第2話 戻ってきた日常


 微睡みから目覚めるように弥勒は目をゆっくりと開ける。視界に入ってきた景色は今までのファンタジーなものとは違い、見慣れたものだった。


 自身の身じろぎに合わせて軋むベッド。薄緑色のカーテンはエアコンからの風により僅かに揺れている。テレビは消えたままで、ベッド脇にある置き時計は午後12時45分を指している。


「本当に帰ってきたのか……?」


 何年かぶりの自身の部屋に懐かしさと安心感を覚える。ベッドから降りて机の上で充電しているスマホを手に取る。画面をつけるとそこには2021年3月26日となっている。それは弥勒が異世界に召喚された日と一致している。


「あっちでは何年も過ごしたのに、こっちでは15分くらいしか経ってないのか」


 異世界で過ごしたあの濃密な数年間が、地球ではたったの15分だったということに少し寂しさを感じる。まるであの体験が幻だったかのように。


 これは弥勒が知らないことではあるが女神が気を利かした結果であった。元の世界に戻って数年も経過していたら生活が立ちいかなくなってしまう。そのためなるべく召喚した時間に近い時間帯へと送り返したのだ。時間に干渉するのは女神といえどやや反則的な事象ではあるが、世界を救った人間に対するせめてもの感謝という訳だ。


「やばい安心したらめっちゃ腹減ってきた!」


 地球へ無事に帰ってこれたことで気が緩み、お腹がぐぅと鳴ってしまう。弥勒は部屋の扉を開けて、階段を下りてリビングへと向かう。リビングに入るとそこでは母親が洗い物をしていた。肩までの茶髪を揺らしながらご機嫌そうに食器を洗っている。


 弥勒は思わず立ち尽くす。数年ぶりに見る母親の姿に涙がこぼれそうになる。それをなんとか堪えて母親に声をかける。


「母さん、なんか食い物ある?」


 その言葉に母親が洗い物の手を止めてこちらを振り返る。そこには呆れの表情を浮かべている。


「あんた、さっきお昼ごはん食べたばっかりでしょ」


 時間は昼の12時50分なのだ。本来なら昼食を食べて一時間も経っていない。弥勒が異世界から帰ってきたと知らない母親からしたら当然の言葉だった。弥勒もその指摘に思わず声が詰まる。


「えーと、昼飯が足りなかったんだよ。なんかないの?」


「ご飯3杯も食べたのにまだ足りないの⁉ 明日の朝用に買っておいた菓子パンなら冷蔵庫に入ってるけど」


「ならそれでいいや」


 弥勒は冷蔵庫から菓子パンを取り出す。入っていたのはチョコクロワッサンだった。弥勒は朝はパン派で、その中でも甘いものが好きだった。母親としても朝ごはんがパンで済むのは楽なため菓子パンを常に冷蔵庫にストックしている。


「それでパン最後だから。あんた後で明日の朝の分、自分で買いに行きなさいよ」


「わかった」


 そう言いながらパンの袋を雑に破り、大きく一口かじる。口の中にじんわりとチョコレートの甘さが広がる。異世界ではなかなか味わえなった甘さである。コンビニで100円ほどで売っている普通のパンであるにも関わらず弥勒はその美味しさに感動する。


「うまっ」


 今更ながら日本という国の偉大さに感謝してリビングにあるソファーにそのまま腰掛ける。なんとなく自分の部屋に戻るのは憚られた。それは久しぶりに家族に会ってすぐに一人になるのが嫌だったからだろう。


 チョコクロワッサンを食べながら弥勒は今までの人生を振り返る。そもそも夜島弥勒は転生者である。前世での名前は思い出せないが普通に学生をしていた。そして交通事故で死んだ。その後、何の因果か夜島弥勒としてこの世界に転生した。


 それから弥勒は前世とあまり変わらずに過ごしてきた。都心にほど近い街の一軒家に両親と共に暮らしており、勉強をそこそここなしつつ休みの日はゲームなど趣味を満喫。非常に恵まれた生活といえるだろう。また弥勒は容姿にもわりと恵まれていた。やや目つきがきつくはあるものの整った顔に短めに揃えた黒髪。身長は170cmほどで成長期のため、まだこれからも伸びていくだろう。実際に異世界で過ごした数年間で180cmほどまでに身長は伸びている。地球へ帰ってきたために成長した身体はリセットされているが。


 そうした日々を送っていた弥勒は中学を卒業した次の日に突如、異世界に召喚された。女神から異世界の救世主としてダンジョンに潜ってほしいという依頼を受けて弥勒はあることに気づいた。


 あれ、これって前世でやってたゲームの『異世界ソロ☆セイバー』と同じじゃね?


