第5話 異界

 さて、始業である。放課後が待ち遠しく、時間が異様に長く感じられた。


 その日の授業は、ホームルームの時間が長くとられていて、自己紹介の時間も設けられていた。

 自己紹介は苦手だ。何と言えばいいのか分からないし、目立つのだって嫌いだし、みんなの注目が集まるので緊張する。だが今日は、視界に花澄がいるお陰か、いくらか落ち着いて喋ることができた。

「木嶋冴子です。本や漫画を読むのが好きです。絵を描くのも好きで、部活は美術部に入ろうと思います……よろしくお願いします」

 無難で当たり障りのない、最低限のことは言えたかなと思う。ぱちぱちと拍手を受けながら椅子に座る。


 因みに最後の方に自己紹介を行った花澄の発言はこうだった。

「松原花澄です。動物が好きで、将来はブリーダーとかになりたいと思っています。人からはよく、マイペースだねって言われますねぇ。部活は、中学校では帰宅部だったんですけど、今度は美術部に入るって今決めました。よろしくお願いします〜」

 もしかして、私が美術部に入ると言ったから、花澄も合わせてくれたのだろうか、と私は憶測した。どうしよう、すごく嬉しい。舞い上がりそうだ。クラスでも部活でも一緒にいられるなんて、何という幸福だろう。


 他の授業は、ほとんどが今後のシラバスの確認で終了した。現代文も数学も生物も英語もあったけれど、どれも本格的な話は始まっていない。今後一年間の授業の予定やら何やらを、先生が生徒たちに向けて語る。やや退屈だったが、花澄と同じ空間にいられるだけよしとしよう。


 授業中、ぼうっとしているとすぐに花澄のことが頭に浮かぶ。何でこんなに花澄のことばかり考えてしまうのだろう。不思議なくらいだ。でも花澄は実に魅力的な人物なのだから、仕方がないとも言える。


 私は時折、遠くの席に座る花澄に目をやりながら、放課後までの長い時間をそわそわとやり過ごした。私はどちらかというと真面目な方だから、授業を、それも初めての高校での授業を疎かにするなんて、普段なら考えられないことだった。それなのに今日は放課後のことが頭から離れてくれない。空想に耽るのを止められない。

 ユラユラ界。どんな不気味なことが待っているかも分からない。様々な懸念が頭の中に浮かんでくる。だが、その度に花澄の頼もしさを思い出して、勇気を出そう、と思い直す。


 さて、ようやく待ちに待った放課後になった。因みに美術部は今日は活動があるらしく、新入生は部活見学もできたのだが、それより何より花澄との約束が優先だ。私はかばんに筆記用具やノートを入れて、帰り支度をした。するとすっかり支度を終えてやる気満々の花澄が近寄ってきた。

「ごめん、ちょっとだけ待ってて。すぐ終わるから」

「いいよぉ。楽しみだねぇ」

「うん」

 支度を終え、花澄と一緒にローファーをはいて学校から出る。坂を下って大通りに出て、左に進む。潮風の香る大通りを五分ほど歩くと、そこが大波神社だ。白波神社と違って手入れが行き届いており、鳥居の朱色も鮮やかで、樹木もきちんと剪定されていて、本堂の茅葺き屋根もぴかぴかの新品だった。


 花澄は鳥居の前に仁王立ちして、鳥居全体を上から下までぐるりと見渡した。そして言った。

「行くよぉ。見ててね」

 何をするんだろう、と私は不思議な気持ちで花澄を見ていた。花澄は堂々と大きく腕を広げた。すると鳥居の真下の空間が、ぐにゃりと歪んだように見えた。

「えっ?」

 何だろう、何が起こっているのだろう。

 次第にその歪んだ空間は、透明な水の膜が張ったようになっていった。私は瞬きもせずにそれを見守った。花澄がこんな魔法みたいな芸当ができるなんて、びっくりだ。

 だがすぐに、花澄なら何でもかんでもできるんだろうなと、妙に納得した。


「じゃあ、この中に入るよ。ついておいで〜」

 花澄は私の手をむんずと掴むと、水の膜のような入り口に突っ込んで行った。膜は生暖かくてぶにょぶにょしていたけれど、感触が気持ち悪いのは一瞬で、すぐに通り抜けることができた。


 私が瞑っていた目を開けると、目の前にあるのは大波神社の境内ではなかった。

 血の色をした見渡す限りの水たまり。靴で踏み入ると深さは一センチほどだと分かった。空はおどろおどろしい紫色で、入道雲みたいな黒雲が浮かんでいる。太陽のようなものは見当たらず、何となく薄暗いのだが、それでも遠くの方まで視認できるくらいには明るい。

 まごうことなき異界だ、と私は身震いした。

「ユラユラ界へ、ようこそ〜」

 花澄が楽しげな口調で言った。

 これが、ユラユラ界、と私は改めて思った。とうとう来てしまった。

 どうしよう、この空間に満ち満ちた不穏な雰囲気のせいか、脈拍が速くなる。手の先が冷たくなる感覚もする。


 私の不安を察知したのか、花澄は私の前に進み出てにこっと笑った。

「大丈夫だよ。私がついてるからね」

「あ、……うん」

 すると本当に恐れも何もなくなって、不安も掻き消えてしまう。花澄がいるといつもそうだ。負の感情がみんなぼやけてなくなってしまうのだ。実に摩訶不思議な友人である。

「行こっか」

 花澄は再び私の手を取って、赤い池の上を進み出した。

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