第2話
ふらふらとした足取りで家に辿り着いた私は、案外人は身体に染み付いている事柄なら無意識下でも実行できるのだと再確認した。
それはそれとして、一体何故こんなことになってしまったのだろうか。
私もこの先の人生を人を殺した事実を無視して生きていけるほどの胆力は無いと痛感していた。だからこそ彼女の提案はまさに渡りに船といった所だった。
家の無駄にデカイ敷居を跨いで、奥の母屋に向かう。玄関で少し底の擦れたローファーを脱いでいると廊下の先で母親が電話をしている声が聞こえた。
「そうなのよぉ。小林さんも可哀想よねぇ。娘さんもまだ17歳にもなって無かったわよねぇ」
『ホント残念な事件よねぇ。まだ犯人が捕まってないって思うと本当に怖いわぁ』
「本当よねぇ。暫くうちの子も外には出て欲しくないわねぇ。それにしてもあの子こんなご時世に何処に出歩いているのよ。まったく困ったものよねぇ」
吐き気がする。
世間体にしか興味を示さない母親にも、仕事一筋で家庭に無関心な父親にもとっくの昔に愛想は尽きている。
そんなうざったい両親だが、残念なことに現在私は彼らの庇護下にいる。反抗しようにも保護者であると言うことを盾にされてしまうと反論が難しい。
余計な接触は避けるが吉だ。
私は出来るだけ足音を立てずに自室へと急行する。
だけど現実は非情だ。
会いたくない時に限って母親は目ざとく私の気配を察知して廊下越しに声を掛けてくる。
「あら千恵、帰ったの?まったく貴女はこんな時に寄り道なんてするんじゃありません!」
ため息が漏れる。
元々母親との対話をする気がない私は適当に遇らう。
「ごめんなさい、お母様。以後気を付けるわ」
「気をつけなさいね。…あら、ごめんなさいね。うちの子が帰って来たの。本当に人騒がせな子よねぇ」
直ぐに電話に夢中になる母親にこれ幸いと逃げ出す。
自室に戻って乾いた息を吐き出す。
話したくない相手と顔を付き合わせるのは短時間でもしんどい。私はごっそりと気力を持って行かれた感じがして、思わずベッドに倒れこんだ。
夕食は……要らないか。
もう今日はこれ以上家族と会話をしたくないと思った私はそのまま浅い微睡みに堕ちていった。
ブブブッッブブブッ
微睡みから私を引き上げたのはカバンに入れっぱなしにしていたスマホの着信音だった。
画面を確認すると時刻は22時を過ぎた頃だった。確認したスマホの画面には綾からのメッセージがいっぱい溢れていて、私は思わず頰を綻ばせる。
『ちーえー、おーい』
『起きてるー?よね!』
『旅行のことだけどさー、いつが良いとおもうー?』
嗚呼、私にとってはこの世界で彼女だけが穢れを知らない無垢で優しい存在なのだ。
俗な言い方をするなら、私の彼女マジ天使。
自室だから誰にも見られない事をいいことにニヤける口元を隠さない。
少し気持ちを落ち着かせてから返事をする。
『もちろん起きてるわよ』
『そうね。出立はなるべく早くがいいわね』
『明日にはお通夜があって、明後日にはお葬式があるらしいじゃない?』
『それに合わせて行くのはどうかしら?』
『おっけー!』
『じゃ明日の正午に集合しよっか』
『千恵、寝坊しちゃイヤよ?笑』
『因みに行き先は私が決めても良いのかしら?』
『ええ、いつもの場所ね』
『完全にこちらのセリフね。綾こそ明日くらいはちゃんと起きてよ?』
『いいよー!もうぜーんぶお任せしちゃう!』
『あー、ひっどー!早起きしてビックリさせてやるんだから!』
『あ、あとセンセー!バナナはおやつに入りますかー?』
『綾は本当に無計画なんだから…。仕方ないわね』
『楽しみにしてるわね』
『入りません。ふざけてないで早く寝なさい』
『お願いねー!』
『うむ、楽しみにしておくが良い!』
『はーい』
『千恵、おやすみー!』
『はいはい』
『なんでちょっと偉そうなのよ。笑』
『良い子ね』
『ええ、おやすみなさい』
少し微笑ましい気持ちでスマホを投げ出し、そのまま再びベッドに倒れこむ。
綾と会話をするだけで体内の毒素が抜けて行くように感じる。まるで彼女の存在が私の浄化装置のようだ。
そんな下らない事を考えて、少し笑う。
さて、考えを戻そう。今は明日からのことについて考えを巡らせなければならない。
幸い仮眠をとったことで私の頭は冴え渡っている。きっと今の脳のコンディションなら朝まで稼働させたとしても大丈夫だろう。
なんせ時間がまったく足りていない。
明日の昼までに決めなければならないことは無数にある。
私は調べ物をすべく、机の上に設置しているPCの電源を点けるのだった。
「ふぁあー」
眠い。
完全に寝不足だ。
時刻は12時ちょうど、約束の時間だ。
さて、今日の綾はどんな言い訳を聞かせてくれるのだろうか?
ちょっと趣向が変わってしまっている風に思えなくもない。だけど綾が毎回珍妙な言い訳を聞かせてくれるので、私もついつい彼女の言い訳を聞くの事を楽しみにしてしまっているのだ。
約束の時間から30分程過ぎた頃に、綾が大きな旅行鞄を抱えて走ってくるのが見えた。
綾の頭を見るとかすかに寝癖が見て取れたので、彼女が寝坊したことはほぼ間違いないのだがはたして彼女の第一声やいかに。
「ご、ごめん!綾!実はさっきバスのロータリーで偶然落し物をしたおばあちゃんと会ってね、落し物を一緒になって探してあげてたの!」
そう言って彼女はえっへんと胸を張る。
褒めて褒めてと言い張るワンちゃんの様な眼差しで私を見上げてくるものだから、つい私は吹き出してしまった。
「フフッ…、そ、そう。それはとても偉いわね」
「でっしょー」
「ええ、とても。それで?私との待ち合わせをした時に落し物をしたおばあちゃんと出会ったのは今月で何度目かしら?」
「え、えーっと…」
私の言葉にしどろもどろになる綾。もうそれだけで笑えてくる。なにがこんなに面白いのかって、それは彼女が本当にその嘘で私を騙し通せると信じて疑っていない事だ。
過去の過ちから学ばないおバカな彼女を前にすると私の嗜虐心が刺激される。
「今月でなんと6人目よ。よくもまぁ偶然そんな困った人と遭遇できるものね?私なんか人生でそんな体験をした事一度だってないっていうのに」
「ま、まあ?私くらいになると…ほら!トラブルの方からよってくるっていうかなんていうか…」
「本当かしら?例えばそうね。綾の髪の毛がちょっと乱れているのも一生懸命そのおばあさんの荷物を持ってあげてたからなのかしら?」
「そ、それはなんていうか…その……綾の意地悪」
最後には消え入りそうなほどか細くなっていく彼女の声とじっとりと湿った視線に背徳感と快感を覚える。
いけないいけない。
このままじゃ歯止めが効かなくなってしまうので、一度自制することにする。
「ま、まぁいいわ。乗車券は買ってあるから先に化粧室に行きましょう。髪を梳かしてあげるわ」
「うん!ありがとう!」
駅に向かって歩き出す。
気がつくとどちらともなく手を繋いでいた。
お互いの手のひらから伝わる温かさに幸せを感じる。
こうして私たちの長くて短い終わりへの旅は始まったのだ。
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