碧眼の哭女

黒周ダイスケ

無縁塚にて

 午前十時七分。

 奥多摩。東京の西の果て。枝のように伸びた路線図の終着駅。人気のない平日、駅前のロータリー、タクシー乗り場から少し離れた場所に立つ女が一人。


 頭からつま先まで、全身黒ずくめの服装は、牧歌的な光景の中にあってその姿はよく目立った。彼女で間違いないだろう。俺はクルマのハザードをつけ、タクシー乗り場に被らないように路肩へ寄せる。女はこちらを見るや、差していた日傘(これも真っ黒だ)をたたみ、ゆっくりと歩いてきた。俺は助手席のパワーウィンドウを開け、ロックを外す。

「おはようございます」

 彼女は挨拶と共に、クルマの窓から顔を覗かせる。年の頃は二十代か、おそらく三十はいっていないだろう。

 想像していたよりも若く見える女。

 想像していたよりも大人しい、落ち着いたトーンの声色。

「遅れてすみません。道中、少し混んでしまい」

「いえ、こちらも、先ほど電車から降りたばかりでしたので」

 女は助手席のドアを開け、乗り込んでくる。サイドドアが閉まる。型落ちの軽自動車の、いかにも薄いドアが安っぽく軋む。思えば、このクルマの助手席に誰かが座るなんて何年ぶりだろうか。

『スズキ ハナコ』

 横から差し出された名刺には、その見た目と相まって明らかに偽名だと分かる名前があった。

「申し訳ない。こちらは名刺がなくて」

「構いません。本日はよろしくお願いいたします」

 シートベルトが掛けられたことを確認し、ハザードを切って走り出す。手元の冷房のツマミを低めにする。ごう、と喧しい音を立てながら、送風口から冷たい風が吹き出した。

「寒かったら戻しますんで」

「ありがとうございます」

 他人を乗せるということで数日前に何となく車内を掃除して、さらに消臭剤も入れておいた。すっかりバカになってしまった俺の鼻では、効いているのかどうかも分からない。染みついた煙草の匂いなど、それだけで消えるものでもないだろう。だがスズキは嫌悪感に顔をしかめるようなこともなく、表情ひとつ変えずに前方を見ている。

 信号が変わり、クルマは駅から出て国道に乗る。駅前を少し離れれば建物もまばらになり、青く茂った山林が道の両端に広がる。


 季節は晩夏。猛暑日の連続更新記録も止まり、ようやくまともに過ごせる気候になってきたが、昼間は相変わらず暑い。今日のように雲一つない日はなおさらだ。

 八月末。盆は、とっくに過ぎている。


―――


「対象の方のお名前は……ゴトウ様、でしたか」

 目的地へと向かう中で、俺とスズキは簡単な“打ち合わせ”をはじめる。ナビが示す到着予定時刻は約三十分後。道が空いているから、もう少し早くなるかもしれない。

「概要は事前にお伺いしていますが、もう一度、ゴトウ様の略歴などをお教え頂けますか」

 いたって事務的な口調で彼女はそう切り出す。メールの文面では箇条書きにしていたが、改めて自分の口から話すというのも、それはそれで妙な感覚に陥るものだ。

「とはいえ……以前もお話しましたが、彼と自分はそれほど親しい仲というわけでもなかったので」

「お話できる範囲で結構です」


 そもそも何故こんなことになったか。説明すればあまりにもバカらしく、唐突で、何の関連性もない。聞く人間によっては失笑すらされるだろう。“赤の他人”であるお前がそんなことをするなんてどうかしている、と言われれば、返す言葉もない。けれど――結局、理由なんてそんなものだ――俺はどうも、あの話を聞いてから、何故だかいてもたってもいられなくなった。本当に、それだけのことで。


 ナビを横目で確認して、目的地までの進路を確認する。しばらく道なり。

「俺とゴトウが会ったのは十年前。その時はお互い名前すら知らなかったんですよ。まあ何しろ、人の入れ替わりも激しければ繋がりも薄い環境だったもんで。――ああ、仕事の内容はちょっと伏せておきますが」

 ハンドルを片手で握りつつ、俺はドリンクホルダーのボトルコーヒーを手に取る。ほとんど残っていない中身を飲み干すと、ぬるくなった液体の酸味と苦みの不快な感覚が口の中に残った。いつの間にか、俺は口調を取り繕うのも止めていた。

