第10話

 学校を休むのも3日目ともなると、なんの抵抗もなくなっていた。母が他界して以来休んだことはなかったので初日と2日目はなんだか悪いことをしているような気持ちになったが、そんな気後れも今朝にはなくなっていた。父に今日まで休みたいと伝えると、なにも聞かず学校に連絡してくれた。


 私は朝食をとりにリビングへ向かった。母が生きていた頃の足跡がたくさん残るリビングにも、今は慣れて普通に生活ができている。

 父が母を今も心から愛しているのがわかる。母の持ち物はあの日からそのままの状態でクローゼットや本棚に残されている。それどころか食器や調味料の並びさえ父は変えることを許さなかった。たくさんの母の残り香がしばらくは私を苦しめたが今はそれも生活の一部として私の中に落とし込まれている。

 それでも、私にはどうしてもダメなものが1つだけあった。

 私は未だに母の写真を見ることができずにいた。母はどの写真でも笑っていて、その笑顔を見ると、瞬時にあの日の光景や感情がよみがえってしまうのだ。そのせいで、このリビングには、テレビの周りやテーブルの上に伏せられた写真立てが点在する。同じようにあのケーキ屋にも、未だに入ることができずにいた。私は無意識に甘いものを遠ざけるようになり、いつの間にかそれは敬遠から拒絶へと変わってしまう。気づいた時にはもう遅く、トラウマのように身体が過剰に反応するようになってしまった。

 いつか、母がやっていたようにスティックシュガーを2本入れた甘いコーヒーを私も飲めるようになるだろうか? そこで、先日の光景が脳裏に蘇った。


 あの日、田中君は喫茶店でコーヒーを頼み砂糖を2本入れて美味しそうに飲んでいた。店員がスティックシュガーを2本持ってきた時、彼は店員を不思議そうに見ていた。

「2本入れる人もいますから」

 店員がそう告げると彼は納得したようだった。

 その時、コーヒーに大量の砂糖を楽しそうに流し込む母の姿が彼と重なった。瞬間的に泣きそうになったが、私はなんとか涙を堪えることができた。

 彼に動揺はバレなかったが、私の失態をいじってきたこともあったので、2本目の砂糖を入れたとき私は彼を目一杯子供扱いしてやった。本当に子供なのは自分だと理解すると胸が少し痛くて、悔しかった。

 だけど、こんなにも子供の時みたいに話し合えることが楽しくもあったのだ。田中君とは、母が生きていた頃の本当の私で接することができた。


 だけど、もうそれも叶わないかもしれない。私がすがれるものが、また1つだけになってしまった。


 私は自室に戻り、制服のポケットからあるものを取り出した。

 日付の書かれた包装袋。それは私と母が大好きだったシュークリームを包んでいた袋だ。今はもう売られていないその商品の包装袋がなぜ学校に落ちていたのかはわからないが、この学校にあの日私が話をした子がいるのは間違いない。思い込みの可能性も残る状況ではあるが落ち込む私の視野はかなり狭くなっている。推測だったものは既に確信に姿を変えていた。


 早くあの子に会いたかった。

 ついでにこんな酷いやつがいるんだと田中君のことを話して少しでも落ち込んだ気持ちを晴らしたかった。


 何か手がかりはないかと考えていると、家のインターホンが鳴った。



[つづく]

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