紫陽花が散る頃に

Mel.

第1話


 その年の梅雨は例年よりも雨がよく降った様に思う。

 その為か肌にまとわりつく空気はじっとりと湿り気を含んでいる。

 湿気にうんざりしながら私は充てがわれた机に身を投げ出し、気怠げにため息を吐く。

 「はぁ…」

 今日は一学期の終わり、終業式だ。

 明日から始まる夏休みに周囲の雰囲気が浮き足立っているのが良く分かる。だけどそんな華やかな空気は私には関係ないと無視を決め込み、寝たふりをする。

 友達が少ない私なりの処世術だ。

 目立たず騒がず、教室の端っこでひっそりと生きていくのが私にはお似合いなのだ。

 「はぁ…」

 カーテンの隙間から差し込む陽光が目に入って鬱陶しい。

 只でさえ陰鬱な気分なのにこれ以上ストレスを私に与えないで欲しいというのに。世界は私の気分など御構い無しに回っていくのだから迷惑な事この上ない。

 昨日も雨が降っていたのだろう。窓の外に咲く紫陽花がかすかに湿っているのが見て取れる。


 いっそ私も物言わぬ花になれたら楽だろうに。


 そんな陰気な思考を巡らせながらHRが始まるのを待っていると、担任が何やら緊張した面持ちで教室に入ってきた。

 その様子があまりにも慌ただしいものだから騒いでいた人達も静まり、担任に注目が集まる。

 担任は暫く言葉を探す様に口をまごつかせていたが、決心したのかやけに神妙な顔で衝撃の告白する。

 「皆さんに残念なお知らせがあります。先週から失踪していた小林幸子さんが昨日遺体となって発見されました」

 その衝撃の大きさにまた教室が騒つく。

 尚も担任は言葉を重ねていく。

 「先生も悲しいです。亡くなった小林さんの事を思うと胸が張り裂けそうです。こんな事をした犯人が憎くて仕方ありません。また後ほど警察の方がそれぞれのお家に事情を伺いに行くと思います。皆さんの中で小林さんについて知っている事がありましたらその人達に話して下さい。それじゃ始業式が始まりますので体育館に移動して下さい。」

