第5話 夢
「魔樹、うちの子になりなよ」
亜依が涙目で言った。ピンクの髪は肩先で切りそろえられ、年齢より幼い体は、魔法学園の前年齢の子どもが通う幼稚舎のコートに隠されるように包み込まれていた。
「お父さんも、お母さんも、魔樹のこと好きだもん。十歳になっても、外になんか行かないで、うちにいたらいいよ」
亜依は九歳という年齢にしては物言いが幼い。魔樹は達観した頭で、感謝と悲哀を感じていた。
「亜依、私はこれでいいんだ。亜依だって知っているだろう。私はずっと探偵になりたかった。学園に通えば修行の期間が延びるだけだ。これでいいんだよ」
泣きそうになって目に涙を溜めた亜依の額に額を押し付け、魔樹はそっと目を閉じた。
***
父が開く晩餐会に初めて列席するため、九歳の慧は練習で着慣れた衣装に身をつつみ、人好きのする笑顔を頬に張り付けていた。
「いいか、お前は我が家の地位を貶めなければそれでいい。目立とうとするな。自分の意見を口にするな。愛想良く笑っていろ。我が家の内実に関わることには一切触れることはまかりならん。命を懸けて誓え」
それは、逆らえば命はないという、息子にかけるには途方もなく強力で慈悲のない言葉だった。慧の母親が亡くなり、後添いに若い女性をむかえると、父親は慧に構わなくなった。腹違いの弟が産まれてからはあからさまに慧を邪険に扱った。
生き残るためには優秀な息子を演じるほかなかった。慧は微笑を頬に張り付け生きてきた。
***
気が付けばそこは石造りの通路のただなかだった。薄暗く、湿っていて、骨身に染みるように寒い。魔樹はあたりを見回してぶるりと身震いした。
右も左も真四角の石の通路がどこまでも伸びて闇の中に消え、ここがどこかもわからない。すぐ側で気を失っている慧の肩を揺さぶると、慧はすぐに目を覚ました。視線が宙に向いていて、意識がここにないように見える。
「大丈夫か」
魔樹の問いに慧はひっそりとした作りもののような微笑を返した。
「ええ、なにも問題はありません」
突然、魔樹が腕を伸ばし、慧を抱きしめた。
「魔樹?」
なにが起きたかわからず戸惑う慧の背中を魔樹は優しく撫でる。
「悪い夢を見ただろう。それはただの夢だ。慧は、私の大切な友人だよ」
夢を見ていたことは覚えているが、どんな夢だったかは覚えていない、ただ吐き気がするほどおぞましい夢だった。それなのに、なにが自分を痛めつけようとしたかわからない怖さが残っている。
だが慧には、抱きしめてくれる温かな魔樹が自分を信頼していることがよく分かった。伝わってくる優しい気持ちに少しずつ恐れが溶かされていく。
「ありがとう、魔樹」
ぎゅっと抱きしめ返して、慧は心から微笑んだ。
「変な夢を見たのは魔法のせいだと思う。精神に揺さぶりをかけて、別の魔法が効きやすくするために仕掛けられたんだ」
軽いストレッチをしながら魔樹が言うと、いつもの余裕を取り戻した慧が力強く同意する。
「この通路には魔力が込められているよ。歩くだけで精神に干渉されるだろうね」
そう言いながら慧は壁に両手を突き、目を凝らした。
「見えるか?」
尋ねた魔樹に、慧はしっかりと頷いてみせる。
「魔力を消す魔法、禁呪だね。使用すると魔法司法権違反で終身刑だよ。それに、中途半端な魔法使いでは覚えることすら困難な複雑な呪文系統が必要です」
「慧はその呪文を使えるのか?」
満面に笑みを湛えて慧が振り向く。
「知らない魔法は、解析できませんよ」
その言葉を実証しようとするかのように、慧は両手を組み、禁呪を唱えた。
「ワゾナラシメタテキギニククノチノオオカミイマシタテマツリ」
魔樹に聞き取れたのはそこまでだった。続く言葉は言葉というより、音波としか思えない。耳にキンキンと響き、まともに聞いていれば精神を引き裂かれるかもしれないと、魔樹は両耳を塞いだ。
慧の呪文が進むにつれ、通路の両壁、床、天井、すべてが松明で照らされたかのように赤々と輝きだした。解析した魔法の解呪は成功したようだ。
通路が伸びる片側は闇に沈んでいくように暗く、もう片側は人を誘うかのように優しくほの明るい。
「さて。どちらの通路が正解かな」
「明るい方から魅惑の魔法の気配がしていますよ」
「では、こちらだな」
余裕たっぷりに魔樹が言うと、慧は苦笑いを浮かべた。
「魔樹? 僕の話を聞いていましたか?」
「もちろん、聞いていた。だからこそ、暗い道を行くんだ。捕らえた獲物を、その場にとどめ続けるとは思えない。絵描き歌を解いた学生が次々やってくることを期待しているのだろうからな。精神攻撃を好むやからなら、暗いところに移動させて繋ぎとめるだろう」
「なるほどね」
納得した慧は手のひらを差しだして魔法の光を生み出した。
「じゃあ、暗い道を探索しましょう」
魔樹は軽く頷くと、ほんのりと照らしだされた通路の先を目指して歩き出した。
***
魔樹が行ってしまう。それが掟だとわかっていても、亜依の心は割れそうなほど痛んでいた。十歳になれば育った家を追い出される。それは魔女が治めるどの国でも変わらない掟だ。ただ、久久能智国には魔法学園がある。
