第5話 夜のゴンドラ
日が傾いてきた。夏季になると、イタリアの昼は長い。午後九時を過ぎると、じわじわと暗くなってくる程度だ。
人々は足早に水上バスへ乗り込んでいく。もちろん、島内に宿泊する人もいるだろうが、閑散とした通りには、少し寂しさを覚える。
港にずらりと並んだゴンドラ。少し傾いた状態で岸につないである。ゴンドラは、そもそも重心を傾けて作られている。客の座る位置を調整し、最終的に船頭が後方に立つことによって、うまくバランスがとれるようにできているのだ。
次々と船が出航していく。遠くには、大型クルーズ船が見える。無数の窓からこぼれる光。まるでマンションが走っているようだ。
ハルは大型船について考える。彼女たちが一度目にここへ来る少し前に、大型船の大規模な事故があった。ブレーキをかけ損なったクルーズ船が、小型船に衝突しながら岸へ乗り上げたのだ。あの事件の影響で、ベネチアがさらに沈んだとも聞く。
ベネチアは人工的に作られた島だ。土台が杭で海底に固定され、その上に街が建っている。だから、島が沈んでいるのか、それとも水位が上昇しているのか、少しずつ水の中にのまれているという。
観光地というのは難しい。観光客は重要な資金源だが、彼らのクルーズが島にダメージを与えていることも確かだ。ベネチアで生まれ、育ってきた人々は何を思うのだろうか。
ハルは自分がネガティブな気分にとらわれていることに気付き、ぶんぶんと首を振った。手がかりが見つからなかったとはいえ、悲観的になっているのは時間の無駄だ。人が少なくなった今こそ、自由に動けるのではないか。
もう一度、島内の通りを歩き始める。ほの暗い明かりが、水面に照って鈍く光った。ゴンドラのぎしぎしときしむ音が聞こえる。
細い通りを何度か曲がったとき、まだ遊覧を続けているゴンドラに出くわした。ナイトクルーズがあることは知っていたが、今日のところはもうないのかと思っていた。
近づいてみると、客が乗っていないことが分かった。若い船頭が一人、ゴンドラを漕いでいる。夜のドライブ――車ではないが――だろうか。
「ボナセーラ、三十ユーロ、乗る?」
船頭はぎこちない日本語で話しかけてきた。三十ユーロとは破格である。もちろんここは正式な乗り場ではない。このような流しのゴンドラは聞いたことがないため、ハルは少し警戒する。
「どこに行くの?」
尋ねてから、通じていないかも知れないと不安になり、同じことを英語でも聞いた。船頭は、先ほどよりもはっきりとした日本語で答えた。
「ぐるっと一周するよ。それだけ」
「見所は?」
「広場の大鐘楼が少し見える。細い道もたくさん。夜は猫もたくさん」
猫。フユはいなくなる前に、猫を見つけていた。望み薄だが、何かヒントがあるかもしれない。ハルは顔を上げて「乗せて」と言った。
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