「名前を聞いたのは契約の終わる前日だか当日だか。言ってしまえば、あいつとの関係なんてそんなもんです」

 そうして離れた関係は、たいていの場合そのまま終わる。だが俺とあいつとは少々不思議な縁があった。そこから数年の間、直接会わないまでも、たびたびゴトウの名前を耳にすることがあったのだ。縁……とはいえ、それは正確には“一方的な”縁だ。向こうからすれば、おそらく俺のことなど覚えてもいないだろう。だが。

「――別れ際、あいつが言っていた台詞が、どうにも心に引っかかってましてね」

「はい。お伺いしております。それが今回のご依頼のきっかけということも」

「はっきり言ってしまえば、それで全部なんですよ。口にしてしまえばたったそれだけ。説明には何分もかからない」

 それからさらに数年経って、もうあいつの話を聞くこともなくなった。本当に“たったそれだけ”の縁だった。けれど半年前、俺はもう一度ゴトウについての噂を耳にすることになった。つまり、それが今回のきっかけだ。


 前方にコンビニの看板が見える。

「ちょっと寄り道をしても?」

「はい」

 喋ると喉が乾く。飲み物を買い直したい。元より、少し遅れたって構わないのだ。目的地では時間の約束をしているわけでもない。いつ行ったっていいし、向こうだってもう時間など気にはしていないだろう。そもそも俺が来ることだって、きっと予想すらしていないはずだ。


―――


 ボトルコーヒーのカフェオレとブラックを買い、ついでレジで煙草を一箱買う。そういえば、俺と吸う銘柄が同じだったのが、ゴトウと関わりを持ったきっかけだった。今どき吸う人間もあまり見かけないロングピース。それらをコンビニ袋にまとめて入れ、クルマへと戻り、助手席のドアを開ける。

「どちらがいいですか」

「お気遣いありがとうございます。頂いて良いのでしょうか。……では、こちらを」

 予想外なことに、スズキはブラックを選んだ。

「ああ、ちょっと五分ほどお待ち下さい」

 そう言って駐車場の傍にある喫煙スペースに目を向けると、スズキは閉まりかけたドアに手を伸ばす。

「差し支えなければ、私もご一緒してよろしいでしょうか」

 これもまた予想外のことだ。まあ、断る理由もない。俺はシャツの胸ポケットから、スズキは手持ちのハンドバッグからそれぞれ煙草のケースを取り出す。二人で喫煙スペースに向かい、二口、三口と、お互いに黙って煙草を吸う。

 すっかり山道に入った国道沿い。夏の太陽は真上にあり、容赦なく照りつける。注ぐような蝉しぐれと、時おり通る大型トラックの走行音だけが耳に入ってくる。


 やがて。


「こういった依頼は多いんですか」

 先に“雑談”の口火を切ったのは俺の方からだった。空気が気まずいから、とかいう理由ではなく、単に疑問だった。正直、こんな職業があることすら俺は今回はじめて知ったのだ。

「多くはないですね。月に二度、三度、というところでしょうか。私も、これだけを生業としているわけではありませんし」

 なら他の仕事は何なのか、という話は野暮だろう。俺と同じだ。誰だって話したくないことはあるし、話しても仕方ないこともある。


「……ガイジンさん、なんですね」

 言葉のチョイスをする間もなく、俺は愚直に聞いてしまった。

「ええ」

 彼女も聞かれ慣れているのだろう。特に眉をひそめることもなく、簡潔に応える。少し面長の、整った顔立ち。日焼け一つすらない陶器のような肌は黒ずくめの服と対照的で、その白さを際立たせている。それからもっとも印象的なのはその青い目だ。先ほど――クルマのウインドウごしに初めて顔を見た時――驚かなかったといえば嘘になる。背の高さも顔立ちも、身なりさえ変えればタレントでもモデルでもやっていけるだろう。

「その髪は」

「染めているんです。黒く」

「なるほど」

「そうしないと、仕事柄、不便が生じますので」

 流暢な日本語で説明され、ああ、と俺は納得した。全身黒ずくめなのは彼女の仕事にとっては正装であり“ドレスコード”に沿ったものだ。そこで髪の色だけが違えば、その場にあっては浮いてしまうだろう。

 それだけのスタイルを有していながら、“仕事”のため、徹底的に自らの存在感を消した女。それ故に、彼女はどこか、この世界から隔てられた場所に佇んでいるような雰囲気さえも纏っていた。