 そう言って担任は生徒を廊下に並べ、体育館に行くように促す。

 体育館に行く道すがら、私は周囲からの視線を感じていた。


 何故なら小林幸子は私の親友だったからだ。


 好奇の視線に内心うんざりする。

 体育館では校長が小林の訃報を伝え。冥福を祈る。

 担任の焼き直しの様でいささか滑稽だったが、私も黙って黙祷することにした。

 教室に戻ったら担任からお通夜と葬式の日程が伝えられた。参加できる人は積極的に参加する様にとのことだ。

 現実感がわかないまま下校の時間が来たのでふらふらと帰宅しようと腰をあげると、普段は話もしないクラスメイト達に囲まれて声を掛けられる。

 「ねぇ森田さん。小林さんの事残念だったね」

 残念、と言いながらもその顔には隠しきれない好奇心に満ちていた。

 敢えてその事は指摘せずに、相槌を打つ。

 「え、うん」

 「森田さんは小林さんと仲良かったよね。何か知らない?ほら小林さんの親から何か聞いてたりとかないの?」

 その野次馬根性丸出しな態度に辟易する。

 「何も聞いてないけど」

 「そっかぁ。あ、じゃあ小林さんと最後に連絡取り合ったのとかいつ?あ、良かったら履歴見せてよ」

 彼女達の無遠慮な態度にいい加減苛立ちを覚えて来た頃に教室の外から私を呼ぶ声が聞こえる。

 「おーい、ちーえー。かーえーろー」

 その声にこれ幸いと乗っかる事にする。

 「わ、私そろそろ行かないと」

 そうクラスメイトに伝え、逃げる様に教室を出た。

 「千恵おそーい」

 そう言ってジトッと睨みつけてくるのは濱口綾、私の恋人だ。

 「ごめん、綾。クラスメイトに絡まれてて」

 「それならしょうがないな。カリカリくん一本で許してしんぜよう」

 「そのアイスほんと好きだね」

 綾は昔から夏になるとそのシャーベットのアイスキャンディーをほぼ毎日食べる。その内お腹を壊すに違いない。

 特に最近はカリカリくんに随分ご執心だ。

 内心呆れながらも百円で彼女の機嫌を買えるなら安いものだと思い、しぶしぶといった体で引き受ける。

 「しょーがないなぁ。一本だけよ?」

 私の言葉に綾はその表情を華やげる。

 「やったー!あ、じゃ私ソーダのやつね!」

 もう今年で17になるというのに、彼女の精神年齢は未だに出会った頃から少しも成長していない。

 そんな底抜けに明るくて、おバカな彼女が愛しくて恋しくて仕方がない。

 私は彼女の手を取り、燦々と照り付ける太陽の下をコンビニを目指して駆け抜ける。



 コンビニでアイスキャンディーとジュースを買い込み、近くの公園の屋根付きのベンチに腰掛けてアイスキャンディを舐める。

 スーッと爽快感が口に中に広がるのを感じて心地良い。

 暫く二人でボーッとする。

 すると綾が何気ない調子で声を掛けてくる。

 「担任から幸子のこと聞いたよ。すごい話題になってたね」

 「私も聞いた。そのせいで絡まれて大変だったんだから」

 「思ったよりバレるの早かったね。夏の間は隠し通せると思ってたのにね。いやー、日本の警察は優秀ですな」

 「関心してる場合じゃないわよ!そう遠くない内に犯人が特定される可能性があるってこと分かってる?そうなったら全てがお終いだよ?」

 「まぁ、そうなんだけどさー。なんとなく千恵と一緒なら怖くないって思っちゃうんだよね」

 綾はなんとも思っていなさそうな軽い調子でそう言ってのける。だけど他ならぬ綾にそう言われるのは悪い気はしない。

 私は手で口元を隠しながら、少し態とらしく呆れてみせる。

 「もう!綾はほんっとお気楽なんだから。そういうとこ昔っから変わらない」

 「こればっかりは性分だね」

 「まったく…。それよりも綾はお葬式とかどうするの?まさか行くつもり?」

 「んー…、行かないと不自然だよねー?でもどうせバレるならいっかな」

 「行かないってことで良いのね?」

 「うん、行かない!代わりに千恵と旅行に行きたいな」

 突然綾から代案が出される。

 そしてその提案は私にとっても非常に魅力的だった。

 実を言うと愛の逃避行に対する憧れってやつは年頃の女の子らしく私の中にもしっかりと根付いている。だけど現実に実行に移すに当たって少しだけ懸念があるのだ。

 「担任がその内警察が各家庭に事情を聞きに行くって言ってたけど、それはどうしようか?」

 私がそう尋ねても綾はあっけらかんとした態度でこう答えた。

 「別にそれも答える必要なくない?レージョーだっけ…?それも無いんだったら答える義務もないんだし」

 これじゃ私がびびってるみたいだ。いや実際少しだけびびってるけど!少しだけ!

