第43話 初夏から夏へ

ああ…パンの焼けるいい匂い。

幸せの匂いだ。

わたし、この匂いが大好き。


それにしても暑くてまぶしい…

寝ていられないぐらい暑い…

暑い…


うっすら目を開けると見慣れない天井。

全く動かない寝ぼけた頭で、ここがどこであるのか必死に考える。


そうそう。

パン屋のアドレおばさんにお世話になってて…


んんん???

……どうして、ここ?

一瞬で目が覚める。


わたしはアーヴァンクの討伐に参加して、最後に荒れた大地と黒い池を元に戻すために命を削ると言われている治癒魔法を使い過ぎて…


あの時、死を覚悟した。


からだが思うように力が入らない。

首だけ横にして部屋を確認する。

机の上に見慣れたあの絵が額に入って立て掛けて置いてある。

出発する前と同じ位置だ。やっぱりこれは現実だと確認する。


耳を澄ますと階下で開店準備の音が聞こえる。

どうやら、まだ早朝らしい。

オーブンからパンを出す音、パタパタ歩く音…


話し声も聞こえる。

どうやら、アドレおばさんの他に誰かいるようだ。


「………もう、…時間だろう…」

「…見てから、そろそろ行きます。…」


階段を上がってくる音に心臓が高鳴る。

扉が開き、騎士服を着た想像した通りの人物が部屋に入ってくる。


懐かしく思えるその黒い綺麗な瞳と目が合う。


「……レナ!!」



 ディルやアドレおばさんの話によると、わたしはあれから、3週間ずっと眠り続けていたらしい。

 初夏だったラストリアがもう夏だ。

 わたしが寝ている間に季節は進んでいた。

 どおりで眩しく暑いはずだ。


 あの時、持てる魔力の全てを使い果たし鼓動が止まったわたしにディルは自分の魔力を注ぎ、偶然にもわたしの命を取り留めることができたらしい。


「もう、目を開けることがないんじゃないかと…」

 ディルの頬を一筋の涙が伝う。

 アドレおばさんが横を向いて、そっとエプロンで涙を拭っている。


「レナちゃんが目を覚ましたことを皆に知らせてくるわ」

 アドレおばさんがわたしの手をぎゅっと握ってから、またまた目に涙をいっぱい溜めて、それを隠すように慌てて階下へ急ぐ。


 ディルと2人きりになった部屋には沈黙だけが続く。

「…ディル…いえ、ディカルト殿下、この度は大変ご迷惑をお掛けしました」

 あの時、最期だと覚悟してディルの本当の名を聞き、自分も本当の名を口にしたはずだ。


「レナリーナ姫、ディルでいい。俺の方こそ… 我が国の危機を救っていただき、ありがとうございました」


「「………………。」」


 お互いに変な顔をして見合わせた。


「……ディル、あの…レナで…」

「ああ、もうこれ、こんな形式張った他人行儀やめよう」

 ディルが破顔して、温かい眼差しでわたしを見つめる。


「レナ、抱きしめてもいいか?」

 コクリと頷くと、ディルがそっとわたしをベットから抱き起こしそのままディルの腕に包まれた。

 

 お互いの鼓動が愛おしい。

 ひとつひとつ打つ音をずっと聴いていたい。

 どれぐらい時間が経ったのだろうか。


 ディルがわたしの後ろ髪を愛おしそうに撫でながら話し出した。


「俺は再会してから割とすぐに、レナがダズベル王国の第三皇女レナリーナ姫だと気づいたんだ」


 ディルが気づいていただなんて…

 自分では結構がんばって隠していたつもりだ。

「…どこで気づいたの?」

「これ…だよ」

 

 気に入ってずっとしているディルにもらったタンザナイトのネックレスを指す。


「えっ?これ?」

「レナが大事にしていたお祖母様のタンザナイトの髪飾りをパーティーで落としたとサンダースの宿屋で話しただろう。その時に気づいたんだ。学園の卒業パーティーの日にレナの髪飾りを拾ったのは俺なんだ。踏んでしまって壊したのも俺だけど。だから、このネックレスはお詫びだと言っただろう」


 ああっ!!

 だから、お詫びを込めて。と、ディルは言っていたのね!

 あとでわかっても許せとも。


「ふふふ…」

 思わず思い出して笑ってしまう。

 そういうことだったのね。


「レナの髪飾りは王都ベルの工房で修理をお願いしているから、また修理が終わったら返すよ。工房で王太后様の物だとわかった時には本当に焦ったんだからな」

「あの工房は王室御用達なのよ。ディルが拾っていてくれたなんて奇跡ね」


 ふと、スカーレットやアン姉様の話を思い出す。


 あのパーティーの日、自分は髪飾りを探すためにもさっさと帰ってしまったがその後に、中盤で見目麗しい男性が来て騒然となったと…

 あれはディルのことだったのね。

 あの時にわたしも会場にいたら…

 また、違うストーリーがあったのかしら。


「……レナがレナリーナ姫だとわかっていて黙っていたこと、怒っているのか?」

 ディルが恐る恐る顔を覗き込んで聞いてくる。


「黙っていたわたしも悪いのよ。さすがに皇女が人探しのひとり旅ですなんて言えなくて。ごめんなさい」


 ディルの瞳が少し困っている。

「俺も王弟であることを黙っていて申し訳なかった。いまは騎士団の副団長の任にある」

「うん。討伐の時に気づいた。ディルが先頭に立って指揮をしているのは素敵だったわよ」

 ディルが恥ずかしそうに微笑んだ。


「でも、恋愛小説にもなっている王弟殿下と騎士様の関係については今後ゆっくり教えてくださいね」

「…そ、それは… 」

 ディルの慌てぶりが可笑しくて、声を出して笑ってしまった。


 その時、ベットに座っているだけなのに目眩がしてふらり力が抜ける。


「レナ、大丈夫か?」

 ディルがふらりとなったわたしを力強く抱き留める。


「まだ、完全復活ではないみたい」

 力なく笑うとディルが意を決したかのようにわたしを見る。


「俺の魔力をレナに注いでもいいか?怒るなよ」

 わたしの返事を待たずにディルの顔が近づいてきて、唇が重なり合う。

 わたしを抱きしめるディルの腕に力が入るのがわかる。


「レナ、少し口を開けて」

「…ん、んん…」


 ディルと深いキスになる。

 頭が真っ白になり、なにも考えられない。

 激しく深く…

 お互いを求め合うように絡まり合った。

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