第17話 巴アオイ


 巴アオイが初めて彼を見かけたのは日課のランニングをしている時だった。


 走ることが好きだった彼女は中学生になり自然と陸上部になった。もちろん長距離の選手を選んだ。中学生のため長距離といっても3000mでアオイとしては少々物足りなかったが、走り終わった後の達成感と爽快感が彼女はたまらなく好きだった。入部して練習を重ねていくと次第にタイムが縮んでいき、いわゆるエースと呼ばれる存在になった。


 その頃からだろうか、周りのプレッシャーというものを感じるようになったのは。周囲の人たちが自分に期待してくれている。はじめはそれが嬉しくてもっとタイムを縮めようと努力した。しかしタイムというものは永遠に短くなっていくものではない。


 彼女自身、スポーツをしている以上どこかでスランプや伸び悩みがくることは分かっていた。けれど実際にそれがやってくると思うように走れなくなった。それと同時に周りの期待というものが自身に纏わりついて身体が重たくなっていくような気がした。


 顧問も、担任の先生も、両親も、クラスメイトも、部活仲間もみんな良い人たちばかりで巴アオイは環境に恵まれていた。彼らはアオイにタイムを上げろとは言わなかった。それでもその瞳に期待が宿っていたのを彼女は知っていた。だからこそ頑張りたかった。優しい人たちの期待に応えたいと。


 そして中学最後の大会はあっさりと終わった。ベストタイムでもワーストタイムでもない。普通に戦って、普通に負けたのだ。


 悔しかった。


 何も残せなかった。


 走るのが楽しかったことがすごく昔のことのように思えた。彼女はタイムのために走って、周りの人たちのために走って結果として自分を見失った。部活に入って走る理由が彼女には出来た。けれどそれは理由なんてなくても走っていた彼女を超えるものでは無かったのだ。


 それでも日課のため彼女は春休み中もランニングを続けようとしていた。高校に入学したら再び陸上部に入って走るために。走る理由ができた彼女はためらってはいなかった。


 そんな時だった。巴アオイが夜島弥勒を見つけたのは。


 朝の公園でジャージを着て、安っぽい運動靴でただひたすら走っていた。その走りには力強さが、生命力が溢れていた。


「すごい……」


 純粋に彼女はその走りに感動した。


 彼のフォームが特別優れているという訳ではない。速さも平均よりは速いだろうが本格的に競技をやっている人間には敵わないだろう。それでも彼の走っているその姿にアオイは魅せられた。


 気づいたら彼女は弥勒に声を掛けていた。今思えば初対面の人に対して無茶苦茶なやり方だったと恥ずかしくなるだろうが、あの時の彼女は必死だったのだ。


 そして一緒に走る約束を取り付けた。アオイは嬉しくなった。彼と一緒に走れれば自分もまた速くなれるかもしない。その溢れ出る力強さを少しでも自分のものに出来るかもしれない。そう思った。


 そこからの朝のランニングタイムはアオイにとって今までで一番楽しい時間だった。夜島弥勒は走るごとに速くなっていった。彼がアオイの走りから学んでいることは明らかだった。それが彼女にはたまらなく嬉しかった。まるで自分も弥勒と一緒に速くなっていってる気がしたからだ。


 そして高校に入学した。陸上部に入った。タイムを計った。何も変わってなかった。


 何も変わっていなかった。中学時代のタイムから速くなった訳でも、遅くなった訳でもない。たださぼらずに走り続けていたからタイムは落ちなかっただけ。


 泣きたかった。


 それも当然のことだろう。夜島弥勒が速くなったからといって巴アオイが速くなる訳ではない。彼のそばにいると速くなった気がしていただけだ。でもその事実を目の当たりにすると辛かった。無性に彼に会いたくなった。彼のそばにいれば元気をもらえるような気がしたから。たとえそれが一時の幻だとしても。


 入学してからも彼と一緒のランニングは続けることになっていた。ついでに登校まで一緒だ。その約束をした入学式の日の自分をアオイは褒めてあげたい気分だった。


 入部してから一週間ほど経って部活にも慣れてきた。相変わらずタイムに変動はないが、息苦しさというものは想像よりも少なかった。中学の頃とは環境が変わったことと、夜島弥勒がいること。この二つのおかげなのだろう。巴アオイはもう一度、頑張れそうな気がしていた。


