幕間-部屋-2


 滑るような感覚がした。体が浮くような感覚がした。頭が真っ白になった。誰かのひんやりとした手の平が腕を掴んでくれたけれど、間に合わなかった。


 やがてぼくは見知らぬ場所で目を覚ます。


 花畑、なのだろうか。

 緑に塗られた柵やレンガが散らばっているから、人間の手になるものだと思う。でも、長い間手入れされていなかったのかひどい有様だった。

 赤い花火のような形をした植物が植わっている。

 一面まるで絨毯のように咲き乱れていた。


 だから、ふよふよと飛ぶの白さはすぐに目についた。

 蛾だった。そっと手の平に包んで観察するとふんわりとした胴体、兎の耳みたいな触角、大粒の瞳が可愛らしい。

 じゃれつくようにぼくの指をよじ登るのだ。くすぐったくて、楽しくて、けらけらと笑いながら戯れているうちに気が付いた。


 息が苦しくならない。


 物心ついたときからずっと苦しめられてきた宿痾がいつのまにか消え去ってしまっていたことに若干の不安を抱いた。

 これのせいで家族や姉さんに迷惑ばかりかけてきたのだ。何より、にも。絶対のように纏わりついてきた呪いが消え去ってしまったことが却って恐ろしかった。


 そもそも、あんな倒れ方をしたっていうのにこんなところで目を覚ますなんておかしいんだ。ひょっとしたらここがなのかもしれない。

 帰らなくちゃ。

 帰らな……


 とまで考えて、どうすれば帰れるのだろうと途方に暮れてしまった。辺りを見渡しても何も手掛かりはない。

 諦めて歩き出す。

 少し花畑を外れれば、ここがいわゆる遊園地やテーマパークと言った類なのだろうと気付いた。


 スタッフのひとがいるはずだと思った。けれど遊園地はあまりに寂れていて、沈む夕日に山へと帰ってくるカラスの鳴き声の他には音もない。


 ふと、視界の端をさっきの白い蝶々が飛び回っているのに気が付いた。


「一緒に来てくれるの?」


 嬉しかった。例え言葉の通じない生き物であったとしても、寄り添ってくれる気配があるだけでも恐怖はやわらぐ。


 気分が落ち着いてくると、多少はまともに周囲を見れるようになった。

 壊れかけの観覧車。錆びついてしまったコーヒーカップ。草木に覆われてしまった売店。

 何もかもが初めて見るものばかりだった。

 出口や地図はないだろうか。


 帰ったら、君と話がしたい。ぼくの代わりに学生服を身に纏っていた君。ぼくの手帳の中にしか存在しない君。けれど何よりぼくを支えてくれた大切な友達。

 君がいなくなるだなんて信じられなかったから。


 君の顔を、名前を、声を、思い出せなくなっていることに気が付いたのは、そのときだった。

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