 ここでようやく弥勒は自身がゲームの世界に転生していたということに気づいた。この『異世界ソロ☆セイバー』というゲームは「ヒーローズテイル」というメーカーによって作られたアクションゲームだった。ストーリーとしては異世界に召喚された主人公ミロク・ヨシマが一人でダンジョンに潜って龍神を倒し、世界を救うというものだ。


 200層まであるダンジョンを仲間を連れずに一人で攻略するという人を選ぶようなゲームだったが、ダンジョン自体の作りこみは素晴らしく一定の人気はあった作品だ。弥勒も前世ではこのゲームを結構やりこんでいた。


 そんな訳で異世界に呼び出されてからここがゲームの世界だと気づいた弥勒は必死にダンジョンを攻略した。ダンジョンを攻略して龍神を討伐すれば女神から褒美が貰えると分かっていたからだ。原作の主人公は女神の使徒になることを願い、地上と神界を繋ぐ架け橋となった。しかし弥勒は地球へと帰ることを望んだ。


 その願いも果たされ、無事に地球へと帰還した弥勒は今こうしてチョコクロワッサンに舌鼓を打っている訳だ。異世界の食事もそれなりに美味しかったが、やはり地球のものが一番だと弥勒は改めて思う。


「でもスターラビットのシチューは美味かっ……はっ⁉」


 向こうでお気に入りだった料理の名前を出した瞬間、目の前にシチューがなみなみと入った寸胴が現れる。それに驚き目を見開く弥勒。


「ま、まさか向こうで手に入れた力がそのまま……?」


 慌てて寸胴をアイテムボックスへと収納しなおす。すぐに後ろを振り返り今の瞬間を母親が見ていなかったか確認する。母親は洗い物を続けており、こちらの異変に気付いた様子は無かった。それに弥勒は一安心し、今の出来事について思考する。


「(アイテムボックスの能力がそのまま使えるという事は、女神から与えられた加護がそのままこちらの世界でも使える可能性が大きい。どこかで一度確認したほうが良いな)」


 異世界では龍神と渡り合った弥勒。その気になれば人間などワンパンで殺せてしまう。もし自身の能力に自覚がないまま拳を振るったりしてしまえば殴られた相手が爆散することは確実だ。うっかりで家を壊したり、道路を陥没させたりしてしまうかもしれない。そうなっては洒落では済まないと気づき弥勒はすぐに能力の確認をしようと心に誓う。


「明日の朝のパンを買いに行ってくるわ」


 急いでパンを食べきり、母親にそう告げる弥勒。袋をゴミ箱へと捨てて立ち上がる。外の様子に目をやり上着は必要ないだろうと考える。4月も近づいてきており、気温も冬から春へと変わりつつある。桜もすでに関西の方では開花し始めているだろう。外は陽が射しており、寒くはなさそうだった。


「だったらついでに牛乳と卵を買ってきて。あと挽き肉とピーマンとナスと玉ねぎも」


「多いな!」


 全然ついでじゃない量に思わずツッコむ弥勒。自分にがっつり買い物をさせよとしている母親に思わず笑ってしまう。殺伐とした異世界から平和な世界に帰ってきた実感を再び感じる弥勒。


 母親から買い物代を受け取り玄関で靴を履く。体感的に数年ぶりに履くスニーカーの軽さに思わず感動する弥勒。地球へと帰ってきてからつい何にでも感動してしまう。このままではコンビニの自動扉が開いただけでも感動しそうだと思う。


 玄関を開けて外に出る。久しぶりの見慣れた景色に再び感動しそうなのを堪えながらスーパーへと向かう。家の周辺を歩くのは数年ぶりなもののしっかりと道は覚えていたようで迷わずに進む。スーパーに向かう途中に小さな公園がある。そこで能力の実験をしようと考える。


「はてさて、これからどうなることやら……」


 もし能力がそのまま使えたらもしかしたら面倒ごとに巻き込まれたりするかもしれない。大きな力は災いを呼ぶ。それは漫画でもゲームでも映画でもよくある話だ。弥勒はこれからの事を考え、思わずため息を吐いた。

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