case 3 失った男 1 「前兆」
俺には婚約者がいた。
過去形だと言う事でお気づきかもしれないが、今はいない。婚約者がいたのは先月までの話。
そうだな。突然そんな所から話されても何がなんやらわからないだろう。少し億劫だが順を追って話すとしよう。
そう、あれは確か一年か二年か、まあ、結構前の事。
当時、俺は仕事が上手くいかず、同僚には馬鹿にされ、上司には散々こっぴどく叱られていた。
いや、それは今もかわらないか。
なんにせよ、その日も会社で叱られ悶々としつつ帰り道を歩いていたんだっけ。
そうそう。おれには試食品で小腹を満たし食費を浮かせるためにほぼ毎日立ち寄るデパートがあるんだが、そのデパートで彼女に偶然出会った。
いや、偶然では無いのかもしれない。ここのところ、妙に視線を感じるとは思ってはいたが、まさか彼女が俺をずっと見つめていたとは。こんなにも美しく、顔もスタイルも整っており、たたずまいからは性格の良さが滲み出ている。そんな彼女がこの平凡を絵に描いたような俺に熱い視線を送っているだなんて夢にも思わないでは無いか。
だからその日、俺は勇気を出して声をかけた。
「やあ、いつから俺を見つめていてくれてたんだい。」
俺はあまりキザにならないよう気をつけながら、彼女に初めて話しかけた。
「さあ、いつからだったかしら。でもずいぶん前からよ。」
その声は水晶でてきた鈴を軽やかに転がしているかの様な、愛らしく、儚げな、柔らかく透き通った声だった。
もうその声を聞いた時点で、いや姿を見た時からかもしれない。俺は恋に落ちてしまったのだ。
しかし、それと気取られないように平静を装いなんとなしに会話を進めた。
自分のこと、相手のこと、趣味や好み、嫌いな上司など、お互いの情報を交換し合った。
会話は弾み、時計を見るとけっこうな時間が経っており、ずいぶんおしゃべりをしていたねと彼女に言うと、
「あらホント。楽しい時間はあっという間に過ぎるものね。そうだ、どうかな。またここでお話するっていうのは。」
「いいのかい。いやあ嬉しいなあ。君のような美人とだったらいつでも大歓迎だ。」
また会う約束を取り付け、さっきまでとは打って変わって軽やかな足取り、ウキウキした心で家に帰る。
俺にもやっと春がきた。その日は何度もそう考え、彼女の笑顔を思い出すたび興奮してなかなか寝付けなかった。
そのため、翌日の仕事は寝不足の頭でぼーっとしており、いつも以上にミスをしていつも以上に怒られてしまったが、帰りのデパートでの事を考えるとそんな事は些細なことであり、どうでもいい。
それから、どれだけかな。確か、こんな会話だったはずだから、半年ほど経ったある日。
「俺たちもそろそろ知り合って半年だ。たまには帰りのデパートだけでなく、休みの日によそで会わないかい。や、別にここに不満があるわけじゃないよ。でも、そう毎日同じ洋服店を眺めて歩いていても、そんなにしょっちゅう商品の入れ替えがあるわけでもないと思ってさ。」
「あら、そうね。確かにあらかた見て回ってしまったからどこにどんな物が置いてあるか鮮明に思い出すことができるものね。いいわ。じゃあ、次はどこで会おうか。」
不機嫌になるわけでもなく、にこにこと笑顔で応えてくれた。ようし、綺麗な花が咲く公園に行き、そこで告白してみようかな。
何て答えてくれるだろう。
受け入れてくれるだろうか。
拒絶されるだろうか。
もし、告白して振られたら、俺は仕事の効率が今以上に落ち、最悪クビ、その後命を自ら断つことになるかもしれない。
いや、俺にそんな度胸はない。それに彼女の方が先に熱い視線を送ってくれていた。万が一という言葉もある。ここは思い切って、
「じゃあ、公園はどうかな。花がたくさん咲いていて海が見える。えーと、なんて言ったかな。」
「ああ、あそこね。綺麗なお花がたくさん咲いていて、大きな噴水のある。あの公園は夕方に行くととてもロマンチックで大好きなの。嬉しいわ。」
よかった、快諾してくれた。
それではまたその日にと、彼女と別れ家路に着く前にあれやこれやこっそり店を周り、今より少し自分がましに見えるよう、身につけるものを色々買って帰った。
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