第608話 未来に向けて

「しかし、汗一つかかずに済んでいるのだからカナリア公爵領でのあの辛い修行の日々は無駄ではなかったということだな」


 深層手前までジョギングしても息も上らなければ汗も出ないときたもんだ。

 これもひとえに時間を惜しまず、手加減の欠片もなく、こちらの悲鳴を完全に無視しながらも笑顔だけは忘れることなく時に厳しく、時に厳しく鍛えて上げてくださった諸先輩方のおかげだな。


【なんと驚きの厳しさ100%】


 よし。お礼がてら、お一人お一人に濃緑色の葉っぱを送ろう。


【葉っぱはダメ、絶対】

 

 ははっ!

 冗談だよコマンド。

 手加減という言葉を辞書から抉り出し、切断ののちに溶解したようなおじ様達だ。

 葉っぱを送って下手に刺激したら、こぞってオーレナングまで乗り込んでいらっしゃる可能性があるからね。

 そんな風にカナリア軍のおじさま達へのささやかな報復行為に及ぼうとする自分をギリギリで抑え込んでいると、メアリが首を傾げる。


「辛かった? 本当かよ。表情一つ変えずにずっと屋敷の周り走ってる兄貴を見て、メイドの姉ちゃん達だけじゃなくてカナリア軍のおっさん達も引いてたぜ?」


「表現が悪いな。せめて驚いていたと言ってくれるか?」


 号令があるまで止まるな! って言うからリクエストに応えて走り続けていただけであって、そこに引かれるような要素はなかったはずだ。

 

「あれは驚きを通り越してたって。朝から晩まで、って、本来なら例えじゃん。でも兄貴はそれを文字通り実現してみせたからな」


 よーいどん! から止まってヨシの合図までがまあ長いこと長いこと。

 僕みたいなスタミナタンクじゃなきゃ、きっと倒れてたね。

 

「最後のほうは、兄貴が一日で何周走れるか賭けてたからなあのおっさん達」


 護国卿捕まえて賭け事するなんて不敬でやだー。

 まじで葉っぱ送ってやろうか。


「流石はレックス様です。私ももっと体力をつけないと。愛する旦那様に置いて行かれてしまうかもしれません」


 え、ついさっき走力の差をまざまざと見せつけて僕を置き去りにしたよね? なんて野暮なことはもちろん言わず、優しくその手を握る。

 

「僕がエイミーを置いて行ったりするわけないじゃないか。死ぬまで二人で手を取り合って、一緒に歩いて行こう」


 妻の手を握る僕の顔には、史上最高クラスの爽やかな笑みが浮かんでいることだろう。 

 なぜわかるかって?

 エイミーちゃんの頬がほんのりと赤く染まり、溢れそうなくらい大きな瞳が潤んでいるからさ。


「レックス様……」


「エイミー……」


「レックス様。前方から魔獣がやってきておりますが、爺めとメアリさんが屠りますのでご安心を。ごゆるりと奥様と過ごしてくださいませ」


 そんなこと言われてラブシーンを続行できるほどメンタルは強くないです。

 

「空気を読めと言っても、魔獣には無理か……」


【森の中のラブシーンは空気を読めていますか?】


 今日元気だねコマンド。

 あ、召喚しちゃう?


【回答に困ります】


「空気読める魔獣なんていねえ……いや、いるか。ゴリ丸とかドラゾンとかマジュラスとか」


 名前が挙がったゴリ丸が照れたようにメアリの頭を撫でる。

 褒められて嬉しいのはわかるけどやめなさい。

 メアリの首がもげるから。


「あら、ミケちゃんとミドリちゃんは?」


 エイミーちゃんの問いかけに、ゴリ丸の撫で撫でから逃れたメアリがゆっくり首を振る。


「あいつらはなんかこう、もっとやんちゃな感じ」


 確かに。

 あの子達は空気なんか読まずに楽しいことしようぜ! って雰囲気がある。


「ふふっ。あの子達が聞いていたら怒らせてしまうわよ?」


「メアリさえよければ喚ぼうか」


「喚ぶな! 脅威度Aの魔獣を怒らせるとか怖すぎだろ。ま、ほいほい前に出られるくらいならイチャついてくれてていいや」


 よし、ジャンジャックだけじゃなくメアリの許可いただきました!

 

「では遠慮なく」


「そこは空気読んで遠慮しろよ。じゃ、いくぜ。爺さん、お先」


 引き続きエイミーちゃんの手を握った僕にきっちりツッコミつつ、メアリが駆け出す。

 

「おやおや、老人を優先することもできないとは悪い子ですねメアリさんは。ではレックス様、失礼」


 軽やかに先行する若手を力強い踏み込みで追うベテラン。

 ジャンジャックやハメスロットなんかのベテランが現役のうちに、次世代の体制整備を進めないとなあ。

 二人の姿を眺めながらそんなことを考えていると、エイミーちゃんが僕の腕にそっと触れた。


「レックス様達がカナリア公爵領に行っていらっしゃる間、ずっとクーデルが心配していたんですよ? 可愛いメアリがムキムキの筋肉ダルマになって帰ってきたらどうしようと」

 

「クーデルが? それは意外だな。あの子はメアリがどうなろうと愛しそうなものだが」


「そうではなく。細くて可愛らしいメアリが修行を経て、筋肉と共に男臭さや渋さを身に付けて帰ってきたりしたら、興奮でおかしくなってしまうと」


 クーデルは通常運転だったようです。

 ブレないことは頼もしいことだ。


「やはりどうなろうと愛することには変わりないわけだ。平和で結構。我が家はそうでなくてはな。サクリやマルディにも、メアリとクーデルのように魂で繋がったような相手が見つかればいいのだが」


 あの子達が苦労しないよう、人材確保と並行して一日でも早く我が家の狂人評価を薄めるべく行動しないといけないな。

 よし、頑張ろう。


「大丈夫です。私がレックス様と巡り逢ったように、必ずあの子達にも素晴らしい出逢いが訪れるでしょう」


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