case 2 ある星の綺麗な夜

 濃紺の夜空を星々で飾り付け、ひと瞬きする度に優しい言葉を投げかけてくれる様な、そんな夜。

心なしか夜空が滲み、ぼんやりとした光はさながら遠くから眺める繁華街のライトやネオンの様な、澄んだ河辺に遊んでいる、たくさんの蛍の淡い光を見ている様な、柔らかく温かい風景が眼前に広がっている。


 そんな夜空を眺め、水のゆらめく音を肌で感じながら、彼は今日の出来事や、今日までの楽しかった日々に想いを馳せている。


 そう、最初は心の中にそんな気配は少しもなく、

重ねてきた年数もそれなりに違ったため、ただ愛くるしいと思うのみであり、それ以上でも以下でもなかった。


でもいつからだろうか。


 何度か時間を共にするにつれ、次第にソレは彼にとって穏やかな春の陽だまりの様に映り、彼の心を捉えて離さなくなっていた。

心の中は陽だまりに包まれ、いつの間にか彼の心はそれで満たされていた。


 決定的な事は何もない。

何もなかったが、いつの頃からか小さな心地よい違和感が心の中に沸々と湧き上がっているのを一番遠いところで感じはじめていたのである。

そして、満たされた心からは華やかな気持ちが溢れる様になっていたのだ。


 しかし、ソレを彼が手に入れることも、また彼の全てを託すことさえできないことを、偶然にも知ってしまったのである。


 彼は、ソレと彼をよく知る者に打ち明け、何度かその事について言葉を交わしていた。

その者は優しい言葉をくれていたのに。

それなのに、その者がとった行動に、彼はありもしない黒ずんだ燻りを感じたと錯覚してしまう。

その者はそれまでと変わらぬ日常を送っていただけであったが、彼はその者に対し少しのトゲを刺し、無碍に扱ってしまった。

感情が滲み出さない様に抑え、言葉を選び茶化したつもりであったが、今になって振り返ってみればなるほど抑え切れておらず、気分を害させてしまうのも当然だと納得し、反省し、申し訳なさと後悔の念が込み上げてくる。


 いよいよ今日。ダメだとわかっていながらも、彼は陽だまりを手に入れる為に全てをソレに打ち明けた。


 結果はやはり、拒絶であった。

ソレの前では明るく振る舞い、悲しみは心の底に隠す様努めたが、ソレが見えなくなり、孤独の中に身を置くと、自然と暖かい水が頬を伝う。


 そしてつい先程の事。

彼はもう、やり直しの効かない年月を過ごしており、先には灰色の、くすんだ細い崖の様な一本道しか見えなくなっている。

絶望、悲しみ、嘆き。

それらがドス黒い渦となり、彼を飲み込んでしまう。

そんな中、彼は渦から逃れようと、安寧をもたらす禍々しい希望を手に取った。


ソレと彼をよく知る者への謝罪の念を込め一つ。

無碍にしてしまった後悔と自責の念に一つ。

また、心に満ちるその陽だまりに一つ。

楽しかった日々を思い出しその日々に一つずつ。

華やかだった過去の気持ちに一つ。

心の奥底の黒ずんだ淀みに一つ。

脳裏に焼き付いたソレの喜怒哀楽に一つ。

彼が流した涙一つ一つにそれぞれ一つ。


 たくさんの一つが重なり、いつしか手のひらから溢れ落ち、それでも彼は全てを残らず受け入れた。

判断を鈍らせ、時に悩みから解放してくれる物と共に。


 もう意識は遥か濃い霧の中に去り、何かが頭に浮かんでは沈み、浮かぶ前に沈み、深く考える事はできない。

抗うべきなのか。いや、よそう。

瞬きさえするのが億劫だ。

指先に力を込めようと試みるも鉛の様に重く、非力な彼には重さを感じるのみである。


 目の前に広がる、滲んだ淡い星々をぼんやりとただ眺めることしか出来ない。


 どれほどの時間をそうしていたのだろうか。或いはさほど時間は経っていないのだろうか。

そんなことは、すでに彼にとって縁がない。

相変わらず優しく瞬く星々の光はそこにあるのに、彼にはもう届くことさえ叶わない。

少し前まではたしかに存在していた彼の世界はひどく濁り、留まり、そして彼の世界は沈みゆく。


あとには小さな泡沫が浮かび、夜空の星が一つ増えた。


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