては、自由に部屋を汚す。そのたびに秋人は目を三角にして指摘するのだが、最近では二人ともそのリアクションを面白がってワザと粗相しているような節さえあった。

「で、そのナツキちゃんは、今日はどこにいるのかなぁ。授業はお休みでしょう?」

 藍那が尋ねる。

「あぁ、昨日の夜から外泊しているんですよ。そうだ、藍那さんにちょっと見てもらいたい写真があるんです。昨日、ナツキの奴が送ってきたものなんですけど」

 正確無比なアイロンがけで皺ひとつなくなったセーラー服を壁にかけ、秋人は自分のスマートフォンの画面を藍那に見せた。

 そこには、茶色い奇妙な形の物体と、紙箱に入った黒いお香が写っている。

「ふぅん……こっちは香皿だねぇ。少なくとも既製品じゃないことはわかる。それに、何かしらの呪いがかかっているね。この状態だとスイッチがオフになってるみたいだけど」

 一目みただけで、藍那はつらつらと所見を述べる。いつもは眠そうにトロンとしている眼が、ほんの少し大きく見開かれていた。

 藍那堂は漢方薬局の名を冠しているが、その一方で怪しげな珍品奇品を取り扱う骨董屋としての一面を持っている。

 というか実質的な売り上げや稼ぎは、ほとんどその怪しげな珍品のやり取りによって発生しているといって過言ではなかった。

 店主である藍那が何処からともなく集めてくる珍品は、もう店の倉庫には入りきらない程に溢れかえってしまっている。

 店舗としてのスペースである藍那堂の一階には、その怪しげな品の数々が白い布切れ一枚を被せられて、あちらこちらに積んであるような状態だった。

 あまりに無秩序に放置しているので、痺れを切らした秋人が、自ら商品のリスト化を申し出た程である。

 モノの管理や片付けはあまり進んでやらない藍那ではあったが、多くの珍品を自ら集めてきただけあって、その目利きの能力は確かだった。

「香の外箱はデタラメだねぇ。表面にはインドのものだってあちらの言葉で書いてあるけど、中身が違う。流石に香の種類までは現物を確かめてみないと分からないけど、こんな細工するぐらいだから、多分マトモじゃないと思うよぉ」

「とすると、やはりこれがなんらかの影響を及ぼした、と考えるのが妥当だな……」

 考え込む秋人の表情を、藍那はじっと見つめる。

「秋人君、またナツキちゃんと二人で妙なことに首突っ込んでるの?」

 藍那の問いに、秋人は小さく頷く。

「必要な事ですから」

「まぁ、そうなんだけどねぇ」

 湯呑みに少し残っている冷めたお茶を、藍那はぐいっと喉に流し込む。

「こういうモノに関わる時は、それなりの注意を払うようにするんだよぉ。道具って誰かが使うために作られたものだから。そこには必ずヒトの情念が込められているからねぇ」

「……それはもう、痛いくらいに」

 分かっています、と続けようとした秋人の右手に握られていたスマートフォンが、ポコンッと妙に明るい電子音をあげる。

 通知は、ナツキからの連絡を知らせるものだった。

「いま目が覚めました。変な夢は見ませんでした」というメッセージがトーク画面に表示されている。

「なんだ、妙に丁寧な言葉使って。大体いつもスタンプひとつで済ませるんですけどね、あいつ」

 ポチポチ、っと画面を操作して秋人からもナツキにスタンプを送る。

 首を傾げているカエルのイラストだ。傍の文字には「いつカエル?」と書かれている。

「ナツキちゃんから?」

「ええ。さっきのお香がらみの話なんですが、良くない悪夢が広がっているみたいで」

 秋人は、昨晩まとめた一連の話を、藍那にも伝え聞かせた。

 藍那は初め、興味深そうに耳を傾けていたが、徐々に首を傾げ始めた。秋彦の説明に、何か引っかかる部分があるようだ。話を続ける秋彦は、訝しげな藍那の様子に気づいていない。

「あのお香は、吹奏楽部の顧問の教師が部員全員に配っていたものらしいんです。そして香を使っていた生徒が眠りに陥った……。僕の方では、その教師を当たってみようかと思っています。何かしら、出てくるとは思うので」

「う〜ん、なんか変な感じがするなぁ」

「え?」

 意表をつかれて、秋人は怪訝な顔で藍那の方を向いた。

 藍那は大きく首を傾げながら、のんびりとしたいつもの調子で口を挟む。

「なんかねぇ、すごぉくソレっぽいんだよ。月の暦で眠ってしまう子供達とか、怪しいお香とか。あまりにも出来すぎていて、なんだか出来の悪い脚本みたいで」

 秋人には、藍那が何を言いたいのか、よく分からなかった。

「でも、例の部員達が満月の夜から目を覚さなくなったのは事実ですよ。ご家庭にも確認しましたし、間違いありません。香や香皿も、生徒達の部屋に使った後があったみたいですし……」

 昨晩、ナツキ達を送り出してからすぐに秋人は行動を起こした。可能な限りの手段を用いて、眠りに落ちた生徒達の近辺を調査したのだ。既に遅い時間ではあったが、案外に生徒達の家族は協力的だった。眠りに落ちた我が子を救うのに、ワラにもすがるような思いだったのかもしれない。

「だからね、起きている出来事に筋書きみたいなものを感じて、ちょっと気持ち悪いんだよ。こういう演出を誰かがしているのだとしたら、その人は誰に、どうしてこれを見せたいんだろうねぇ」

 空になった湯呑みをテーブルにコトリと置き、藍那は自分の膝をポンっと叩いて立ち上がった。

 壁にかけられた時計に目をやりながら、

「そろそろお店を開ける時間だねぇ。私はもう下の階に行くけど、秋人君はどうするんだっけ?」

 秋人は釈然としない表情を浮かべていたが、その気持ちを振り切るように声を出す。

「とにかく、僕は例の教師を調査して来ます。色々考えるのは……その後で」

「とにかく、私は君たちが無事に帰ってきてくれればそれでいいよ。気を付けてねぇ」

 ゆっくりと後ろ手を振りながら、藍那は一階へと降りていった。

 秋人はなんとも煮え切らない思いで、その背中を見送った。

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