第5話

 何故彼女が僕を呼んでいるのかを必死に考えてみたが、やはり答えは出なかった。

 教室のドアまでの数メートルが、とても遠く感じるほどにゆっくりと時間が流れているように思えた。これほどの猶予をもってしても橘玲が何を考えているのか、僕には想像もつかなかった。


「えっと、なんでしょうか?」

 僕は、恐る恐る尋ねてみた。

「なんで敬語なの? それよりさっきなんで逃げたの?」

「いや別に逃げてなんて――」

「逃げたわよね?」

 突き刺すような視線と語気に僕は逃げ場がないことを瞬時に理解した。

「この前のことがあったからなんかちょっと気まずくてさ。あと君、恐いからついね……」

「私、恐いかしら?」

 彼女は心から驚いているようだった。

「君、愛想も良くないしけっこう恐いよ。もう少し笑った方がいんじゃない?」

 彼女が僕の探していた人だったからなのか、いつもは口にしない軽口を挟み自ら距離を詰めようとしていることに自分でも驚いた。さっきまでは逃げていたのに今度は近づこうとしている。その矛盾が自分でもなんだか面白く思えた。

「あなた、けっこう失礼ね。でもそうね、先日のお詫びもしたいし放課後少し時間をもらえるかしら?」

 思わぬ提案に緩みかけた頬をひきつらせ、ニヤケそうになるのを必死に堪えた。

「構わないよ。じゃあ放課後、君の教室まで行くよ」

 僕はできる限り落ち着いた振りをして答えた。

「悪いわね、よろしく。じゃあ私戻るわ」

 そう言って彼女は自分の教室へと歩きだした。その余裕のある背中を、僕は羨ましく思った。



 放課後、彼女の教室へと向かおうとする僕を前の席に座る田中が振り返りニヤニヤと見てきた。僕はそれを一瞥いちべつし、なにも言わず席を立った。


 彼女は教室の外で待っていた。廊下の窓を開け中庭を見下ろす彼女の横顔を、僕は何故か寂しそうだと感じた。そしてその儚さとも取れる憂いを含むような表情を、このままずっと見ていたいとすら思えた。その結果、僕はいつの間にか立ち止まり、彼女に見とれていたのだ。

 一瞬、風が吹き抜け彼女の長い髪をヒラリともてあそんだ。

 彼女は風に少し驚き目をつむり、風の悪戯から逃れるように僕の方へ顔を反らした。開かれた瞳に写る突っ立った僕は、きっとアホ面だったに違いない。

「そこで何してるの?」

 彼女に睨まれてしまうが、上手い言い訳も見つからない。

「いや、なんか話しかけずらかったというかなんというか……」

「まぁいいわ、行きましょう。あなたも商店街を通るんでしょ? 適当な喫茶店で少し話しましょう。お詫びとしてご馳走するわ。なんでも頼んでいいわよ」

 そう言って彼女は歩きだした。僕は家来のように彼女の少し後ろを歩いた。


 商店街にある喫茶店に入ると、店員からカウンターに近い禁煙席のテーブルへと案内された。どうやら客は僕たち2人しかいないようだった。

「私はブレンドのMにするわ」

「じゃあ同じやつで」

 ブレンドが何かもわからず僕は即答した。ホントはケーキも頼みたかったのだが僕だけ頼むのも気が引けて口をつぐんだ。

「すみません、ブレンドのMを2つ下さい」

 通りかかった店員に手を上げ呼ぶと彼女は慣れたように注文した。

「砂糖とミルクはお付けしますか?」

「要りません」

 彼女は片手で軽くNOの合図を送り即答した。

 店員の確認に僕は両方もらおうとしたのだが、彼女のあまりのかっこ良さに自分だけ貰うのは格好がつかないと思い、

「……僕も大丈夫です」

 と咄嗟に答えてしまった。

「大丈夫? 飲めるの?」

 彼女は僕の僅かな言い淀みに何かを感じたようだ。妙な汗が背中を伝った。

「ま、まあね。あ、朝はいつもブラックなんだ」

 聞かれてもない情報を提供すると彼女は薄く笑った。

「あなた、嘘が下手ね」

 彼女の柔らかな表情に、僕の頬も緩んだ。

「やっぱり君、もっと笑った方がいいと思うよ」

 そう言うと、彼女は表情を固くして睨んできたので僕は両手を軽く上げて降参のポーズを取った。


 サイフォンからポコポコと音が聞こえるほど店内は静かだった。

 コーヒーの良い匂いとたまに聞こえるコーヒーを入れる作業の音がとても心地よく感じた。


 黙り混む彼女が気になりふと盗み見ると、先程よりも表情が少し暗くなったように感じた。僕はため息をつきたい気持ちを静かに押し殺した。



[つづく]

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