異界ユラユラ

白里りこ

第1章

第1話 化け物

 夕暮れ時の小さく寂れた神社で、私は化け物に出くわした。

 人の頭くらいの大きさの、半透明な黒いぶよぶよした物体。そこに、五十センチくらいのカイワレダイコンみたいな頼りない足がいくつか生えている。シュールな造形の異形。


 私は猫を抱き抱えてその場に立ち竦んでいた。化け物はふらふらと覚束ない足取りで境内を移動している。

 気味が悪かった。心臓がばくばく言っている。頭痛や耳鳴りまでし始める。気がおかしくなりそうだ。

 私、このまま死ぬのかな。そんな考えが脳裏をよぎる。それは、十年前にお母さんが消えた状況と今の私が重なるからだ。


 ここ白波神社には、地元の人なら誰でも知っている禁忌がある。といっても簡単なもので、本堂の裏には絶対に足を踏み入れてはいけないというものだった。私が六歳の時、お母さんはこの禁忌を破った。飼っていた猫が本堂の裏に逃げ込んでしまったので、助けに入ったのだ。そして翌日、お母さんは布団の上から忽然と姿を消していた。

 まるで、神隠しに遭ったみたいに。


 たった今私は同じことをした。私のことを引き取ってくれた叔母さんの家で飼っている白猫が逃げ出したので、捕まえるために、白波神社の古びた本堂の裏にまで入った。そして出てきた途端、このぶよぶよした怪物に出くわしたのだ。


 やがて頭痛が耐えがたいほどになってきた。頭が割れそうだ。早く逃げなければ、と思った。この化け物のいるところから一刻も早く離れなければ。私は震える足で走り出した。化け物がいる場所を大きく迂回して鳥居をくぐる。そのまま一目散に叔母さんの家まで帰った。

 頭痛は、次第に無くなっていった。


 両親がいない私は、母方の叔母の家に引き取られてそこで暮らしている。叔母さんはたまにそっけないけれど優しい人物で、ちゃんと愛情を持って私を育ててくれた。お陰で明日から私は進学して、高校に通うことができる。


「そう。シロちゃんを捕まえてくれたの。ありがとう」

 叔母さんは食卓で焼き魚をほぐしながら言った。叔母さんは仕事だったから、あの時は家にいなかった。

「ううん、元々は私が逃がしちゃったせいだし」

 私は首を振る。夕刊を取りに玄関を出た瞬間に、運悪くシロちゃんが飛び出してしまったのだ。

「まあ無事ならそれでいいよ。事故とか無かったんでしょ」

「うん、まあ……」

 私は口ごもった。

 神社の裏に入ったこととか、変な化け物に遭遇したこととかは、打ち明けられなかった。叔母さんを心配させたくはなかったのだ。

 勝手に気まずい気持ちになった私は、急いで食事を終わらせて立ち去るために、ワカメの味噌汁をさっさと飲み干し、白米をいちどきにたくさん口に頬張った。


 私は以前からこういうところがあった。他人に悩みを相談するのが極端に苦手なのだ。

 例えば、私には友達と呼べる人がいない。学校では長らくいじめを受けながら育った。でも、叔母さんや先生を心配させたくなくて、いじめの件は誰にも相談しなかった。クラスメイトに暴力を振るわれてできた痣も、なるべく見せないようにしていたっけ。


 だからこの夜も、結局私は誰にも何にも言わないまま、どきどきしながら布団に入った。次の瞬間には死ぬのかも知れないと思うと、恐ろしくて眠れない。

 それでも疲れていたのか、いつの間にか微睡んでいた。ふと違和感を覚えたのはそれからしばらく経ってからだ。また頭痛がし始めた。はっとして目を開けると、常夜灯の光の中で、あのぶよぶよが佇んでいるのが見えた。

 一気に冷や汗が出た。

 消される、と思った。


 だが頭が痛いばかりで、何も起こらない。私は小一時間ほど固まっていたが、意を決して、小声で話しかけた。

「……出て行って」

 化け物は反応をしない。

「消えて」

 ぴくりとも動かない。ただ私を見下ろすばかりだ。目がどこにも無いから、本当に見ているのかは不明だけれど。

「あなた、私を殺しに来たの?」

 化け物はやはり何もしない。立っているだけ。私の頭痛はどんどんひどくなる。頭が真っ二つに割れてしまいそうだ。これは、もうすぐ死ぬから、ここまで痛むのだろうか。どんな風に死ぬんだろう。このまま硬直した状態でこの怪物に息の根を止められるくらいなら、せめて私も最期の足掻きがしたい。

「出てってよ!」

 私は強い口調で言い、枕を投げつけた。

 枕は化け物のぶよぶよの部分に確かに当たったはずなのに、するっと化け物を通り抜けて、床に落ちた。


 化け物はその触手みたいな細っこい足をうじょうじょと動かした。そして、スウッと闇の中に溶けるようにして消えた。

 途端にぴたりと頭痛が収まる。

「何なの……」

 私は震え声で呟いた。


 結局その後は一睡もできなかった。目を閉じることが恐ろしくてできなかった。その内、空が白み始める。

 もうあの化け物が現れることは無かったし、私は死ぬわけでも消えるわけでもなかった。ちゃんとここにいる。

 それには安堵したが、何だか無駄に疲れてしまった。

 今日の入学式、眠くならないといいけど。

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