不良くんは意外と優しいけど、とてもこわい。
それは一ヶ月前、暗い電車での出来事だった。
がたんごとん。かくん、と揺れて浅い眠りから意識が浮上する。凝り固まった身体に顔を顰めつつ瞼をあげた。
夕日は沈み、窓の向こうは暗闇に人工の光が、ぽつぽつと灯っている。電車内は眩しいほど明るく、眠りから覚めたばかりの目には優しくない。
まだ現実と夢の狭間でぼんやりと、辺りを見渡した。スーツを着た人間で溢れかえっており、そういえばこの時間は帰宅ラッシュだったなと思い出す。
「ふぁ、」
変わり映えのない光景に、白雪は欠伸をこぼした。
次に停車するのは何処か確認しようとすれば、タイミング良くアナウンスが流れて到着する駅名を知らせる。まだまだ降りる駅は遠いようだ。
もう少し寝ていたい。
うとうと、重たい瞼を再び下ろそうと。
急に周りが騒がしくなった。何かが罵声を浴びせて、近づいてくる。嫌な予感がよぎり、顔を顰めつつ辺りを確認した――のだが。
強い酒の臭いを纏い、千鳥足でこちらへと歩く男。
乗客を突き飛ばし、真っ赤な顔で悪態をつく姿は明らかに理性はない。乱れたスーツといい、酒に溺れて気が大きくなっているらしい。迷惑そうな人間の視線なんど気にせず、白雪を見つける。
げ。絡まれる。絶対。
確信したが逃げようにも人が多い。
男は目くじらを立てて、どすどすと目の前まで歩いてきた。上から高圧的に、じろじろと見下ろす。それから吠えるように、唾を飛ばす勢いでまくし立てた。
「こらぁ若者が席を使うとはどういうことだ! お年寄りに譲れ!」
お年寄り。果たしてどこにいるのか。
酔っ払いはどう見ても三十代、周りで遠巻きに見物している人間も似た年齢だ。まさか白雪より上の年齢全員お年寄り判定なのだろうか。ならば譲るべきだろうけれど。
「すみません」
にっこりと愛想笑いを浮かべて立ち上がる。反抗しても良い結末には至らないだろう、聞き流すのがベスト。
言い分は正しいのだ、お年寄りはいないけれど。
「大体、女の子がこんな時間に何してるんだ」
帰っています。家に。
時刻は午後六時。確かに下校時間とはズレているので、心配して叱るならば納得できる。しかし目の前の男は、明らかに白雪を鬱憤晴らすサンドバッグに見立てていた。
「女の子がなぁこんな時間に彷徨いてたら、危ない。俺が送っていってやろう」
「いえ、お気になさらず」
「家に帰りたくないなら俺の家に泊めてやってもいい」
下心が見え見えなのは如何なものか。隠して欲しい。
引きつり笑いになるのをこらえつつ「親が来ますので」と嘘をついた。
すると、更に顔を紅潮させ、ずいっと距離を詰める。
密着されて流石に危機感を覚えた。こんな時間から酔っ払う人間の相手など、初めてで対処が分からない。逃げ道もなければ、周りも助ける気配はない。
ぐっと手首を掴まれ、ぎしりと軋んで痛みが走った。
反射的に振り払おうと力を入れたが、びくともしない。敵わない――追い込まれた恐怖に身が竦んだ。
「人が心配したら不審者扱いか! 何様だ!」
むわりと酒を帯びた生暖かい息が肌に当たり、悲鳴を上げそうになる。ぐいと押しつけられた腰や、腕。胸に伸びた指に身体がすうっと冷えていった。
「こっちを見ろぉ!」
ばしんと頭が叩かれた。
突然の暴力に放心するが、みるみるうちに恐怖がせり上がっていく。再び振り上げられた手が白雪の思考を奪った。
視界が歪み、せめてもの抵抗で、ばっと俯く。ぎゅうと目をつむって。
「あがぁ!」
ごきりと嫌な音と雄叫びにも似た男の声。
迫った危険が、気持ち悪い体温と共に離れていくのを感じて、ぱちりと瞬きをした。のろのろと男の方を見れば。
「な、何をす、ぐぅ!」
「おっさん、女に手ぇ出してんじゃねぇよ」
凜とした、涼やかな声だった。
場を制圧するほどに存在感のあるそれに、周りですら目を奪われる。
対して、酔っ払いは何故か床に転がっており、白雪に助けを求めるように縋り付こうと腕を伸ばしたが、長く細い足が勢いよく振り下ろされ、手を踏みつけた。
踏みにじられて、また汚い声が上がる。
「お、おれは、ただ心配して……こんなことしてただで済むと思っているのか! お前のような不良が一般の善良な人間を」
「よく吠える犬だな。さすが負け犬。いや犬に失礼か。お前のようなゴミが一般のぜんりょーな人間に手を出してんなよ」
わざと酔っ払いと似せた言葉に、屈辱で歪んだ目をかっと見開き、わなわなと震える。
「きさま、暴行罪で」
「じゃあお前は痴漢な」
