最終話 『YESブランド』が売れた理由

 その電話はある日、突然掛かってきた。

 トュルルルル♪ トュルルルル♪

 ん? 裕香からだ。

「はい、どした?」

 ——ねえ、何したの?

 いきなり何したって言われても僕には何の件なのかサッパリと分からない。

「何の話?」

 ——『YESブランド』よ。『YESブランド』が大変なのよ

 『YESブランド』が大変って、余り売れていないって言ってたから遂に『もう、おしまい』とお義母さんから宣告されたんだろうか。


 でも、今『何したの?』って言ったよね。

「私は何もしてないけど……何があったの?」

 ——さっき亜美から電話があって『駒込のカイリアに女子高生が押し寄せてきて「YESブランド」を買い漁ってる。既に売り切れた物もあって人が倉庫に在庫を取りに行ってる』って

 お終いの話じゃなくて良い話の方だった。

「良かったじゃない。売れたんだったら」

 ——……

「どしたの?」

 ——駒込のカイリアの前に女子高生が数百人はいるらしいよ

 えっ! 数百人も?

「そんなにいるの?」

 ——今、他店からも応援を呼んでるしママや亜美も店の前で交通整理してるって。女子高生は増える一方で、このままだと駒込駅のホームが人で埋まりそうで危険だって

 マジか。


「でも、急に売れ出してどうしたんだろうね。テレビでバズったとか!」

 ——並んでる女子高生に聞いたんだって。『どうして「YESブランド」を買いに来たんですか?』って

「うん」

 ——そうしたら『ハクビさんがサインに使っているペンが「YESブランド」のだって雑誌の記事を見て知って。私も自分のパーソナルカラーのペンが欲しいと思って来てみたらノートとかボールペンとか他にもカワイイ物があったんで』だってさ

 あぁ、あの編集部の人が記事にするって言ってたやつだ。


 僕は普段、裕香からもらった『YESブランド』の緑色のペンを使ってサインを書いている。緑色のペンを使っている理由はその色が#089100の色番号のペンであり、ハ・ク・ビで八・九・百(ハ・ク・ビ)だからと編集部の人に話をした。


「それ編集部の人にあのペンを見せたら『記事にしていいですか?』って言われたから『良いですよ』って言っちゃったやつだ」

 ——お陰さまで今日初めて『YESブランド』は品切れが発生しました。何が品切れになったと思う?

「そんなの分かるわけないじゃん」

 僕はPOSじゃない。

 ——#089100のサインペン。ハクビ色の緑のペンが全部売れちゃった

「私の使ってるペンっていうこと?」

 ——ハクビの影響力は凄いなぁ

 へえ、そんなんで売れちゃうんだ。


 この時には大勢の人たちが押し寄せはしたが特に事故とかが起きることもなく、人が殺到したことも品切れが起きたこともこの時限りで僕はすっかり忘れてしまっていた。

 そしてそんな出来事があった数日後の週末、珍しく仕事もオフだったので朝ゆっくりと起きた。隣で寝ていた裕香はすでに起き出したようでベビーベッドに香葉瑠もいない。

 朝ご飯に何か食べようと寝室を出て階段を降り始めると階下のキッチンから女性たちの話声が聞こえてくる。

 ん?

 この声は恵実おかあさんと亜美おねえさんの声だ。

 本当はこの二人は十六才年の離れた異父姉妹なのだけれど僕らと四つしか違わない亜美さんのことは怖いのでわけあって裕香も僕も『お姉さん』と呼んでいる。


 裕香と結婚して一年と数ヶ月が経ち、分かったことは関山家の女性陣は仲が物凄く良いということ。

 裕香の祖母にあたる梢さんはまだ現役バリバリの六十五才。『香葉瑠が生まれて私はもうお祖母ちゃんだ』と言ってる恵実おかあさんなんかまだ四十一才だ。

 ここに二十五才の亜美おねえさんと二十才になった裕香が加わると、もうそれだけでかしましくなる。

 この集まりに僕が遭遇すると恵実おかあさんと亜美おねえさんは『伯美くんもおいでよ』と僕も仲間に入れてくれる。

 七十一才になった達道おじいちゃんと恵実おかあさんと同い年の智也おとうさんはこの女性陣のやり取りをただ眺めているだけ。

 鉄鋼職人の親父に兄貴が三人と僕の男五人に対してお袋と姉ちゃんの女二人だけという男が圧倒的に多かった瀬能家とは対照的な光景だ。

 ここに将来、亜美おねえさんの娘である姪っ子の椎菜や娘の香葉瑠が加わるようになれば、それはそれは更に賑やかな日常になるだろう。

 別に嫌じゃないけどね。


 ──YESが軌道に乗って良かったわ

 ──偶然に偶然が重なっただけだったけどね

 恵実おかあさんと亜美おねえさんが裕香が立ち上げた『YESブランド』が一先ず成功したことを喜んでくれている。

 あの品切れの一件以来、カイリアには高校生だけでなく二十代の若い女性たちも連日『YESブランド』を求めて列をなしていると聞いている。

 全く売れなくて倉庫に在庫の山が築かれていると聞いていたから僕もホッとした。

 ──結果としてだけど裕香の言った通りになったわ

 ──裕香が何か言ってたの?

 ──そのうち何とかなるんじゃない、って

 それは裕香に何か考えがあった訳じゃないと思う。

 ただ適当に言ってただけな気がする。


 仲良し姉妹の会話に加わっていいものか? と、階段の途中で立ち止まったまま聞いていると話は妙な方向に向かい始める。

 ──それにしてもあなた達はホント無茶するんだから

 ──えへへ。でも上手くいったでしょ

 ──上手く収まったから良かったけど一歩間違えてたら大変なことになっていたわよ

 大変なこと? 何のことだろう。

 ──伯美くんに裕香を襲わせるなんて酷いわよ

 えっ、僕のこと?

 裕香を襲ったって、あの彩美音祭に出品した絵を描ききった後の一件を恵実おかあさんと亜美おねえさんは知っているってこと?

 ──裕香は前に出たがらない子だから奪えないのならば奪われればいい。それを入れ知恵しただけだから

 ──伯美くん、優しい子だから多分未だに心に傷を負ってるわよ。ちゃんとフォローしておいてあげてね

 あの一件は亜美おねえさんが裕香に入れ知恵してたんだ。

 あの裕香があんな大胆なことをするなんておかしいと思った。


 その時だった。後ろからギュッと抱きしめられた。

 裕香だ。見なくても抱きしめられた感触だけで分かる。

「聞いちゃったね?」

「聞いちゃった。おかしいと思ったんだ。裕香にしてはやることが大胆すぎだもの」

「でもね、伯美のことが好きで近づきたいって、そうずっと思っていたのは本当だよ」

「裕香っていつ頃から私のこと好きだと思っていたの?」

「中学生の時から」

 そんな前から。全然、気付かなかった。

「でも、全然素振りどころか話すら一回もしたことなかったじゃない」

「だってその時には諦めたんだもん」

「諦めた?」

「うん。だって、伯美の周囲はいつも女の子で溢れていたからさ」

 『私が、私が』と前に出てこないのが裕香らしい。

「私、他人と争うのって得意じゃないから」

 でも、黙ったままじゃ伝えなければいけないことも伝わらない。

 ただ、僕は今、間違いなくこう思っている。

「まっ、結果論だけど私は裕香と結婚できて幸せだけどね」

 そう、これだけは間違いない。

「私だって」

  裕香がさらにギュッと僕を抱きしめる。

  うん。これでいい。僕らはこれでいいんだ。


<了>


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