彼岸の花畑


 遊園地のかたすみで見つけた真くんは一匹の蚕蛾かいこがと戯れていた。小さな、今にも消えてしまいそうなはねだ。それも時おり白いシャツに紛れて彼ひとりで遊んでいるように見える。


「真くん、」 私は駆け寄って彼の名前を呼んだ。強い風が吹いていたから、かき消されないよう心もち大きな声で呼ぼうとして吸い込んだ息が冷たかった。


「探したんだよ。一緒に行こう。■■■のこと、一緒に探してくれるって言ってくれたよね。私、真くんにお礼しなきゃいけないこともあるの。鎌仲さんも『みんなで観光してくれ』って……」


「無理だよ」


「なんで、」


「僕は本来お前と一緒にいるべきじゃない存在だ。きっと、あの鳥にはそれが分かっていたんだ。僕もしょせん落書きの詩から零れ落ちた亡霊に過ぎなくて。──とにかく、帰ってくれ。お前の弟なら、これできっと帰してやれるから」


「嫌だよ、私、そんな。それに、真くん何言って」


「探しに来させたのは申し訳ないと思ってる。でも、お前がここに来る必要なんてなかった。僕のことなんか考えずに■■■のことを探していれば良かったんだ。そうすれば15000でお前の弟も見つかるはずだった」


「だから、何を言って」


 そのとき、やっと真くんは私の方を向いた。隠れていて見えなかった右頬はまるで「鳥打ちさん」のように真っ黒で、額や喉元まで覆われてしまっている。


 目を疑った。真くんは私の反応も予想のうちだったのか、


「それに、こんな姿を見せることもなかった」


 きっと「人間の姿を保てなく」なってしまったのだろう。彼の姿は一秒ごと一秒ごとに闇や色とりどりの硝子に変わり、指先は無数の小さな海月になって零れ落ちた。そして緩やかに群れ集まった触腕が彼の体を形作る。黒、緑、青、水色、透明……綺麗な色の絵の具を当てずっぽうに混ぜ合わせる途中みたいで、哀しかった。


 それはきゅおうきゅおうと甲高い鳴き声を上げて、こちらに触腕を一斉に伸ばしてくる。雨の日の波みたい。


 咄嗟に一歩退いた。逃げようとして踵を返したとき──逃げたらきっと、もう彼に私の言葉は届かなくなる、そんな気がして、よろめいて、転んだ。頭上を触腕が通り過ぎて、陰が覆って、手を放した輪ゴムのように戻っていく。危なかった。心臓がバクバクと脈を打っていることに気付いて、私、怖いんだと悟った。でもそれ以上につらいのは――


「真くん」


 彼の名前を呼ぶ。私は、めいいっぱいに叫んだ。


「私、真くんとこんな別れ方したくない。こんな世界で訳も分からないままに出会って、訳も分からないままにお別れするのが運命だったとしても、嫌だ。私、真くんのことちゃんと知りたい。ちゃんとあなたとお話して、ありがとうって言って、また──ねえ、お願い、真くん」


 彼の表情は変わらない。拒絶だろうか、再び視界を触腕が占めた。


「──っ、」


 不意に「ぴぃつく、ぴぃつく、ぴぃつく」と、鳥の鳴き音が聞こえた。占い師さんから貰ったネックレスの紐に通された羽根の一枚。鎌仲さんのものだった。


 羽根は熱のない炎で燃えていた。燐火はくらげの触腕を貫いて、そのまま天へと昇っていく。今度は「りゅ、りゅ、りゅ、りゅ」と鳴いて弓矢のように降ってきた。それは人の形を保てなくなった真くんのすれすれを飛び回って……数瞬の後やっと、私に狙いが行かないようにしてくれているのだと気付いた。


 今、この隙に私にできることは何があるのだろう。左の耳に微かな悲鳴が聞こえた。触腕のひとつが鎌仲さんを捉えたのだ。燐火の鳥は抗うようにいっそう燃え盛り、それでもなお真くんを傷付けないように戦ってくれている。


