第290話 それもまた一興
夜の歓楽街、色鮮やかな灯りが街を彩り、賑やかな人々が行き交う。
花街でも最も古く由緒あるお茶屋の前に、二人の雅な歌舞伎者が花魁を巡って喧嘩をするという。
快楽街に訪れる者たちが、そんな面白い話を聞き逃すはずがない。
「こんなところで暴れられたらたまったもんじゃないよ!」
女将が叫び声をあげる。
お茶屋の窓からは、花魁とお付きの新造がこちらを見下ろしていた。
新造も次代の花魁として期待される者で、アオイノウエに負けぬほどの美姫だ。
「おいおい、余裕だねぇ〜。俺よりも女が目に入るのかい?」
真っ赤な着物の上半身を肌けさせて、喧嘩の準備を整える。
女将に囃したてられて、舞台を屋外の小さな広場へ移動する。酔った男や、しなだれかかる女、ガヤガヤと騒いで叫ぶ男など、騒々しいことこの上ない。
期待と興奮に満ちた雰囲気が漂っていく。
ボクは風雅を象徴する白装束に身を包み、もう一方は情熱を宿す赤装束で目を引く。
互いに歌舞伎者として悠然と立ち、凛とした面持ちで互いの視線をぶつけ合う。
少し離れはしたが、アオイノウエの姿がハッキリと見えている。
息を呑む観客たちが黙って、静かな瞬間が流れた。
鋭い視線と共に、真っ赤なトラが疾走した。
豪快で獰猛ながら美しさを感じさせる動きに観客が歓声を上げ始める。
二人の身体は瞬く間に花びらが舞うように躍動する。
広場を縦横無尽に駆け巡り、優雅な舞いと華麗な体術が交錯し、観客たちは息をのむばかりだ。
赤と白の装束が空間を彩り、二人の歌舞伎者。
広場では花火のような美しい芸術が炸裂し、まるで空中で舞う花々のような軌跡を描く。
派手な飛び道具や鮮やかな術など一切必要としない。
一瞬の隙もなく闘いを繰り広げていく。
観客たちは歓声と称賛の声を上げ、戦いの様子に息を飲む。
それぞれの動きに魅了され、美しさと力強さが絶妙に交差する光景に圧倒される。
戦いは激しさを増し、二人の歌舞伎者の姿は瞬きすることなく舞い続けた。
その美しい戦いは、まるで舞台上で花が咲くように、煌めきながら進んでいく。
だが、いつまでも続くことはなく。
終わりは突然に訪れた。
赤い獣が動きを止めて息を吐く。
「やめだ」
「どうした?」
「あんたは喧嘩をする気がねぇ。そのくせ、俺の攻撃を全て避けて、カウンターで寸止めを決めやがる。悔しいが俺の負けだ」
ボクはバルに体を預けて、楽しんでいた。
ダンよりも喧嘩慣れしたトラは、その巨大な体躯に似つかわしくない細やかで、繊細な喧嘩をする男だ。
「咲き誇る花が、風に揺れるのは自然の摂理。一時の敗北など、ただの夏の風よ。次は必ず華麗に舞い上がるさ!」
着物を整えたトラは、側に置いていた酒壺を持ち上げる。
「いいのか? アオイノウエは?」
「女を諦めるなんて、俺の中にそんな選択肢はないさ。この心に宿る花は、常に咲き続ける。たとえ振り向いてもらえなくても諦めねぇよ。それにアオイノウエの美しさがあんたに抱かれても損なわれるわけじゃないさ。例え嵐が来ようと俺の心は揺るがないぜ」
一つ一つの言葉に意味を持たせたようなトラの言葉は、周りの人々を惹きつけた。
女たちから吐息が聞こえる。モテるのだろう。
「そうか、なら遠慮なく」
ボクはトラに背中を向けて、お茶屋に向かって歩き出す。
「ちょっと待て!」
「うん?」
立ち去ろうとするボクを止めるトラ。
ここはカッコよく立ち去っていくのが粋だと思うんだがな。
「なんだ?」
「ここは、俺のカッコ良さに譲りたくなるところだろ?」
「……」
あまりにも思っていた男らしさとはかけ離れた言葉に、ボクは飽きれて言葉を失ってしまった。
「いいだろう。譲るよ。その代わり、負けた時の条件はやってもらうぞ」
「いいよ、いいよ! なんでもやる! お前いい奴だな。ありがとう」
陽気に明るく、お茶屋に戻るトラがアオイノウエの元へと走る。
「よかったんですかい?」
出迎えられたボクは女将を見る。
「ああ、一ヶ月分の金須を奴に請求していいぞ。その代わり、ユリヒメとボタンをつけてくれ」
「なんだい。お客様は悪だね。一ヶ月分なら、二人でも足りないよ。彼女たちの禿と新造も付けるよ」
「そういえば、いなかったな」
「花魁三人のお披露目だよ。余計な子を出してどうするんだい?」
「そういうものか?」
「まぁ、後ろには控えていたけどね」
ボクは女将に連れられて最上階の部屋へと改めて入っていく。
宴会ができそうなほど広い部屋に二十名ほどの女たちと食事や飲み物が用意されている。
「下は十六から、上は二十二まで。好きな子を選んでくださいません。禿は芸を仕込んでいる最中ですから勘弁してくんな」
楽器を持って、演奏の手伝いをして、食事を運んでいる。
新造たちがメインで歌を唄って、踊りを舞う。
お茶屋の遊びを楽しむうちに夜は深けていく。
ふと、隣に座りユリヒメが席を譲れば、アオイノウエが座っていた。
「トラはどうしたんだ?」
「へぇ、丁寧にお断りさせて頂きました」
「おや? どっちでも良さそうな顔をしていると思ったが?」
「へぇ、旦那さんに勝てるほどの男なら、それもええと思っとったんですが、なにや醜態を晒して譲ってもらって、情けのぅなりましたな」
ボクは一気に杯を飲み干した。
「そうか、それもまた一興」
「ふふ、旦那さんは、ホンマもんの歌舞伎者やね」
それ以上を語ることなく、ボクは彼女たちの舞を見て食事を楽しんだ。
三人の花魁全員から、お誘いを頂いたが、その日は十分に楽しんだので、丁重にお断りしてお茶屋を後にした。
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