第9話 日常
私は美術室で絵を描いていた。
水彩画で、夕陽に染まった近所の海の様子を表している。真っ赤に輝く海面から、港に停泊している古びた小舟まで、丹念に描く。
絵は好きだ。描いている間は無心になれるし、完成させた時は達成感があって喜ばしい。
お母さんに会いに行ってから二週間、花澄は一度も、ユラユラ界へ行こうとは言わなかった。私からも特に言い出したりはしなかった。
だから私は、ごく普通の、平穏無事な高校生活を送っている。
校内でユラユラ人を見かけることはあったけれど、だいたいの場合は花澄が私のそばにいてくれるので、頭痛に悩まされることも少なかった。
今のところ、花澄は私にくっついて美術部に入り、奇天烈な絵を生み出している。要はスケッチの時点でまるでなっていないので、先輩方に色々と教えてもらっているといったところだ。結構苦戦しているらしく、先輩方も手を焼いているようだ。
私は美術部の他の部員とも交流を深めた。せっかく新しい環境に身を置いたのだから、花澄以外の人間ともおしゃべりをしたりして、交友関係を広めたかったのだ。
だいたいの美術部員とは楽しくおしゃべりができるようになってきたのだが、中でも同学年の女子、
毱絵は私と同様に、絵を描きもするし、本や漫画を嗜んだりもする。趣味が合うので自然と距離が縮まった。
私は毬絵と他愛のない話をする時間が好きだった。話題はその時によって様々だった。絵の話をすることもあれば、お気に入りの漫画の感想を言い合うこともあったし、高校から電車で二駅先の都会にできた新しいカフェに行きたいだとか言うこともあった。
私は毬絵にとても感謝していた。これまでの学校生活では、いじめられることが多くて友達もいなかったから、彼女が私とおしゃべりをしてくれるだけで本当に嬉しかったのだ。
毬絵との会話は楽しくて、丁度いい息抜きになった。ユラユラ人のことをいっときでも忘れられる時間だった。もちろん、たまたまユラユラ人が近くを通りかからなければの話だけれど。
ある日私は美術室で呑気に絵を描きながら、毬絵と話をしていた。
「あ、毬絵、そういえば私、この間毱絵が言ってた映画の原作、読んでみたんだけど、……内容が全然違ったね。びっくりした」
「ああ、読んでくれたんだね。ありがとう」
毱絵はニッと笑った。
「あれ、映画は、原作のモチーフをそれとなく使って、大衆受けするようなありきたりなストーリーに改変した、って感じだと私は思うよ。正直つまらないというか、作品の本質的な魅力が全く無視されている感じがする」
「うん。さすがに、主人公がくっつく相手まで改変しちゃうのは、もはや別作品じゃない? 私は原作の方が、断然意外性があって好きだと思ったよ。最後に世界滅びるし」
「私もそう思う。原作の方が尖っていて好き。それに、映画の方の、世界が救われるっていうハッピーエンドは、ちょっと原作を冒涜し……」
「ねえねえ」
突然、花澄が割り込んできた。
今までこんな風に話を遮られることはなかったので、私は面食らった。
「毬絵、ちょっと冴子を借りるねぇ」
そう言って私の腕を持って立ち上がらせる。
「ああ、どうぞ」
毬絵はこれを承諾した。
花澄は私の腕を掴んで美術室を出て、ずんずんと廊下を歩いた。途中、ぶよぶよクラゲ姿のユラユラ人とすれ違う。ぞわっと鳥肌が立ち、ズキッと頭痛がした。
「今度は何の話?」
私は頭を押さえながら聞いた。
「今日はユラユラ界で儀式があるんだよ」
「儀式?」
「神様を崇め奉る儀式。見ておいて損は無いよぉ」
「損は無いって……ほ、本当に……?」
「もちろん。冴子は私の言うことを信じてくれるでしょう?」
そう問われると「うん」としか言えない。確かに異界の儀式の見学なんてそうそうできる体験ではない。だが、あの気味の悪いユラユラ人たちと、可哀想なお母さんとが執り行う儀式となると、何かとんでもなく奇っ怪なものを見せられる予感しかないので、気が進まなかった。
それでも私は、花澄についていって学校を後にし、神社まで歩いた。歩くほどに、嫌だなあという気持ちが増していって、鬱々とした気分になる。だが花澄をがっかりさせたくなくて、私は何も言わなかった。
大波神社に着いた。以前のように花澄は水の膜のようなものを出現させる。
「今度はユラユラ人がたくさんいるところにワープするからね、気をつけてね」
「たくさん……」
私はますますげんなりした。頭痛に悩まされるのもいい加減うんざりしていた。一匹いるだけで頭痛がするのに、たくさんいたら私は一体どうなってしまうのだろう。本当に頭がぱっくりと二つに割れるかも知れない。
それに、あの人型のうじょうじょしたものがたくさん集まるとなると、視覚的にも非常に気持ちが悪いに違いない。
気後れする私を引っ張って、花澄は意気揚々とゲートをくぐった。
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