第4話 ベネチアングラス

 くたびれ果てたハルは、遅い昼食をとっていた。テラス席は団体客でにぎわっており、レストランの楽隊が、どこかで聞いたことのあるようなメロディを奏でている。

 路地すら探し当てられないとは、何のためにここまで来たのだろうか。

 ため息をつき、やたらと濃いアメリカンコーヒーを胃に流し込む。

 周囲を見回すと、観光客ばかりだ。ツアーの添乗員が旗を掲げ、様々な国籍の人々が群れを成して入り乱れている。中には、宮殿の階段に座り込んで、スタッフの注意を受ける者もいた。

 ベネチアの迷惑防止条例は、年々厳しくなっているようだ。人気のない通りでコーヒーを沸かそうとしたバックパッカーが、数十万の罰金を科せられて島外追放になったニュースが記憶に新しい。

 そういったことばかり考えていても気が滅入る。ハルはカフェの従業員を呼び、会計を終えた。机にチップを置いていくことも忘れない。

 すっかり自分もただの観光客だと考えながら、ふらふらと歩くことにした。もしかしたら、何かの拍子に姉の手がかりを見つけられるかもしれない。

 細い道だが、人の通りは多い。道の両脇にレストラン、土産物屋が並び、中には名の知れた高級ブティック店もある。

 路地に物乞いが座り込んでいるが、彼らの本職はスリである。かばんを抱える手に思わず力が入る。同時に、地面に置いてある売り物の絵やサングラスを踏まないよう、足元を注視する。踏んだと難癖をつけられて、ふっかけられるのはごめんだ。

 なんとなしに目についた橋を渡り、正面の戸口を抜けると、どこかの店内にたどり着いた。色とりどりのコップやランプが展示されている。奥の部屋には、所狭しと並んだアクセサリー類が見えた。

 ベネチアングラスを扱う店のようだ。どうやら裏口から入ってしまったらしいが、店員の姿はない。とがめられる心配はなさそうだ。

 少し涼んでいこうかと、並んだガラス製品を眺める。ひときわ目を引くワイングラス。深く澄んだコバルトブルーが映えている。

 ふと頭に何かがよぎる。

 何かを思い出そうとしている。

 ――私は、青。

 姉の声。

 ハルは目を閉じ、記憶を探ろうとする。自分はここに来たことがある。

 

 十年前、ベネチアを訪れた二日目。ゴンドラに乗る前に、ロレンツォは彼女ら姉妹をこの店へ連れてきた。

 ベネチアングラスで作られたブローチやペンダントに、姉は目を輝かせた。一方、ハルはまだそれほどの興味を抱けずにいた。

「好きなもの、一つずつプレゼントしよう」

 ロレンツォがそう言ってハルの頭を撫でる。そう言われても、こういうものはよく分からない、とハルは少し困ってしまう。

 すると、フユが二つのブローチを目の前に差し出す。

「私は、青」

 彼女は手のひらにある、鮮やかなコバルトブルーのガラスを指さす。

「ハルは、赤」

 そう言いながら、赤く透きとおったガラスを指す。そうして、笑顔を向ける。

「ハルは、太陽みたいな赤。私は、海みたいな青。時計と同じだね」

 フユはハルの腕時計をつつく。海と太陽をあしらった、お気に入りの小さな時計。いつだったか、母が誕生日プレゼントでくれたものだ。海には青い装飾が、太陽には赤い装飾が施されている。

 そうして、フユは青、ハルは赤のブローチをプレゼントされた。


 ハッとして顔を上げる。いつの間にか、記憶の奥深くまで潜っていたようだ。

 あのブローチは、結局どうしたのだろう。

「何かお探しですか」

 不意に日本語で声を掛けられ、ハルは身をすくませる。

 知らぬ間に、彼女の背後に、初老の男性が立っていた。

「驚かせてしまってすみません。ここのスタッフの、スズキと申します」

「こちらこそすみません。うっかり裏口から入ってしまったみたいで、せっかくなのでグラスを見ていたのですが」

 スズキはにこやかな笑みを浮かべた。目じりにしわが寄る。

「どうぞごゆっくりご覧ください。私はあちらのブースにおりますので、何かありましたらお声がけください」

 そう言って彼は引こうとしたが、ハルはそれを止めた。

「あの、今もブローチはありますか?」

 スズキは目を丸くする。

「ブローチですか? 今ではもう製造していませんね。あの大きさではよい色合いを付けるのがなかなか難しいものですから。アクセサリーでは、もっぱら、ペンダントやカメオが主ですね。他店ではもしかしたらあるかもしれませんが」

 ハルはスズキに頼み、青色の製品を見せてもらった。記憶にあるブローチの色に一番近いのは、最初に見つけたワイングラスだった。深いコバルトブルー。

 結局、彼女はそれを購入することに決めた。

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