「訴えて……え?」
「別に暴行罪でも何でもいいけどよ、お前も暴行罪、いや痴漢の罪も追加で、次の駅で降りてもらうぞ」
したよな。こいつに。
顎で示された白雪は状況について行けず、ぽかんとしていた。だが不良と呼ばれた男の目配せに、はっとして、こくこくと頷く。
抱きしめられた上にお尻辺りを撫でられた、間違いない。はたかれた恐怖で痴漢という単語が抜け落ちていたが。
「な、な、な、」
人間の顔色が忙しなく変化する様を初めて見た。真っ青で挙動不審に白雪に助けを求める。「してないよな!」しましたけれど。
不良が殴ったらしい赤くなった顎と踏まれた手の痛みで、酒が抜けたのかもしれない。ようやく知性が戻った男は「いや、おれには、家族が、妻が」と小さく呟く。
結婚していたのか、それで家に連れ込もうと誘ったのか。悪いのは頭か酒か。微妙なところである。
「嫁がいるくせに、他の女に手を出そうとしてんじゃねぇよ」
その通りである。
すっかり縮こまった男に不良は「もう一発食らわすか?」と白雪に聞いた。気が晴れるように配慮してくれたのか。お優しい。
もちろんお断りである。
助けてくれたが過剰暴力はよくない。救世主だが、怖いな、この人。
そんな会話をしている内に緩やかに速度が落ちていく。
意識が一瞬、アナウンスへ逸れた隙に、素早い動きで元酔っ払いが起きあがる。人混みに突っ込み、かさかさと消えていくのを白雪は黙って見送った。
「突き出さなくていいんだな?」
「はい。奥さんが可哀想ですし。あれだけ怯えていたら、もうしないでしょう」
「ふぅん。お人好しっつーか……まぁどうでもいいけど」
「あの、助けてくださり、ありがとうございました」
鞄を胸に抱きしめて頭を下げた。
不良は気まずげな雰囲気で「気にすんな」とだけ返す。そっと顔を見上げれば不良の鋭い瞳とかち合った。
改めて、その美貌に向き合い言葉が消える。
「――ええっと」
淡藤色に染められた肩ぐらいの髪を、後ろで一つに結んでいる。晒された耳は、耳朶どころか上方から下方、至るところに開けられた無数のピアス。
切れ長で淡い色の目に凶暴さが宿り、白雪を睨む。獰猛で凶悪な美形の迫力に圧倒された。
うむ。絶対に関わってはならないタイプ、堂々のナンバーワンだ。
「……んだよ」
薄い唇から獣の唸り声のような、警戒心と苛立ちを隠さない声が発せられた。ぎろり、鋭利な刃物のような瞳が白雪を容赦なく切り裂く。
「おい」
短い威嚇。白雪は弾かれたように、ぶんぶんと首を横に振って否定の意を示した。
「なん、でも」
もう二度と見るまい。
美しい獣から不必要なほど顔を逸らしたが仕方ない。虫にも負ける白雪では不良との接触は死を意味する。有り金全部持って行かれる。
彼とは、何度か学校ですれ違ったことがあった。
派手な風貌、少し悪い男の方がモテるというのは本当らしい。見目麗しい彼は常に囲まれている。つれない態度なのだが、そこが魅力なのだと騒がれていた。
ううむ、女子とは不思議な生き物だ。同じ性別ながら理解ができない。
「本当にありがとうございました」
再度のお礼で締めくくれば、彼の興味は失せたらしい。気だるげな様子でポケットに手を突っ込んだ。
音を立てて開いたドアに、人が雪崩れるように出て行く。
冷たい外気が入り込み、身震いをした。季節は冬。寒さは日に日に強まっている。巻いた桃色のマフラーに顔を埋めて。
不良も、今の出来事などなかったように、平然と出て行って。
――その際。
からん、と何かが煌めき落ちて自然と視線が吸い寄せられた。
ハートにカットされた透明感のあるピンクの石は、光を取り込みキラキラと輝く。ハートを囲むように、真珠を模した白いビーズがあしらわれていた。
女児向けのネックレスだ。百円ショップで売っていそうである。
安っぽいといえばそれまでだが。手入れされているのか、古そうなのに綺麗である。劣化したチェーンが切れている以外は、新品と同等なそれ。
導かれるように立ち上がって拾い上げた。じっくり観察していると。
アナウンスが再び流れる。白雪は慌ててドアが閉まる寸前で飛び降りた。
バクバクうるさい心臓の辺りを抑えつつ、キョロキョロと人混みを見渡す。すると頭一つ分飛び抜けた淡藤色。奇抜な髪など、あの不良ぐらいだろう。
「す、すみません! ちょっと前開けてください!」
白雪は、らしくもなく声を張り上げた。
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