 早く。早く、何か――。


 途方に暮れて周囲を見渡すと、さっきまで真くんが蚕蛾と戯れていた辺りにうっすらと一人の少年が横たわっているのが見えた。それは、ずっと探していたあの子の姿だった。どうして、いったい何が──。


 訊きたいことばかり増えていく。でも真くんが何かを知っているのは確かで、そしてきっと彼が助けてくれたのだと思った。彼の姿に面影がなくなるにつれて弟の輪郭もはっきりとしてくる。多分、彼の残り時間も少ない。


「占い師さん、」


 首から下げた羽根飾りを握りしめる。


「私が駄目になったら、鎌仲さんと■■■のことをお願いします。あんなにワガママを言っておいて情けないですけれど、どうか――」


 羽根飾りからは何も反応はなかった。


「諦めたわけじゃないよ。自分のありったけを賭けて抗うんだ。私に出来ることなんてもう何もなくて、全てが訳も分からないままに進んでいくとしても、それでも、足掻きたい。許して、くれますか」


 沈黙。数秒の後、どこか気遣わしげな鳴き声が聞こえた気がした。


「……ありがとう」


 駆けた。まるで夢の中にいるように足が重い。必死に地面を蹴る。姿を失ってしまった真くんを目がけて。バカなことをしているのは分かっている。それでも、


「真くんっ、」


 手を伸ばして縋りついた。縋りついて、触腕を、闇を掻き分けて、必死に彼の姿を求める。必死に呼びかける。必死に、祈りつづける。


「私、真くんがどんな存在だったとしてもいいよ。お願い。まだ一緒にいたいの。だから、どうか――」


 奥に手帳が白く漂っている。思わず息を呑んだ。きっとあれが真くんの本当の姿なんだと、そんな気がした。あと少し、もう少し手を伸ばせば届く。腕の腱も切れるほどに足掻いて──掴んだ。


 刹那、幾重にも光がページから溢れ出す。眩しかったけれど、目を逸らしたくなかった。一体どれだけの時間が経ったろう。やがて光は収まって、そこには学生帽を被った男の子の姿があった。


「真くん!」


 私は叫んで、彼の存在を確かめるように抱き締めた。体温が、温かい。


「……迷惑をかけた」


「いいよ、戻ってきてくれたんだから。ありがとう。ありがとうね──」


「ああ」


 少しして、真くんは私の腕をゆっくりとほどく。


「ちゃんと、やるべきことを済ましておくよ」


 真くんの視線を追うと、鎌仲さんが■■■を頭に乗せてこちらに差し出していた。弟は、柔らかな羽毛に包まれて寝息を立てている。


「起きろ。お前はまだ無事で、迎えも来た。まだ帰れるはずだ」


 幾つか身じろぎをした後、■■■はゆっくりと瞼を開く。真くんがもう一度同じことを告げると、■■■は俯いて、


「帰れないよ。……名前、なくしちゃったから」


「問題ない。お前の名前は、ちゃんと僕が覚えているから」


 ──宮沢真。それが、お前の名前だよ。


「ずっと預かっていたんだ。忘れずに済んで、間に合って、本当に良かった」


 あと一つ欠けていた弟の輪郭に、最後のパーツが嵌まったような気がした。同時にの存在が薄らいでいくのが傍目にも分かった。彼は私の方を振り向いて、微笑んでみせる。


「礼は受け取っておく。探しに来てくれたこと、嬉しかったよ。こっちこそ、ありがとう。それじゃ、」


 さようなら、と言わない内に、彼の姿は掻き消えてしまった。気付けば羽織った学ランも消えてしまっている。借りたまま結局返せなかったな。思うと涙が溢れて、堰を切ったように叫んで泣いた。喉が痛くなっても止まらなくて、息ができなくなって咳き込んだ。背中を真がさすってくれているのを感じながら、まるで赤子のように泣きつづけた。人生できっとこれ以上ないだろうというほどの号泣だった。でも、いくら泣き喚いても、ただ冷たい夜風が花壇の彼岸花を揺らすばかり。


 彼の声はもう聞こえなかった。

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