第8話 母親

「は?」

 私は触手に吊り上げられた状態で、衝撃のあまりおののきながら、目の前の化け物と花澄とを交互に見た。

「な……何を言ってるの?」

「だって、言ったでしょう。冴子のお母さんに会いに行こうって」

「いや……私のお母さん、人間だったんだけど。神様なんかじゃないし。こんな……こんな姿じゃなかった……」

 うん、と花澄は頷いた。

「長いこと神様をやっているとね、だんだんそういう姿になってくるんだよねえ。神々しくて素敵でしょう」

 おぞましさしか感じていなかった私は、花澄の発言に唖然とした。それから、そういう重要な情報は先に言ってくれとも思った。だが今は、今だけは、花澄に構っている余裕などない。目の前の怪物を見つめて、問いかける。


「本当に、お母さんなの……?」

「あああう」

「……何言ってるか、分かんないよ……」

「ああああう」

 神様は残った触手で私の頭を優しく撫でた。

「さえこ……」


 顔の部分に当たる真っ黒い穴の縁から、透明な雫が滴り落ちた。

 泣いているのだろうか。

 私は何だか堪らない気持ちになって、ポケットからハンカチを取り出し、神様の涙を拭いた。タオル生地のハンカチは粘り気のある液体でぐっしょり濡れた。神様は、一層力を込めて私のことを抱きしめた。


「ごえんえ」

 神様は言った。

「いといにいて、ごえんえぇ」

 ──独りにして、ごめんね。

 ああ……、お母さんの声だ、と私は直感した。

「ううん」

 私は首を振った。

「お母さんは悪くない。それに私は叔母さんによくしてもらってるから、心配はいらないよ。……お母さんにまた会えて良かった」

「ああああうううう」

 お母さんはまたねばねばの涙を流した。今度はハンカチで受け止めきれず、白いクッションがしっとりと濡れた。


「ねえ、神様、そろそろ冴子を下ろしてくださいな」

 花澄は下から声をかけた。

「例の話をしますから」

 お母さんは渋々といった様子で、私のことをそっと床に下ろした。触手がするすると黒服の中に収容されていく。

 私は自分の目から滲み出た涙を、ぐいっと手の甲で拭った。まだ頭痛は続いていて、立っているとぐらぐらする。


「冴子、よく聞いて欲しいんだけど……」

 花澄は切り出した。

「……何?」

「この神様はそろそろ力が無くなってきてるんだよ。それで私は後継者を探してるんだ」

「へえ……?」


 神様って、そんな短期スパンで代替わりが起きるものなのか。お母さんがいなくなったのは十年前なのに……。私が考え込んでいると、花澄はまたしても突拍子もないことを言った。


「冴子は次期神様に適任だと思うんだけど、どう?」

「……はい?」

 私は耳を疑った。それから祭壇の上に寝転んでいるお母さんを見た。

「ああいう風に、私もなれってこと?」

「うん」

「え、嫌なんだけど……っていうか私は、お母さんを元の姿に戻して、元の世界に帰して欲しいんだけど」

 私が言うと、花澄は私の手をぎゅっと握った。

「神様に選ばれるのはとっても名誉なことなんだよ。それに、あんな素晴らしい姿にもなれるし……。良いこと尽くめだと思うんだけどなぁ」

「それは、そうかもだけど」


 言ってしまってから私はぎょっとした。あの奇怪極まりないユラユラ人たちに信仰されるのが名誉だなんて普通は思わないし、あんな醜い姿になれるのが素晴らしいなんて普通は考えない。良いこと尽くめどころか、悪いこと尽くめだ。なのにどうして、私は花澄の言葉を肯定してしまったのだろう。


「……、やっぱり嫌だよ。断る」

 正気を保つように努力しながら、慎重に返答する。

「あんな風になりたくなんかない。早くお母さんを返して」

 花澄の笑顔に翳りが見えた。

「そっかぁ」

 残念そうに言う。

「最初のうちはそうかもね。でも心配しないで。何もかもうまくいくからね」

 話が絶妙に噛み合わない。花澄には私の言葉が全く伝わっていない。それに、うまくいくってどういうこと? 花澄にとって都合よくことが進むということだろうか? ということは、いずれ私が神様になるのを承諾するようになるっていう意味? 縁起でもないことを言わないで欲しい。

 だが苛々したりはしなかった。花澄を相手に怒ったりなんて、私にできるわけがなかった。だって、花澄は私の友達で、素晴らしい人物で、いつだって私に優しいのだから。私なんかに優しくしてくれる同年代の友達なんて、花澄以外にはいないんだから。


「まあ、今回はしょうがないね。話をするだけに留めておくよ。また来るからねぇ」

 そう言って花澄はお母さんに手を振った。さっきから、花澄の態度は、神様に接するにしては随分とフレンドリーだ。

「またお邪魔するねぇ。代替わりの話はその時にしよっか。それじゃあ、失礼します」

 花澄はくるりと踵を返して、すたすたと部屋を後にした。私は名残惜しく怪物姿のお母さんを見つめていたが、すぐに花澄を追いかけた。


 花澄は円形の部屋の中をどんどこ先へと行ってしまう。

「花澄!」

 私は呼ばわった。

「待ってよ!」

「……ああ」

 花澄は立ち止まった。

「ごめんねぇ、冴子」

 私は花澄のもとまで走っていった。

「お……怒ってるの? 私が話を断ったから……」

「まさかぁ。冴子に怒ったりなんかしないよ。今はちょっと、考え事をしてただけ」

「そう……」

 私はほっとした。

「大丈夫。もう今日は帰るから、冴子のこともちゃんと連れて行くよ」

「ありがとう」

 私は花澄と並んで歩き始めた。

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