言って、そしたら必ず。

不良くんと繰り返す彼女

 ――白雪は己が変化しているのに気が付いていた。


 間違いなく、蒼汰の影響なのだろう。


 彼の言葉が、態度が、蜂蜜のような優しさが白雪が凍らせた心を溶かしていく。感覚と警戒心を鈍らせて判断を甘くしている。


 百都子の心ない発言と、過去が柔らかく解され、白雪にとって大事ではなくなる。


 それがとても、恐ろしかった。


 白雪という人間を築き上げていた要素が、全て脆く崩れてしまいそうで。なくなったら、どう生きていたかも忘れてしまいそうで。


 怖いはずなのに、どうにも蒼汰の傍から離れられない己を理解できなかった。もう手放せないのだと、訴える自分が醜く、嫌いになりそうだった。



 思い出すは二人きりの放課後。

 過去は絶え間なく襲いかかるものだ。


 過ぎ去ったあと、など嘘だ。いつだって鋭く、無数の針が容赦なく突き刺していく。ふとした瞬間、まるで今起きているかのように現実みたいに、目の前に広がる。


 そういうとき白雪は、足が地についていない気がした。不安定な世界に一人ぼっちで目の前が揺れていく。それを膝を抱えてたえる、地獄が終わるまで。


 無遠慮な人工の光を消して、月だけが照らす教室。居残るものも減った頃。帰る気力すらない、――いや、帰りたくない白雪の隣に人は立つ。


「よぉ、そろそろ一人は飽きたか」


 瞼をあげて、のろのろ視線を向ける。淡く輝いたように見える男、予想通り彼である。無表情にも見えるが、これまでの付き合いで感じ取れた、声の柔らかさや瞳に宿る優しさ。


 やはり白雪は、今すぐに逃げ出したくなった。


 作り変えられる恐怖と、過去から連れ戻してくれる安心感。相反する感情が心を荒らしていく。


 息苦しさに、息を吐き出した。


 見られたくないところを、彼は躊躇いもなく暴いてくる。全てから逃げ出したのに、追いかけてくる。誤魔化しも通用しない。


「帰ったと思わせたつもりだったんだけど」

「最初はな。下駄箱に上靴があったから……つーか、俺を騙す為に、んな面倒なことすんな。無駄だっつーの」

「騙されなかった理由は?」

「お前が放課後すぐ帰るわけねぇだろ」


 その通りである。彼はよく、分かってしまっている。

 やはり慣れないことをするのは駄目だ。

 いやしかし、彼のことだ。白雪が、そこまでして一人になろうとしたのを、察しただろう。ならば会いに来ないのが普通なのでは。


 と、考えてから苦笑をこぼす。蒼汰は、そんな気遣いをする男ではない。意地でもそばに――。


「……あぁそうか、一応気を使ってくれたのね」


 放課後。夕日が眩しい時刻に、帰ったと思わせる仕掛けを施した。それから夜の色へと染まるまで、彼は一人にしてくれたらしい。いっそ先に帰った方が楽だろうに、待ってくれていたのだ。


 かたんと椅子が揺れる。静かな教室に、二人分の息遣いだけが微かに聞こえる。向かい合わせになり、彼は頬杖をついて外を眺めた。


 白雪も倣って星がきらめく空を、窓越しに見つめる。冷えた室内は、吐いた息を白くして揺らめいた。


「なぁ」


 お互い顔を見ない。絶妙な距離感に白雪は目を細めれば、彼は呟くように話しかけた。ゆっくりと穏やかに、まるで独り言のような密かさで。凍えるほど冷たい、冬の空気を溶かすように。


「何でもいい。相談すれば良い。俺は否定しない。絶対に、力になる」

 

 そのくせ、心に響くときは芯のある声で。ずるいひと。

 