「……すみませんね、ガイジン、なんて言ってしまって」

「お気になさらずとも構いません。――そうして一言フォローして頂ける方も、あまり多くはいらっしゃいませんから」

 それまで無表情を貫いていた彼女の薄い唇の端が、ほんの少しだけ上がった。

「それに」

「?」

「私のような“ガイジン”だからこそこの仕事はやりやすい、という面もあります」


 煙草を吸い終え、カフェオレのボトルを開けて飲む。よく冷えた甘ったるい液体が、渇いた喉に流れ込んでいった。


―――


「もう確認したいことは無いんですか」

「ええ。ご協力頂き、ありがとうございました」

 車内に戻ってから二、三の事柄を伝え、それから目的地まで俺達の間に会話はなかった。やがてナビの音声は右折を指示し、その通りに国道を外れる。そうして目的地へと着く。


 名前を聞いたこともないような、何の宗派かも分からない、山奥の小さな寺。

 砂利敷の駐車場にクルマを止めて歩き出す。少し歩くだけで、背中にはじっとりと汗が滲んできた。一方のスズキは相変わらずで、汗すらもかいていないかのようだった。

 石畳の敷地に入り、さらに草木の茂る横道を通る。木々が近くになれば、蝉の声もより一層喧しくなってくる。俺は横目でスズキを見やる。暑いですね、とか、足元大丈夫ですか、とか……何か声をかけようとしたが、止めた。彼女の顔つきは――既に、すっかり変わっていたからだ。


 俺達二人は、静かに“そこ”へと足を踏み入れる。

 盆も終わり、俺達以外には誰もいない小さな墓地。墓石に供えられた花は枯れ果て、水受けも乾き、鮮やかに着色された盆菓子には蟻がたかっていた。死者が来て、生者によって出迎えられ、そして見送られていった、その後の残骸。


 けれどあいつはここにはいない。この墓石の列の中にはない。名前の刻まれた墓石の列を通り過ぎ、俺達はさらに奥へと向かう。やがて辿り着いたのは、小さな、銘のない墓石が密集した場所。真ん中にある背の高い碑には、そこが無縁仏を祀る塚であることが示されている。

 思わず名前を探す。だが、もちろんあるはずもない。この小さな――まるで路傍の石ころのような墓石はどれも無名で、誰がどこに“いる”かなんてまったく分からない。だからこその無縁塚。


 でも、ああ。

 この中のどこかに居るんだな、お前は。


―――


 俺がゴトウの死を知ったのは、あいつが死んでから二月も経った頃だった。ついでに言えば、死んでから最初に発見されたのもそれから数週間も後のことだ。

 孤独死なんて、今さら珍しいことでもない。俺達のような人間ならなおさらだ。ゴトウもまた例外ではない。身よりもなく、弔う人間もいなかったあいつの(ぼろぼろの)遺体は、自治体によってすみやかに火葬され、ここに収まったのだという。

 ゴトウと俺とはまったくの他人だ。それを聞いても、出来ることなど何もなかった。元よりすべてが終わってしまった後なのだ。何を気に掛ける必要があるだろう。

 だが、俺は十年前にあいつが口にした一言が気になっていた。その時、それをふと思い出してしまった。衝動的に、あるいは緩慢に。


 赤の他人である俺が、あいつにしてやれることは何だろうかと。


『オレが死んでも、涙を流してくれる奴なんかいないんだろうな』


 たぶんあいつにとっては単なる愚痴だったのかもしれない。ゴトウが呟いたその一言に――俺は、応えてやれはしないだろうかと。


 そのために、俺はここに来た。盆が終わり、過ぎ去った後のこの墓地に、彼女を連れて。


「……」


 スズキは無縁塚の前に立ち、ゆっくり俯く。

 俺は少し離れた場所から、彼女の横顔を見つめていた。


 どれくらいの時間が経っただろうか、やがてその青い瞳からうっすらと涙が零れだした。祈りの手を合わせるでもなく、名前を呼ぶでもなく、ただ黙って、その視線を無数の墓石のどこかへと向けながら、彼女は静かに泣いていた。


 スズキとゴトウは俺以上に、顔すら見たことのない他人だ。しかし彼女は紛れもなく、ゴトウのために泣いている。

 何を考えて泣いているのか、どういう風に涙を流しているのか。

 だがそんなことはどうでもいい。

 俺はその顔から目を離すことができない。

 それほどまでに彼女の泣き顔は美しく、そして清らかだった。


―――


 涙は死者へ捧げる弔いの供物であるという。死者の前で泣くこと……涙を捧げることで名誉の証とする、とも。


 俺はその供物をカネで買った。


 哭女。報酬によって、親族と共に葬儀や墓前で、赤の他人にむけて“泣く”ことを生業とする者。かつて各地で存在し、今は廃れてしまったと言われる職業。スズキはそれを生業として残している者の一人だという。ある時、人づてのふとした縁で、俺はその存在を知った。

