不良くんは自分を見てほしい

 本当に、何でもないかのように。まるで世間話をするかのように。


 するりと口から発せられた内容、白雪は知らず知らずに息を止めていた。


 すぐさまに否定を重ねる己をねじ伏せて、ゆっくり舌の上で転がし咀嚼する。噛んで脳へと通達させた。ぱちぱちと視界が電気のように光が爆ぜる。熱が上がるのを感じた。


 逃げるな、と自分を叱咤する。彼の好意を受け止める義務が白雪にはある。それだけ蒼汰とは近しい人間になった。認めるほどには共に過ごした。


「それは、つまり」


「言ったろ、嘘はつかねぇ。お前も噂、聞いて、知ってるはずだ。それは間違いじゃねぇよ」


 彼は、本当に、何もかも把握しているのだろう。神様のような感想を抱く。取り繕うだけ無駄なのだろうな、と白雪は唇を噛む。 


 知らぬ存ぜぬでは通らない。


 はく、と酸素を食べるように動く口は意味をなさない役立たずだ。


「泣かしてやりたいと思ってるのも本当」


「なに、それ。なんで好きな相手を」


 矛盾。噂を否定し続けたのも最初の「泣かす」という発言がひとつの原因だ。何故かと頭の中で繰り返すが、適切な答えは見つからない。霞がかかって、砂に埋もれていく。


「私が、鬱陶しいから? 目障りだから泣かせたいとかじゃないの」


 可愛くない。なんて酷い言葉だろう、なんて嫌な女だろうかと他人事のように思う。彼が、この態度で離れてくれるのを願う浅ましさ。自嘲に笑えば、彼の腕の力が幾分か強まる。


 ぎりと歯ぎしりがして、彼は何か耐えきれなくなったように、すぅと軽く息を吸った。瞬間。


「――お前が! 作り笑いで自分を騙して壊して、苦しいのを全部溜め込んでるからだろうがッ!」


 慟哭だった。苦しみと悲しみを滲ませた、切なる叫びが白雪の心を直接びりびりとふるわせる。視界がゆらりと歪んで、堪えられず目を閉じた。頬に滑る温かい水滴が彼の服に吸収される。


 試すような行為も彼の叫びにかき消されて、次に吐き出すはずだった毒も失ってしまった。必死で真摯で、真っ直ぐな熱が容赦なく注ぎ込まれていく。


 瞼の裏にうつるは、彼の顔。


「吐き出せ、じゃねぇとお前が壊れちまうぞ」


 最後の砦を彼は壊すのでもなく、するりと風のように乗り越えて白雪の奥へと触れた。


 応えなければ。いや、ちがう。


 白雪は彼と過ごした日々を抱いた。彼はいつだって助けてくれたのを覚えている。正しいと思ったのは間違いじゃないと、今でもはっきり言える。


 ――あぁ、応えたい、な。


 彼に、彼だけには。誠実に、正しい彼に見合う人間でありたい。逃げないで、怖いと顔を背けないで、まっすぐ見つめ返したい。さっきのような毒は、あまりに不誠実だ。

 

 何度か口を動かして、でもあと一歩を踏み出せない。藻掻いて息苦しくてたまらない。それでも、と白雪はどうにか言葉を紡いだ。一言、それだけで全ての体力を持っていかれるような錯覚に襲われる。


「……泣くなっていわれたの」


「そーか。んな戯言忘れろ。今すぐ泣け」


 間髪なく言われて、口元が緩む。彼らしいぶっきらぼうさが身に染みる。声を何度も再生して、意地を張ろうとする己に浸透させていく。


「脅しだ……ほんと」


「何で言えねぇの」


 何故か。


「困らせるだけだから。どうしようもないって怒られる。そんなことで、とバカにする。みんな言うに決まってる。蒼汰くんだって……」


「誰と比べてんだ」


「……え?」


 遮られて、ぱっと顔を見上げた。身長差から彼は腕の中の白雪を見下ろしている。それでも何処か悲しさと苦しみをたたえた瞳からは威圧感などない。いつもの余裕は消え失せ、ぐっと眉根を寄せている。