 「それは…そうなんだけどさ、私たち幸子と仲良かったから絶対聞きに来るじゃない?それを避けてたら流石に疑われそうじゃない?」

 私の問いに綾がニマーッと意地の悪い笑みを浮かべる。

 「さては千恵、お主びびってるな?」

 彼女の問いかけが図星だった私は思っきし狼狽える。

 「え、は、はぁ?そんな訳ない!私はただ現実的な話をしてるだけ!び、びびってなんか無いし!」

 「良いんじゃないの、千恵さんや。案外お主にも可愛いところがあったんじゃのう」

 取って付けた様な口調に腹が立つ。

 「何よ!綾が逮捕されても私知らないんだから!」

 「あっ、こら!シーッ!」

 叫んだ私の口元を綾が必死になって手で塞ぐ。そのあまりの慌てっぷりに少なくとも綾も捕まりたくなくて慌てたんだ、と言うことが察せられて私は心の余裕を取り戻した。

 「綾さん?何か言い残す事はある?」

 「ありませーん。煮るなり焼くなり好きにしてくださーい」 

 「分かれば宜しい。で真面目な話だけど、どうしよっか?」

 再度問いかけると綾はんーっと唸りながら首を捻る。

 「っていうかどうにかする必要ってある?」

 「え?」

 そのあまりの開き直りっぷりに私は呆然とするしかない。

 「いやだって考えてみてよ。私達人を一人殺してるんだよ?今後まともな生活していく自信とか私にはないな」

 「それは私もそうだけど、じゃあ綾はどうしたら良いって言うのよ」

 そこで綾は夏の日差しよりも眩しく笑いながらひどく退廃的な事を私に囁く。

 「この旅行を最後に人生の幕を閉じよう。私は一人で生きていくことも、死ぬことも怖くて出来やしないけど、千恵と一緒なら不思議と怖くないの」

 だから行こうよ。

 そうやって綾は晴れやかな表情で私を終末へと誘ってくるのだ。その口調はさながら近所のカフェでお茶しようと言うかのごとく軽いものだった。

 その顔を見て私はずるいと思った。

 昔っからこの顔で綾におねだりをされると私は断ることが出来ないのだから。

 きっと彼女は私のこの性分を理解した上でねだっているに違いない。

 それを私も理解している上で彼女のお願いを断ることが出来ないくらいにあざとかわいいのだ、この濱口綾という女は。

 何と言っても顔の造形が完璧なのだ。その優しそうに垂れ下がった目元も、ふわふわの唇も、少しからかっただけで真っ赤になる頰も何もかもが愛おしい。おっとりとしている雰囲気も私好みすぎる。

 だから私は彼女に逆らえない。

 結局今回もいつもの如く彼女の勢いに押し切られてしまうのだろう。

 諦観にも似た心地になった私はため息をひとつついて彼女の提案を受け入れる。

「そうね。最後の思い出に旅行に行くのも悪くないわね」

「でっしょー!千恵なら分かってくれると思ってたよ」

 終末旅行!なんかいい感じでしょ?

 そう言って綾は無邪気に笑う。

 そんな綾から私に寄せられる無条件の信頼が心地良い。

 あぁ、このお馬鹿な発想を受け止めきれるのはこの世界で私だけに違いない。

 その想いは私に確かな充足感を齎していた。

 感動に浸りながらも、頭は日程や目的地など具体的な行程を考え始めていた。

 これは単なる旅行では無い。次が無い、たった一度切りの旅行なのだと考えると行き先の選定は慎重になる。

 それに綾はこの旅行で何を成したいのだろうか?

 最期の思い出づくり?それも綾らしいけど何となくしっくりこない。

 私は考えを纏める事を放棄して疑問を端から投げ掛ける事にした。

 「綾は何処か行きたい所があるの?海?山?あと死ぬ方法とか考えてるの?私苦しいのは嫌だよ?あ、それと綾はこの旅行でなにがしたいの?どうせなら何も惜しまずに出来る事は全部したいわよね。どうせこの旅行が終わる頃には私達は居ないのだから」

 怒涛の質問攻めに綾は目を白黒させる。

 そんな慌てふためく彼女も可愛い。

 「え、えーと、その二択なら…海がいい!難しい事は全部千恵に任せた!」

 そうして返ってきた返事は大胆な丸投げ宣言だった。

 私が言葉を失っていると、綾は気恥ずかしそうに頬を掻きながら小さな声で補足する。

 「あ、あとね……したい事ならね、あるよ」

 耳まで真っ赤に染め上げた彼女の熱は私にも伝播し、体温が急上昇する。

 身体から熱を放出させる為に私は買ってきたジュースを呷り、一思いに飲み干す。

 この火照りはきっと夏だけのせいじゃない。

 あまりのあつさにくらくらする。

 夏に浮かされた私の熱はジュースを飲み干しただけじゃとても収まりそうにも無かった。


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