第14話:ヘクトル・グリシアという男
朝食を済ませたシリウスは王立図書館で若き館長のヘクトル・グリシアから王国の歴史を学んでいる。グリシアは平民の出自でありギルガラス王に寵愛されていた。ペンと知識だけで成り上がった彼は昨年ようやく三十歳を迎えた。王国に留まらずフェーリーン中の書物を集め保管することを職務とするグリシアは、シリウスに王国の歴史の教師を務めることを光栄に思い、ギルガラス王亡き後に賜った爵位を返還したのである。
「爵位も金貨も領土も、私には不要なのですよ、陛下。爵位があれば多くの諸侯たちの反感を買い、金貨があれば道楽を覚えてしまう。領土があればそこに住まう人々の面倒を見なくてはいけません。陛下と過ごすお時間は煩わしさから逃れる実に良い口実になるのです」
図書館員の印である
そばかすはむしろ彼の愛嬌を強調させた。
本の亡者である彼を登用したのはギルガラス王の数少ない功績のうちの一つである。どのような財宝よりも価値があるとされるグラン・シャル王国随一の蔵書を誇る図書館の管理を任されているヘクトル・グリシアは、後に平民の教育制度に革命を起こす教育家としても名を残すことになる。
「その口実とやらはディック候には黙っておいた方が賢明だな。あれ以上、目の下のクマを濃くされたら本当に倒れるかもしれん」
「そうして頂けると大変助かります、陛下。私は羊皮紙に書いてあることは分かっても、ディック候の顔色だけは分からないのですから」
ギルガラス王の死後、グリシアはディック候から小評議会出席の推薦を受けるが前述のとおり断っている。多少の後ろめたさがあり、グリシアはディック候と関わることを極力避けていた。
グリシアはシリウスにいくつかの書物を読むよう薦め、後日テストをした。
「よろしいですか、陛下。歴史をただの事象として暗記するだけではいけません。書物の上ではなく歩むものとして理解するのです。さて、本日はセピア暦の成り立ちの神話と歴史から―――」
グリシアは神話と歴史、政治、文化、兵法を織り交ぜてシリウスに伝えた。
国王は死後、女神の元へ帰り神の眷属となり、王政は神話の一部となる。故にグラン・シャル王国の歴史を語るには神話は不可欠であった。
シリウスは自ら足しげくグリシアの元を訪ねた。
グリシアにとっても、シリウス以上の教え子はいないと絶賛している。
覚えが良かったわけでも聞き訳が良かったわけでもない。たとえ自分の祖先の行いであっても歴史の事象に疑問をぶつけ、不条理に怒り常に敗者へ目を向けた。
そう、グリシアにとって稀有な存在だったのは、女王の身でありながらシリウスが常に「敗者」の視点であることだった。歴史は常に勝者によって記されていくものであり、そうあるべきだと誰もが思い疑問を持たない。
ただ聞いて書き留めて鵜呑みにする教え子にグリシアは飽きていたが、シリウスとの問答は実に充実した時間であった。
そしてグリシアは毎日が生誕祭の朝の子どものようにはしゃいでいたのにはもう一つ理由があった。特別な教え子がもう一人できたことである。
シリウスと入れ替わる形でとある七星卿も図書館へ訪れる人物がいた。
リゲル・フローライト。
青の国フローライト家の神童。
異常なまでの記憶力を発揮し、そして青の国の腐敗した政治に物心ついた頃より口を出していた。紅の国との国境戦線―――テレイシオス開戦―――で国境の諸侯たちを青の国の配下に置いたのは、その神童からのたった一通の書簡であったという。
その少年の言葉一つが戦況を大きく変えたのだ。権力と迷信に溺れた太后の血を継いでいるなど想像がつかない程、フローライト家の唯一の跡取りは現実的で才知に溢れていた。
クリアな
「しかし、陛下とご一緒に来られてはいかがですか? そして口留めなど不要でしょう? 陛下と同じ目線に立ち、この王国の未来を共に語り合う若き男女! ああ、私は教師として実に有意義な時間を過ごしています!」
神童は、グリシアの身悶えを横目に淡々と答える。
「女王がどう思うが俺にはどうでもいいことだ。そして聞く必要もない。俺は俺に必要なことを知るためにここにきた。自分の意志でこの王都に来たに過ぎない」
グリシアは成程、と頷き確信した。
「聡明なリゲル卿ならお分かりでしょう。貴族や平民、奴隷。こういった身分や階級制度が存在している限り、例え才覚があってものし上がることは難しい。しかしあなた方には才能も身分もある。この両者が揃うことは奇跡と言っても過言ではない。貴族は身分に溺れ努力を怠っても許され、平民は才覚があっても努力しても報われない。矛盾と不平等がはびこる時代ではこれはありふれたことなのでしょう。だからこそ、あなた方はこの国にとっての奇跡そのものだ。この王国は何と恵まれていることでしょう」
―――願わくば、それを私に見届けさせてほしい。
ヘクトル・グリシアは生涯、子を持つことはなかったが良き後継者たちを持ったことを日記に繰り返し綴っていた。
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