第9話
中学2年の春、母が他界した。
その日から、何もかもが私を
母は甘いものが好きで、特に商店街のケーキ屋がお気に入りだった。そのお店の前を通る度にケーキを買ってしまうほど、母はケーキに目がなかった。
その日は新しいケーキが出たらしく、新作ケーキのイラストと簡単な紹介が書いてある手作りのポスターが店のガラスに貼られていた。私はそのケーキを、両親の分と合わせて3つ購入した。もしかしたら母も同じことを考えていて、家には既にケーキが3つあるかもしれないなと思った。私はその時、そう思えることがなんだか幸せな気がして嬉しくなった。
帰宅すると玄関のドアにはカギがかかっていた。買い物に行くには遅いなと思いつつも、母は少し抜けたところがあるので買い忘れでもあったのかもしれないとそこまで気にはとめなかった。
荷物を部屋に置きキッチンに向かうと夕飯の準備がされておらず、なにか妙な違和感を覚えた。
リビングのソファーに座りテレビをつけた。テレビのチャンネルを変えていると、知っている景色が映り、私は無意識に手を止めリモコンを机に置いた。
現場から情報を伝えるためにアナウンサーがいるのは、この町の商店街から少し離れた交差点だった。そこはよく事故が起こる場所だったこともあり、誰かがまた
「え……なんで?」
テレビには母の名前が表示された。
橘香織(38)意識不明
その言葉を脳が理解した途端、世界が止まったかのように私を一瞬で静寂が飲み込んだ。音もなくテレビの中で続く報道も、すぐに別の町のグルメを紹介するコーナーへと切り替わった。その残酷な日常が私の中に怒りを灯した。
そこで、私は我に返った。震える手でリモコンを手に取ると再びチャンネルを変えた。すぐに先ほどの交差点が映り同じように報道されている番組を見つけた。
「現場には、おびただしい量の血溜まりの跡と、これは……ケーキが入っていた箱でしょうか? 被害者が持っていたと思われるものが潰れ中身がわずかにはみ出しています。おそらくケーキか何かの箱の様なものが血痕から離れた場所に落ちています。衝突の際に被害者の手から離れたと考えると、相当な衝撃だったことが予想されます」
情報が増える度、手の震えが大きくなっていく。心臓が耳元で拍動しているかと思うほど
悲しさか悔しさか恐怖なのか、わからない何かを叫びたかった。しかし声を出すことも出来ず、わなわなと震えることしか出来ない。
私は落ち着くためにキッチンに向かいグラスに水を注ごうとしたが震える体をうまく扱えずグラスを1つ床に落として割ってしまった。グラスはけたたましく音をたて割れたが、そのおかげで私は驚き、体が硬直すると手の震えがわずかに収まった。新しいグラスに蛇口から水を注ぐと一気に飲み干した。
少しだけ落ち着きを取り戻した私は、父に電話をかけたが繋がらなかった。
そこからの記憶はあまりなく、気づくと私は報道されていた事故の現場に来ていた。
既に辺りは薄暗く、報道された母が私たちのために買ってくれたであろう潰れたケーキの箱などは片付けられていた。
近づき目をこらすと道路の色が変わっているところがあった。それが血痕だと直ぐに理解できない程の大きなシミをぼんやりと眺め、その事実を理解した。その瞬間、私は嘔吐した。
今まで感じたことのないたくさんの感情が私を襲った。信じられないほどのストレスに叫ぶよりも、涙が流れるよりも先に、私の意識が飛んだ──
目を覚ますと、私は自分のベッドで寝ていた。口の中が気持ち悪くて直ぐに洗面所へ向かい口をゆすいだ。顔を洗い何か悪い夢をみていたような気がしたが特に気にせずリビングに向かうと、父がテレビもつけずソファーに座っていた。
「玲、起きたのか。大丈夫か? 昨日のこと、どこまで覚えてるんだ?」
何を心配しているのかわからなかったが、昨日のことと言われて全てを思い出し血の気が引いた。瞬間的に胃液がせり上がってくる。
父はテーブルの上にあったビニール袋を広げ私に渡すと無言で背中を擦ってくれた。
「しばらく横になって休んでなさい。学校のことも今は考えなくていいから。落ち着いたら話をしよう」
父の言葉はあまり頭に入ってこなかったが、いつもと様子が違って声に力が入っていないことが悲しさを膨らませた。辛いのは私だけじゃないのに、大人は凄いなと思った。父の気遣いが私を落ち着かせてくれた。
「お父さん……」
ごめんね、と続けようとしたが言葉が出てこなかった。代わりに涙が溢れた。
「なんで……お母さんなの?」
震える声で問いかけた。問いかけずにはいられなかった。その時、テーブルの上に置かれた自分が買ったケーキが目に入った。
瞬間、ケーキを食べながら笑う母の笑顔が浮かんだ。
感情が激しく波打ち、私は崩れ落ちた。その場で泣き崩れる私を父は抱きしめ頭を撫でて落ち着かせようとしている。徐々に落ち着きを取り戻すと食べられることなく残されたケーキがこの部屋でただひとつだけ浮いているように感じた。
母のためのケーキだが、もう母が食べることはないのだ。母が大好きなケーキを私はこれから食べる度に、母のことを思い出すのだろうか。それが自分にとって良いか悪いかを考えていると頭の中で整理がつかなくなってしまう。
とにかく今はケーキなんて見たくなかった。
「ごめんね、ちょっと部屋で1人になってもいい?」
涙も乾き、少しだけ落ち着いた。
「あぁ……」
父はなにか言葉を飲み込んだような気配があったが、私は構わず部屋へ向かった。
部屋で1人きりになると枯れたはずの涙が再び流れ始めた。ベッドに倒れ込むと、子供のように涙を流した。
いつの間にか疲れて寝てしまったようで、時計を見ると朝の10時を過ぎていた。普段なら学校で授業を受けている時間だ。
習慣的に部屋から出てリビングに向かった。いつもならそこには母がいるはずなのだが、今日はいない。今日も、明日も、明後日も、この先ずっと母はいない。
静かな1人きりのリビングで、母にもう会えないのだと、私はやっときちんと理解した。途端に、テーブルに我が物顔で存在するケーキを憎く感じた。ケーキの箱の白さにすら腹が立った。私の中の何かが弾け、私は奇声を発して、怒りを振り払うようにケーキの箱を壁へ薙ぎ払った。
壁には家族で食べるはずの新作ケーキの欠片が虚しく飛び散った。
[つづく]
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