やってきた不良くん

 そんな。なんてことのない過去を思い出していた。だから普段より注意力散漫だったのかもしれない。


 ――空き教室に携帯電話を忘れたと気が付いたのは、昇降口で靴を履き替えているときだった。


 殆どの生徒が帰ったあとの、静かな校内で白雪は犯したミスに重いため息をつく。


 教科書や筆記用具ならば気にしない。しかし携帯電話は必需品、あれがなければ白雪は死んでしまう。あながち冗談でもない。


 夕日は沈み、夜の帳が下りる外を眺めてから踵を返して階段を駆け上がる。空き教室に帰らなければ。


 誰も使わなくなった空き教室は、クラスからあぶれた白雪にとって居場所。何でもいわく付きで滅多に近づく人間はいない。白雪にとって学校で唯一呼吸できる部屋だ。


 問題がなければ、休み時間は空き教室に入り浸る。


 放課後、帰宅時に生徒とすれ違わないように、下校時間をずらすにも有効である。


 寒い冷えきった廊下を突き進み、目当てのドアに辿り着く。鍵は卒業した不良が壊したままらしくかけられていない。慣れた手つきで、横へとスライドして開いて。


「あ、やっぱ来た」


 閉めた。


 ぴしゃん。脳が理解する前に身体が反応していた。


 うん、正しい。その調子で危機から逃げるように頑張ろう。


 見間違えか幻覚か妄想かでなければ、いてはならぬ人物が至近距離に立っていた。


 そもそも白雪以外の人間が入るのを目撃したことがないのだが。誰であろうと困るのだが。


 昼間に変な噂を耳に入れたものだから、疲れているのかもしれない。声も幻聴なのだろう。


 数秒の間。目をこすり、深呼吸。そっと再びドアを。


「閉めるとか良い度胸してんじゃん」


「ぎゃあ」

 がらっと破壊寸前、乱暴にドアが自動で開けられて汚い悲鳴を上げる。


 聞き覚えのある、低めの声。威圧感ばっちりかつ耳に残り痺れるように響く。当然幻覚も幻聴でもなかったわけだが。


 ひぃと情けなく後退ろうとしたが、阻むように腕を掴まれ引きずり込まれる。後ろで無情にも閉まる音。


 地獄に閉じ込められた罪人の気分である。何も悪いことは……多少はあるが、不良に絡まれるような罪はないはずだ。


「怖がりすぎじゃね」


 けらけらと笑う地獄の鬼、ではなく卯之木蒼汰は噂より随分と好青年だった。


 遠目で拝見したとき、電車のとき含め無表情で、物事を冷めた目で見下していた印象なのだが。女子の間でもクール、一匹狼タイプだと。


 しかしまぁ。


 鬼だって不良だって笑うだろう。ほぼ初対面である白雪が「良い笑顔だね。噂と違って驚きました」などのたまうわけにもいかない。


 しおしおと無害である証明を態度で示さなければ。電車では食い殺されると本気で思った。


 あの獣のような眼光と獰猛な声音、圧は二度と体験したくない。


「あの、何か、ご用で」


 いや、ないだろう。


 自分でツッコミを入れる。


 あってたまるか。こちとら教室にすら行っていない、認知しているかどうかも怪しい。


 質問を間違えたかな、と見上げて。再び引き攣った悲鳴を上げた。 


 無言。すんと抜け落ちた表情。


 先ほどの気さくな笑みはいずこへ。頼むから家出せず顔面に貼り付けて置いてほしい。蚤の心臓が今にも死ぬそう。温度差に凍え死ぬ。


 うそ、やだこわ。不良の考え分からない。どこで怒るか分からない。


「泣かす」


 えっ。


 かろうじて愛想を振り撒いていた白雪の仮面に亀裂が入った。


 いつも他人の顰蹙を買わないように、周りに合わせていた笑顔が初めて崩れそうである。


 今、なんて言ったのか。 


「泣かす」


 大事な話なのだろうか。今度は聞き取りやすくゆっくりと伝えられた一言。


 心遣い、痛み入る。


 ……私が何しましたか。えっ普通に生きているだけで? 存在が? 目障りって? えっ不良こわすぎ。


 というかあの噂は。好意を持っているとか戯れ言。いや本気にしていなかったが。嫌われてはいないだろうと確信していた。無関心だろうと思っていたのだ。そうであれ。


「いや、あのわたしは」


「泣かすから覚悟しろよ」


 ぜんっっっぜん好きじゃないじゃん。嫌われてるじゃん。うそつきか。いや勝手に聞いたのが駄目だけれど。


 卯之木蒼汰は、また切れ長の瞳を細めて意地の悪い笑みを浮かべる。八重歯がのぞいて、愛らしいのかもしれないが、白雪にとって凶悪で残忍な笑顔でしかない。


 がたがた、携帯電話のバイブレーション並みに震えそうな身体を押さえ込んで、引き攣った口角を保つ。


 とりあえず原因を突き止めろ、冷静になれ。


「申し訳ございません。知らぬうち何かしたなら謝りますので、できれば何故そうなったのか教えていただけると」