 だから気合を入れてランニングシューズを新調しようと思った。普段は部活があるから彼と一緒に遊ぶチャンスが少ない。そのための口実でもあったが、本心でもあった。ついでに彼の靴も選べたらなんて下心もあった。


 彼が待ち合わせ前に他の女の子と遊んでいたのにはちょっとムカムカしたが、アオイは弥勒の彼女でもないので文句をいう権利はない。ちょっとデリカシーがないよ、と注意はしたがこれくらいは許されるだろう。


 買い物はとても楽しかった。一緒にランニングシューズを選んで、一緒にクレープを食べて。陸上一筋だった彼女にとって初めての異性との触れ合いは恥ずかしくも楽しい時間だった。


 あの化物が現れるまでは――。


「はぁ、はぁ……!」


 大した距離も走っていないのに息が上がる。普段あれだけ走っているのに肝心な時にはまるで役に立たない。苦しくて怖かった。


 あの化物は鳥のような見た目をしていた。ただし生物というよりはロボットのような機械的な印象を受けた。公園でその化物に襲撃を受けてからアオイはずっと混乱状態にあった。


 あの化物は何なのか。なぜ私たちを狙ったのか。なぜ彼は的確に動けたのか。なぜあたしは逃げることしかできないのか。


 今の彼女にできることは助けを呼びに行くことだけだ。それは誰よりも彼女が一番理解している。彼はアオイを逃がすために囮になったのだ。それでも本当に彼を一人あそこに残してきてしまって良かったのか。そんな考えが彼女の頭から離れない。


 走って公園を出て駅へと向かっていく。その時だった。目の前に突然、街路樹が倒れ込んできた。


「きゃっ!」


 反射的に一歩下がったおかげで難を逃れた。そして目線を木が生えていた方へ向けるとそこには化物がいた。


 見た目はカンガルーの様であった。しかし明らかに普通の動物ではない。無機質な肌に背中には小さい羽らしきもの。頭には光輪が浮かんでいる。さっきのやつの仲間だ。直感的にアオイはそう感じた。


「(に、逃げなきゃ……)」


 再び膨れ上がってる恐怖と戦いながらアオイは足を動かす。そのまま倒れている街路樹とカンガルーの化物を避けるように近くの路地へと逃げ込む。


「Ziiiiii‼」


 化物が雄たけび声を上げた。それは威嚇のようにも宣戦布告の様にも聞こえた。カンガルーはそれから態勢を低くしてから、一気に加速した。


「うそっ……⁉」


 このままではすぐに追いつかれる。そう思ったアオイは更に走りに力を込めるがスピードはあまり上がらない。


 あっという間にカンガルーの化物はアオイに追いついて右足で蹴りを入れてきた。アオイはなんとかそれを飛ぶようにかわした。しかしそのまま地面に倒れ込んでしまう。すぐにカンガルーが近づいてくる。絶体絶命だ。


「(弥勒くん……ごめんなさい……)」


 アオイがそう思った時だった。突如、別の場所から女性の声が聞こえた。


「ガーネットシード!」


 その声と共に赤い石のようなものがたくさんカンガルーへと降り注ぐ。大量の攻撃を喰らったカンガルーはたまらず後ろへと下がる。アオイは声がした方向に顔を向けた。


「祈りの力は明日への希望! メリーガーネット!」


 そこにいたのは魔法少女だった。赤と黒の衣装に身を包んだ自分と同い年くらいの女の子。彼女はこちらに向かって叫ぶ。


「ここはワタシに任せてあなたは早く逃げないさい!」


 彼女はアオイを心配してそう言った。しかしアオイはその場から動けない。いや動かない。もし彼女があの化物を倒せる存在なら、公園にいる彼を助けられかもしれない。そう思ったからだ。


「何してるの⁉ 早く逃げなさい!」


 いつまでも逃げない彼女に業を煮やしたメリーガネットは声を少し荒らげる。


「ちょっと待つでやんす」


 メリーガーネットの声に反応したのは、いつの間にかアオイのそばにいた謎の小動物だった。イタチのぬいぐるみのような見た目をしており、なぜかハート型のサングラスを掛けている。


「あんた何で隠れてないのよ」


「それどころじゃないでやんす! 彼女から大きな力を感じるでやんす!」


 変な語尾でしゃべる小動物にポカンとしているアオイ。メリーガーネットもまたその発言により動きが止まる。そして小動物はアオイの方を見てこう言った。


「君にはあっしと契約して魔法少女になってもらうでやんす!」



 この瞬間から巴アオイの人生は大きく変わった。

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