「たえなくていい。苦しいのを溜め込むのはやめろ、吐き出せ。今は出来ないならせめて、現実に戻ってこい」

「現、実」

「そうだ、ここにお前を責め立てる人間はいない。二人だけだ、そうだろ。怖がる必要はない」


「……なら」


 一拍、沈黙がおりる。咄嗟に溢れかけた言葉を飲み込んだ。どこまでも察しているのは、似ているからか。


 白い吐息を眺めて、ぽつりと囁く。


「なら、なにか、はなして。きかせて、こえを、ちょうだい」


 今もよぎる、過去をかき消すような話を。

 今に、引き戻してくれる声を。


 そう願えば、彼は笑った気がした。「いくらでも。俺の声だけ聞いとけ」無理に聞き出すなどせず、他愛ない日常の話を語りだす。


 それに安堵して、彼の言うとおり、それだけに意識を向けて集中する。


 宿り木のような男だ。鳥が休める場所を提供する姿に、白雪は目を瞑って気持ちを落ち着かせる。


 友などいらぬ。ほざいていたくせに、都合の良いとき擦り寄る自分が気持ち悪くて仕方ないのに。蒼汰に甘えてしまった。他人を頼って。包み込んでくれるのを慣れてしまった。




 ――だから。勘違いしてしまったのだ。




 自分がうまく話せば、理解してくれると。


 そんな夢物語を、無垢な少女のように。








「最近、柄の悪い男の子と遊んでいるって本当?」


 帰宅するなり、居間でコタツに入っていた母が白雪を睨んだ。怒気を孕んだ声音が胸を刺す。


 百都子と白雪は家が近い。


 親同士も知り合いで、おそらく経由して聞いたのだろう。百都子による密告は悪意に染まっている。


 ……彼女が、わざわざ白雪を話題に出すわけがないのだから。


「悪い人じゃないよ」


 十中八九蒼汰を示している。


 事実無根だと嘘をつくのも、後からバレたとき今以上に面倒な状況に陥る。どくどくと騒がしい心臓を服の上から抑え込むように力強く手を当てて、努めて穏やかに、平常を装った。


 母親が心配するような関係でも、人でもないのだ。


「あのね、蒼汰くんは本当にいい人なの」


 確かに蒼汰は自他共に認める素行の悪さが目立つ。


 しかし、白雪にとっては、誰よりも誠実で寂しがり屋で、真っ直ぐな人間だ。


 そうできるだけ丁寧に説明した。電車や勉強、助けてくれた話を事細やかに。だが母親の顔は変化しなかった。


 昔から苦手だった。


 母親と父親は不出来な娘を怒るとき、まるで化け物のようだ。自分とは異なる、得体の知れない生き物へと変貌する。


 そうなれば、もう言葉など通じない。別の生命体なのだから当然だといわんばかりに白雪を押さえつけるのだ。


 机を叩き、私たちの言うことが聞けないのかと怒鳴る。何故わからないのかと責めたてる。心配ではなく「近所の人がどう思うか」「私達は恥ずかしい」と指をさす。


 白雪は泣きじゃくって言葉の半分も頭に入らず、ただ謝罪するだけ。彼らも謝罪以外の言葉は望んでいない。


 それでも。今回ばかりは白雪は、もう一度口を開く。恐怖に震える、情けない自分を叱咤して言い返す。


 どうか彼を悪く言わないで、彼の優しさを知ってほしいと願いをこめて、必死に伝える。


「きいて、おかあさん。あのね蒼汰くんね、確かに見た目は怖いけど勉強は教えてくれるし、困ってる人を放っておけない、自慢の……、知り合い、なの。だからそんな風に」


「危ないって言っているのがどうして分からないの! お隣さんが何て言うか……ただでさえ白雪は学校休みがちで」


 先生の言葉がまたよみがえる。特別教室に行くくらいなら、来なくとも一緒だろうと叱る映像がおそろしいほど鮮明に。過去が足首を掴んで引きずり込もうとするのを、白雪は歯を食いしばってたえた。


 つたえなきゃ、蒼汰くんは、あのひとを悪くないってことだけでも。私のことはどうでも、よくても。


「っおかあさん、危険じゃないよ。巻き込む人じゃない。休みがちなのは、ご、めんなさい。でも最近は蒼汰くんが勉強教えてくれるから何とかついていけて」


「大体勉強って、先生に聞けばいいでしょ!」


 母の手が机をたたき、上に乗っていたコップが倒れた。


 ばしゃんと麦茶がこぼれたのを舌打ちして布巾で拭く、荒っぽい動作と発言に、ぐらりと世界が揺らぐ。


 せんせいに、きけば。


 どろりとした黒い粘着質な液体が落とされ、渦巻く。鈍くなる思考に、目が焼けるように熱くなって、視界が滲んだ。


 ずっと、何度も先生とのいざこざを前に説明したが、やはり覚えていなかった。その事実が、白雪を蝕んで呼吸を奪う。冷静さは既に欠けて、砂になる。かわいてひび割れた心と喉でぽつりと、無意識に呟く。


「おかあさん、わたしね。先生と喋るのこわいの。他の、子とも、なかよくできなくて。蒼汰くんだけが」


「――だから! 私にどうしろっていうのよッッ!」


 虐められているからって、それをお母さんにどうしろって言うの!


 コタツから立ち上がった母が、濡れた布巾を持って白雪の肩とぶつかる。そのまま見捨てるように居間から台所へと消えていった。


 捨てられた犬のように、白雪は尻餅をついた。ぺたんと座り込み虚ろな目で畳を見下ろす。いぐさの香りがかすめて、胸が締め付けられる。家で嫌な出来事が起きるとき、いつも嗅ぐ臭いだ。


 ――ああ、ほら。繰り返しだ。











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