 俺はゴトウの死を知っても泣くことができなかった。あいつのために涙を捧げてやることはできなかった。だからスズキに“依頼”をした。


 ――どのように泣けばいいでしょうか。

 依頼をする時、スズキはそんな風に聞いてきた。状況や程度によって価格も違うらしい。宗派によって祈り方も変われば、泣き方も変わる。祈りの言葉を唱えることもできるし、死者に縋るように号泣することもできる。そうして、オーダーに合わせて泣くのがプロなのだと。

 俺は細かいことまで言わなかった。ただ、あいつのために泣いてやってくれないか、あいつの残した一言に応えてやってくれないか、とだけ言った。

 スズキはそれ以上聞くこともなく、わかりました、と言って依頼を受け……そしてここに来た。


 涙を流すスズキの横で、俺は煙草に火を付け、無縁塚の傍にしゃがみ込む。そうして煙草を一本じっくり吸い終えるまで、俺とスズキの弔いは続いた。


 あいつは。ゴトウの願いはこれで叶えられただろうか。自分のために、涙を流してくれる人間がいるのだと、わかってくれただろうか。


―――


 煙草を吸い終える頃、ふと気付く。


 きっとこれはゴトウのためではなく、他でもない俺自身が想いを晴らすためでもあったのだろう。

 親、兄弟、他人、色々な人間と関わり、幸せにし、そして不幸にしてきた俺が、カネで買った涙でちっぽけな償いをする――この行為は、そんな自己満足のためでもあったのかもしれない。


―――


 泣き終えたスズキの青い目は涙で赤く染まり、不思議な色をたたえていた。


 墓地を後にし、クルマに戻る。スズキはハンドバッグからハンカチを取り出し、涙を拭く。その仕草に至るまで、それはまるで整えられた一連の儀式のようだった。

「このお化粧、ウォータープルーフなんですよ」

 その所作を眺める俺に、スズキは少女のように少しだけ微笑んでみせる。和らいだ表情と泣き腫らした瞳とのギャップが、ひどく魅力的に見えた。


 クルマのエンジンをかけ、シートベルトを着ける。


 彼女は何を考えて泣いていたのか。

 ハンドルを握り、アクセルを踏みながら、俺はそれをもう一度聞いてみようと思った。聞けばスズキは応えてくれるだろう。親族でも身近な人間でも、まして“同じ日本人ですらない”スズキが、他人のために泣くにはどうすればいいのか。そのコツを聞けば、俺もゴトウの為に泣くことができたのか。あるいは――まったく見知らぬ他人だからこそ、感じる想いがあるのか。「自分はガイジンだからこそやりやすい」と彼女は言っていた。そこに答えがあるのかもしれない。


「どこかで昼食でも食べていきますか」

「いえ、夕方にまた用事がありますので、これで失礼いたします」

「わかりました。駅までお送りします」

「ありがとうございます」


 聞こうか聞くまいか、さんざんに迷って結局は止めた。どんな祈りの言葉も口にすれば陳腐になることもある。涙もそうだ。たぶんなんだってそうだろう。ゴトウのために“誰か”が泣いた。誰でもない誰かのために、誰かが流した涙があった。今はそれだけでいい。


 クルマは元来た道を戻り、国道に乗る。

「スズキさん」

「はい」

 駅への帰り道、俺は彼女に訊ねる。

「もし俺が死んだら、泣いてくれますか」

「ご依頼時の状況によりますね」

「というと?」

「私の仕事は、ご依頼主の想いを故人に乗せて代行すること。私の涙はその媒体に過ぎません。今回は私がゴトウ様に向け“あなたの代わり”に泣いた。ただそれだけのことです」


 俺が――誰でもない俺が。ゴトウのために。


「ですから」

「……」

「もしも私があなたの為に泣くのであれば、他の方のご依頼が――」

 そこまで言いかけて、彼女は言葉を止める。

「いえ」

「?」

 言葉が再び紡がれなおす。それはどこか柔らかな声色で――運転中で横顔を確認することはできなかったが――きっと、彼女の表情は少し微笑んでいたに違いない。


「ご縁のあるお客様ですから、事前にご依頼とご入金を頂ければ喜んで承ります。その際のスケジュールは優先して空けておきますので――是非、またご利用下さい」


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