「泣かす」


「対話しませんか?」


「まずは自己紹介だな」


「うそ、ここまで通じないって、まさか聞こえていらっしゃらない?」


「俺は卯之木蒼汰。蒼汰でいい。お前は?」


「泣きそうです。もう泣くので解放してください」


「あ? 答えろよ」


「清川白雪です! よろしくおねがいしまーす!」


 とんでもない眼光である。人を射殺すのが可能なのでは。白雪は瀕死である。


 地を這うような脅しの声にイエスマンになる他ない。


 彼が白といえば、黒でも白と応えねば命を消される気がした。


 間髪なく元気よく名乗った白雪を、じっと睨みつけてから舌打ち。おそろしい。


「よろしくする気ねぇくせに言うんじゃねーよ」


「申し訳ございません」


 お見通しらしい。


 一応表面は気さく、馬鹿な女子を演じているはずなのだが。これで教師陣とかは騙されてくれるのに。


 案外蒼汰は鋭く、機微を見逃さないタイプなのかもしれない。


「お前友達いないだろ?」


「いませんね。いてほしくもないです」


 呆れたように彼が一歩下がる。白雪が普段使っている机に近づくと、何かを掴みあげた。


 暗くなったとはいえ、それが何かを察する。長方形、白雪の携帯電話である。拾われていたのか。


「何で? そういうのをカッコイイとか思う、アレな病にかかってる?」


「いや違いますけど」


 友達という存在を信用しない。いらない。嫌い。


 文面だけで判断すると未来で黒歴史になる感じだ。


 イジメの件で友情という薄ら寒さというか、信頼できない不可視な絆は苦手なのである。積極的に友達を作りたいという気持ちは消え失せていた。


「そうか、将来黒歴史にならないようにな」


「不良って人の話を聞かないのがデフォなんですか?」


「まぁ、これからは俺が友達として食い止めてやるよ」


「もしかして私の存在見えてなかったりしてますか?」


 よし納得。頷く蒼汰に本心がこぼれた。


 不良、しかも女子に人気で妬まれそうな男子と友達など厄介な臭いがプンプンする。鼻が曲がる。


「嫌なのかよ」


 嫌だとも。不良はこわい。苦手だ。


 人は――いらない。


「教室来ねぇのも、トモダチがいらねぇ理由と関係あんの?」


 急所を的確に突く。


 言葉の刃が重く突き刺さり、脳裏に思い出したくもない過去がよみがえった。


 声が、不愉快で、忌ま忌ましい笑いが、支配して。



 ――今日は白雪ちゃんの番だから、ごめんね。

 ――明日からはあの子ね。白雪、アンタは。

 ――いや、いやだ。したくない。

 ――は? なにそれ。

 ――いやだってば!


 ――待ちなさいよッッ!



 ぐっと拳を握り、手のひらに爪を突き立てた。痛みが走り、湧き上がった激情を耐え抜く。


 煮えたぎって消えない映像を噛み殺して呑み込んだ。なかったことにして。


 笑顔のまま無言でいた白雪に、仕方ないと肩を竦める。


 何故駄々っ子を相手するような、不本意そうな顔をされないといけないのか。


「よし、その根暗な根性叩き直してやる」


「こわ……」


「嬉しいって?」


「もうやだこの不良」


「白雪は、これから帰んの?」


「……いや、まだその」


「嘘だったら痛い目にあうぞ」


「帰ります」


 不良は人を脅すのが得意らしい。教師に捕まってしまえ。


 恨みがましく呪っていれば、ぽいっと雑に携帯電話を投げられる。


 落としたらどうしてくれるのだ。慌てて受け取り無事を確認していれば。


 軽快な着信音。ぱっと眩しく画面がついて。


 卯之木蒼汰。


 表示された名前に、あんぐりと口を開いて、ばっと見上げる。蒼汰はひらりと手を振る。空いた手は自身の携帯電話を持ち、耳に当てている。


「操作されたくねぇならパスコード登録した方が良いと思うぜ」


 ぐうの音も出ない。正論はときに痛すぎる。


 いやいや、それでも勝手に触るのは悪だろう。


「ほら、帰るぞ」


「はい……えっあなたも一緒に?」


「文句あんの?」


「ないっす」


 一気に機嫌を急降下するのは止めて欲しい。


 笑っていたかと思えば、急に無表情になる。


 何度も言うが気温差がありすぎて、ついて行けない。さながらジェットコースターである。


 めそめそと彼の後を追う。


 ぺたぺたと、踵を踏み潰した上履きを鳴らして前を歩く蒼汰を、そっと見上げた。


 ちらりと少しだけ振り返った目と合う。


 にこり。笑った彼は優しそうである。


 それでも。


 蒼汰が白雪を好きなど、到底信じられそうにない。

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