「お前は、誰と俺を比べてんだよ。お前の話を聞かねぇ教師か? 助けてくれねぇ親か? そのへんにいた名ばかりのオトモダチかよ」


 そこでようやく、自分の失態に気が付いた。


 真っ直ぐにぶつかってきてくれる蒼汰に対して、白雪は全く彼を見ていなかったのだ。いつだって奥の誰かを見つめていた。全て同じ人間だと纏めていたのだ。


 向き合うとは。応えるとは。


 コツン、と額が合わさる。淡藤色が白雪の頬を撫ぜる。瞬きすら忘れて茫然した。


 ぐっと近づく顔、吐息すら触れる距離で彼は睨みつけた。気圧される暇もない白雪を、燃えたぎる瞳の中に閉じ込めて。喉を切るような、悲痛にまみれた怒りの咆哮をあげる。


「比べてんじゃねぇよ、俺に言え。俺は否定しない、見て見ぬ振りなんてしねぇ」


 見ろ、ちゃんと俺を、見ろ。俺を。


「――俺を誰かと同じにしてんじゃねェよッッ!」


 激情を吐き出した彼は震えていた。それが触れている部分から伝わってくる。


 あの裏切られた日。先生と親にも言えなくなったとき、世界は色を失った。それがじわりと取り戻していく。彼の淡藤色から徐々に色彩が広がり、きらめいた。


「……見捨て、ないの」


「大事なやつを手放すほど馬鹿になれねぇよ」


 彼の指が白雪の目元をなぞった。促すように背中も、とん、とん、と緩やかに優しく叩く。


「もう十分だろ」


「なに、が」


「いじめにあって。いじめられないよう、物も気持ちも渡して。いじめるように言われて。教師も、あんなので。今日だって、親に伝わらなくて」


 目尻と眉を下げて、微笑む。愛おしげに、何よりも大切なのだと雄弁に語る。


「お前は、裏切られるのも、嫌だった。誰かを傷つけるのも。だから隠してる。壊れた道化を演じて。もう十分だ」


 よく頑張ったよ。俺は裏切らない。絶対傍にいる。

 だから――壊れるな。


 その瞬間、理解した。欲しかった言葉だと。駄々をこねて、何も言わず私のことを分かってと強請った子供が満足したかのように眠る。無駄だと諦めていた自分が息を吹き返した。


「まだまだあんだろ、全部聞かせろ。お前の辛いのも全部わけろよ」


「……でも」

 

「俺には、全部ぶつけろ」


 いじめられたとき。強要されたとき。


 まるで現在起きているかのよう、鮮明にうつしだされる。幻聴幻覚。過去なんかではない、血が流れていて痛いのだ。フラッシュバックが責め立てる。


 苦しみだけが白雪を支配した。どの場所も幸福よりも地獄での風景がよみがえる。


 だが――今は、違う。彼が手を引き、連れ出してくれた。決して傷は消えなくとも、同時に彼の笑顔や、彼との日々が支えてくれる。拗ねていた自分の傍にいた、彼が。


「ようやく泣いたな」


「……けっこう、前から泣いてたよ」


「そうじゃねぇよ。俺の前で、って意味」


 ぴしりとヒビが入る音を確かに聞いた。それは断続して、途切れず。果てにぱりんと砕ける。外れない笑顔の仮面が壊れたのと同時、初めてしっかり息を吸えたような気がした。息苦しさから解放されて完全に力が抜ける。


 淡藤のカーテンが白雪を覆い、彼の瞳しか見えなくなる。情けなく、泣きじゃくって嗚咽まじりの声が響いた。


「ちゃんと言え。そしたらやっと」


 白雪はうなずく。いっぱい、伝えたいことがあるのだ。

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