第12話 絵画

 ゲートを出て元の世界に戻ると、シュルルッと音を立てて、腕や手が元の形に戻った。私は心の底から安堵した。あのまま体が戻らなかったら、誰にも姿を見られないよう引きこもるしかなかったところだ。


 私は花澄と別れて家に着いた。

 叔母さんは今日は遅番だから、まだ仕事から帰ってきていない。これ幸いと、私は部屋着に着替えて、赤く濡れた制服を洗面台で丹念に洗った。大方色が落ちたところで、ハンガーにかけて自室に干す。除湿機を引っ張り出して来て制服のそばに置き、スイッチを入れる。これで、明日朝までに乾くといいんだけど……。


 さて、叔母さんが帰るまでに家事手伝いだ。

 叔母さんは今朝に夕飯を作ってから出て行ったので、私が料理をする必要は無かった。

 洗濯物はまだベランダに干してあったので、取り込んで畳んで仕分けをする。

 それからは暇だったので、小説を読んで過ごした。ページをめくる指先はちゃんと人間のものだ。そのことに感動すら覚える。


 何故だろう、ユラユラ界にいた時は、腕が変形したことを良いことだとして受け入れていたのに、今はこうして自分が人間らしくありたいと強く願っている。

 不思議だ。どちらが本当の私なのだろう。


 やがて叔母さんが帰宅した。私たちは料理を温めたりご飯をよそったりして食事の準備をした。

 私が味噌汁を運んでいると、叔母さんが急に、「疲れてない?」と言い出した。

「うん? 大丈夫だよ」

 そう言ったが内心ぎくりとしていた。今日は異界で妙なことに巻き込まれたり、体の形が変形したり、驚きと恐怖の連続だったり、しまいには熱狂したりして、くたくたに疲れ果てていた。だが叔母さんに本当のことを言っても信じてはもらえまい。


 そう思った時、台所に忽然とクラゲの怪物が現れた。

「あー」

 私は言った。

「でもちょっと頭痛がするかも……」

 何故か、いつもより痛みはだいぶましな方ではあったが。

「……高校生活も始まったばかりだし、慣れない環境で疲れが溜まっているんでしょ。ちゃんと休みなさい」

「はい」

 私たちは向かい合ってテーブルにつき、いただきますをした。ユラユラ人はそこら辺を漂うように移動して、窓をすり抜けて夜の住宅街へと去って行った。

 私は一息ついた。

 明日も学校がある。しっかり食べて寝て、疲れを取らなければ。


 次の日の放課後、私は美術部の活動に参加していた。

 使っている絵の具は、主に赤。それから白と、紫と、黒。

 ユラユラ界の様子を再現しようというのが、私の目的だった。

 赤い水の上に白い宮殿のある風景を描きたかった。

 昨日ユラユラ界にいた時は散々な目に遭っていた気がするが、ユラユラ界そのもののことは嫌いになれなかった。最初は異様な風景だと思っていたあの地も、慣れてみれば好ましく思える。


「それ、何?」

 毬絵が絵を後ろから覗き込んで言った。

「ええっと」

 聞かれた時の言い訳は既に考えてある。嘘をつくのは心が痛むが。

「この前、変な夢を見たんだよね。その時の景色を思い出して描いてる」

「ふーん。面白いことするね」

 鞠絵はしげしげと私の絵を眺めた。

「何か不気味だな」

「そうかな」

「うん。冴子ってそういうファンタジーな絵も描くんだね。意外」

「そう?」

「最初は風景画を描いていたから、そういうのが好きなのかと思った」

「あはは……確かに普段はこういうの描かないけど、ちょっと気分転換にね……」

「そっか」


 毬絵はぶらぶらとその場を去った。私は改めて自分の絵を見た。

 確かに不気味だ。これまで何とも思わずに記憶の中の風景を模写していただけなのだが、言われてみれば異様な絵である。


 何だか、常識と非常識が、私の中でごっちゃになっているような気がしてきた。

 花澄といると判断が鈍るのもそうだけれど、花澄といなくてもこうしてユラユラ界のことを考えている自分がいる。

 急に不安になってきた。そのうち、正常な感覚を失ってしまいそうな……。


 私は急いで筆を取った。早くこの絵を描き上げてしまおう。そして次はいつも通り、風景画か静物を描くのだ。人間らしい感覚を手放さないように。私がちゃんと人間でいられるように。


 ……神様になったからって、役目をこなす義理は無い。私はただ、訳も分からずに巻き込まれただけなのだから。今後ユラユラ界に深く関わる必要もないだろう。

 当たり前の高校生活を送りたい。入学前に思い描いていたような、穏やかで楽しいスクールライフを。

 高校生なんて、青春真っ只中じゃないか。怪奇現象に巻き込まれて、妙なことに時間を使うなんてもったいない。

 私は普通の高校生になりたい。それって、至極当たり前の欲求じゃない?


 毬絵ともっとお話をしよう、と思った。

 花澄といるとどうも調子が狂う。その点、毬絵と話していると、話題は常識的なものになるから助かる。自分がしっかりとこの世界に足をつけて生きているという気持ちになれる。

 私は席を外して、毬絵が作業している机を訪れた。毬絵は胸像のデッサンをしていた。

「上手だね」

 私は声をかけた。

「ありがとう」

「私、人物画は苦手だから、人の顔とか描けるのは凄いなと思うよ」

「冴子も練習してみたら? 何事も練習すればそれなりに腕が上がるよ」

「そうだね……。次はいつも通り風景画を描こうと思ってたけど、私も胸像のデッサンをしてみようかな」

「お、じゃあ、一緒にやろう。私はしばらくこの作業やるつもりだし」

「うん。色々教えてね」

「任せなさい」

「ふふふ」


 私たちは笑い合った。

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