国の八割を超える【ライトカラー】の子どもたちは生活苦を知ることなく大人になれる。なのに魔力がない【黒曜石】の魔樹には、なんの後ろ盾もない。家から追い出されれば不当な報酬しかもらえない肉体労働か、無賃の商家の下働きか、伝手を得られなければ物乞いか、下手をすれば犯罪に手を染めるものさえいる。
そんな過酷な状況に追いやられた魔樹に、亜依はなにもしてやれない。幼い頃は自宅に魔樹を迎え入れればいいと思っていた。だが、そんなことは不可能だと、【ダークカラー】には世間の目は厳しいのだと、両親のまなざしが思い知らせた。亜依自身でさえ、十歳になれば家から放逐されるのだ。
魔樹の居場所はどこにもない。ぶかぶかの魔衣をかぶって去っていく魔樹を、ただ見つめることしか出来なかった。
はっと目を開いた。嫌な夢を見ていた。そんな思いだけが残り、夢の内容は少しも覚えていない。半身を起こしてあたりを見回す。
数人の学生が倒れて折り重なっている。あわてて駆け寄り呼吸を確かめた。全員息はあり、眠っているだけのようだ。亜依は胸を撫でおろし、あらためて周囲を確認するため目をやった。
石造りの牢屋だ。でこぼこした岩が四周を取り巻き、一辺には獣の牙のような尖った岩が何本も並び、学生たちを閉じ込める柵になっている。柵を両手で握り揺すろうとしたが、びくともしない。なにかの魔力を感じるが、亜依の能力では解析は出来なかった。
眠っている学生を起こそうと肩を掴んで揺さぶる。
「起きて! 大変なの、私たち、閉じ込められてる!」
自分より幼い学生たち、制服に縫い付けられた学園の紋章をかたどった刺繍は、十歳組のものだ。学園生だとすればライトカラーの子どものはずなのに、なぜか皆、髪の色が真っ黒だ。まるで【黒曜石】のように。
なにが起きたのかわからないが、年長の自分が皆を助けないと。亜依はぐっと唇をかんで柵を睨みつけた。
「あら、お目覚めね」
突然聞こえた声に驚いて身動きが出来なくなった亜依の目の前に、一人の魔女が立ちふさがった。
「飛白先生?」
紫色の髪を優雅に背中に流し、飛白は妖艶な笑みを浮かべる。
「思ったより早く夢から覚めたのね。やはり高学年はだめだわ、扱いにくい。魔力も抜き取りにくいし」
なにが起きているのか、なにを言われたのかわからず、亜依はじっと飛白の顔を見つめた。いつもと雰囲気が違う。それよりなにより、まとっている魔力から敵意が感じられる。
「あなたがなんでここにいるか、知りたい?」
罠かもしれない。質問に答えると術師に体を乗っ取られる魔法があると講義で聞いた。眼前にいる飛白から教わったのだ。
だが、今の亜依には飛白と言葉を交わすこと以外、出来ることはない。
「知りたいです」
飛白は口の端を目いっぱい引き上げた悪魔のような笑みを見せた。
「おばかさん。あれほど言ったじゃない。怪しい言葉に返事をしてはいけないって」
びくりと亜依の体が痙攣した。全身が硬直して手足がぴんと伸び、まるで操り人形のような姿になる。飛白はそんな亜依をにやにやと観察する。
「ああ、かわいそうに。そんなに大きく育った子では、きっと実験は失敗するわね。魔力は移せないでしょう。世の中のためになることも出来ず、無駄に命を散らすのだわ」
「誰の命が散ると言ったんだ?」
いつ忍び寄ったのか、飛白の首に腕をかけ、魔樹が熱を放つ魔具を飛白の顔面に突き出した。
「動かないで。触れたら顔が焼けただれる」
触れてもいないのに魔具が発する熱で飛白の頬が赤くなっていく。
「柵を開けろ」
背後に佇む魔樹には見えなかったが、飛白は憐れみを込めた笑みを浮かべた。
「あら、お姫様を助けに来たの? かわいそうに。あの方に歯向かって、無事でいられるものなんていないのに。どれほどむごい仕打ちを受けるか。ふふふ。楽しみだわ」
飛白は魔樹が持つ魔具に顔を押し付けた。そのまま勢いをつけて魔樹の腕を振り払う。魔樹から逃れた飛白の顔の半分は無残に焼けただれていた。飛白は苦痛に顔を歪めながら、魔樹たちから距離を取る。
「人を害した気分はどう? 後悔してる? それとも正義感で自分がした仕打ちを肯定している? どちらにしても、私の痛みは変わらない。あなたの行為もね。せいぜい悩み苦しむといいわ」
飛白は皆をぐるりと見まわし嘲笑って、煙のように消えた。
しばらく亜依も慧も動けなかった。静止の魔法をかけられたかのようにびくともせず、魔樹から視線をそらして俯いた。魔樹は魔具をコートのポケットに深く押し込む。
「慧、行くぞ」
短く言って、闇の濃い方へ歩き出す。
「ちょっと待って、魔樹。まだ柵が……」
慧が言うと、魔樹は立ち止まり感情のない声で答える。
「飛白が大けがをしてまで守った牢だ。解呪して無理に開けるより、そのままの方が安全だろう。亜依、その子たちを頼む」
亜依は暗闇に向かって歩き出した魔樹の背中を見つめた。十歳になった魔樹が街から去っていった時の後ろ姿を思い出す。だが、今はその時とは違う。成長した亜依は魔樹の力になれる。
「任せて、魔樹。この子たちは絶対に守るから」
魔樹は手を挙げて軽く振ってみせた。
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