第6話 ため息橋
ゴンドラはゆっくりと小路へ入っていった。船頭は機嫌がいいのか、鼻歌なんぞ歌っている。
「名前は何て言うの?」
「マルコ」
船頭は答える。イタリア、特にベネチアの近辺では、マルコという名は非常にポピュラーだ。
「君の名前は何?」
「ハル」
「ハルね。プリマヴェーラ。ボッティチェリの作品」
マルコは絵画の話を始めた。「春」はフィレンツェの美術館にある。本でしか見たことがないが、絵の中心ではヴィーナスがほほえみ、花の女神や西風の神の姿も描かれていたはずだ。ハルは、中央のヴィーナスよりも、花の女神や西風の神の躍動感が好きだった。近年のアニメにも通じるような、表情豊かな神々だ。
「あ、あれ見て、ため息橋」
マルコが指さしたのは、橋と言うよりも渡り廊下のような、小さなアーチだった。
「ため息橋のうそが広がって困る。恋に落ちる橋。旅行に来た人が恋に落ちて、ため息をつくからため息橋。それは全部うそだよ」
彼は憤懣やるかたなしといった様子だ。その話はハルも聞いたことがある。
「本当は、あれは、牢屋から罪人を連れて行くための橋。裁判をして、罪が決まったら、罪人は牢屋に入る。そして、刑罰を受けるときに、あの橋を渡る。罪人は、もう戻れないことを嘆いてため息をつく」
初めて聞く話だ。マルコは残念そうに首を振っている。どのガイドブックにも載っていないんだ、ネガティブな話だからね、と彼は言った。
どこの観光地も抱えているジレンマだ。観光地としての、表向きの姿。そして、歴史的で生々しい姿。ベネチアも、その二つの間で揺れている。
日はすっかり暮れた。空は絵の具を落としたように黒々としている。対照的に、水面は真っ青だ。原色で描かれた絵本のような風景。
いくつかの運河を抜けたところで、マルコは出し抜けにゴンドラを止めた。脇にある小路を指さす。
「そこは、君たちが猫を見た道だ」
驚いて振り向くが、彼の表情は陰になっていて見えない。マルコはなぜ十年前のことを知っているのか。当時の船頭もマルコだったのではと考えてみるが、それにしては若すぎる。
彼はゴンドラを少しだけ進める。暗くて分からなかったが、さらに一本、人がすれ違えるかどうかという細い道が現れた。
「ここは、君のお姉さんが入った道」
言いながら、マルコは節くれだった指を道の奥へ向ける。
「お姉さんが何を見たか、知りたくないかい? ハル」
「何を見たか、ですって?」
尋ね返すように彼の顔を覗き込む。相変わらず陰になっていて見づらいが、彼がどこか寂しそうに微笑んでいるのが分かった。
ハルは微かにうなずき、小路の先へ目を向けた。
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