第2話 入学式

 翌日、私は眠い目をこすって、朝食のコーンフレークとトマトの切ったやつを摂って、身支度をした。

 叔母さんに買ってもらった新品の制服。紺色のブレザーと灰色のスカートがかっこいい。でも、着たところで、ちっともわくわくしなかった。

 昨晩の恐怖の感情が、べったりと胸にこびりついている。あのぶよぶよを見た時の恐怖が。そのせいで、新しい生活が始まるというのに、不安と期待の入り混じった浮き立つような気持ちになど、とてもなれない。


 叔母さんはもう仕事に出ている。私はシロちゃんに行ってきますを言うと、暗い気分で家を出た。


 ここは海辺の田舎町だ。バスに乗って、漁港やら防波堤やらの脇をひたすら進んだ先に、今日から通う高校がある。

 バス停に着いた。海沿いの大通りから外れて住宅街の方に入り、坂を登る。

 そこにも、いた。

 昨晩のと全く同じ外見の化け物が、今度は二匹。

 私はひゅっと息を吸ったが、周りの生徒たちは誰も化け物には気づいていない。中には化け物のいる場所を貫通して歩いていく生徒もいる。

 私は凍りついたようになってしまった。頭痛もひどい。だがここで延々と立ち尽くしていては、不審がられるし、入学式にも遅刻してしまう。だから、表面上は何もないかのような顔つきで、頑張って体を動かして、化け物のそばを通り過ぎて、学校の敷地内に入った。


 案内板に沿って、入学式の会場である体育館へ足を運ぶ。緑色のシートが敷かれた館内にパイプ椅子が整然と並んでいる。これは並べるのに苦労しただろうなあとか、どうでもいいことを考えた。

 そしてよく見ると、体育館にも化け物が何匹もいた。みなそれぞれにちょこまかと細い足を動かしている。私は呻いた。

 どの席に行こうとしても化け物に阻まれる。どうしたらいいんだろう。絶望的な気持ちで、どこへ行くのが一番ましかを考えていた時だった。


「あのう、もしかして、ユラユラ人が見えているの?」

 背後から声をかけられて私は飛び上がらんばかりに驚いた。

 話しかけてきたのは、私と同じく新品の制服を身にまとった、背の低い女子生徒だった。まつ毛が長くて、鼻筋が通っていて、肌も綺麗で、まるでお人形さんみたいな愛らしさがある。私はいっとき彼女に見惚れていたが、すぐ我に返って質問をした。

「あの、ユラユラ人って……何ですか?」

「そこのぶよぶよした、クラゲもどきのことだよぉ」


 驚きだった。あれを見る人が自分以外にもいて、偶然この場所でその人に会うことができるなんて。


「あの、あれ、あなたも、見えるんですか」

「うん。見えるよぉ」

 間伸びした声で答えられる。

「あれがいて困ってるんでしょ? 私がどかしてあげるから、一緒に座ろう」

「どかす……?」

 触れられもしないし、意思の疎通も図れないのに?

 女子生徒はつかつかと一匹の化け物の元に近づいて行った。私は頭痛を我慢しながら、恐る恐るついていく。

 女子生徒は化け物の前に立つと、小声でこう唱えた。

「ぱ、む、じ、よ」

 そして人差し指で出口の方を指差す。すると化け物は女子生徒の指示に従って、ふらふらとその場を離れた。

 私は目を丸くしてその光景を見ていた。


「じゃ、座ろうか」

 女子生徒は柔和な表情で笑って、パイプ椅子に座った。私も隣の席に腰をかける。今や私は花澄に尊敬にも似た感情を抱いていた。

「私、松原花澄まつばらかすみって言うの」

 彼女はにこやかに自己紹介をした。途端に私は胸が温かくなるのを感じた。

「私は、木嶋冴子きじまさえこ……です」

「これからよろしくねえ、冴子」

「うん、よろしく……」

 私は感慨深い気分になった。こんな私でも友達ができるんだと思うと、嬉しくて仕方がなかった。これまではいじめられてばかりで、同年代の人とはほとんどまともな会話をして来なかったから。

 私は、気になっていたことを花澄に尋ねた。

「あの、ユラユラ人? って、どういうもの……?」

 確か花澄はあの化け物をそう呼んでいた。

「あいつら、みんなユラユラ界からやってきたんだよぉ」

 花澄はこともなげに言った。だが、あまり説明になっていない気がする。

「ユラユラ界って……?」

「うーん、異界、みたいな感じかなあ?」

 異界。そんな言葉、今までの私だったら、馬鹿げた妄想だと切り捨てたに違いない。でも現に怪奇現象に直面している今なら、素直に信じられた。


「あの、私、あの化け物に困ってて。その、どかす方法、教えてほしいんだけど……」

「うーん」

 花澄は困ったように笑った。

「冴子にはまだできないと思う」

「えっ、どうして……」

「それはねぇ、冴子がまだユラユラ界に馴染んでないからねぇ……」

「どういうこと?」

「うーん、何て言えばいいかなぁ。冴子はまだ……」

 花澄は言いかけたが、突然話題を逸らした。

「あ、吹奏楽部の演奏が始まるよ」

「えっ」

 花澄の言う通り、体育館の舞台の横で、指揮者が聴衆にお辞儀をしているところだった。拍手が巻き起こる。

 私にはまだ色々と花澄に聞きたいことがあったが、おとなしく式典が終わるのを待つしかなさそうだった。

 体育館に、金管楽器の高らかなファンファーレが鳴り響いた。

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