第7話 来訪者

 とある小綺麗な十階建てのマンションの前に、一組の青年と少女がいた。

 辺りはもう暗くなり始めている。そこかしこで、街灯がぱらぱらと点き始めた。


「じゃあ、俺は帰るね」

「はい。今日はありがとうございました。それに、家まで送ってくださって」

「いいって。気にしないで」


 もし陽世を送らなかった、なんてことが桐子に知られれば、確実に一度は絞め落とされるだろう。それほどまでに、桐子は陽世のことを溺愛していたのだ。宗介は知らず自分の首筋に触れながら、ミッションを無事終えたことに胸を撫で下ろした。


「また明日、事務所に行きますから」

「了解。じゃあね」


 陽世はぺこりと礼をして、去っていく宗介を見送った。ようやく彼の姿が見えなくなると、振り返ってエントランスに入り、出入口のオートロックを解錠した。そのままエレベータに乗り、一番上の⑩と示されているボタンを押す。エレベータに揺られながら、目を閉じて今日あった出来事を反芻はんすうする。目的の階に着いたあと、一番奥の角部屋まで歩く。鍵を差し込んでドアノブをひねった。


「ただいま……」


 部屋は暗く、ようやく物の輪郭が分かるくらいだ。返事がないということは、姉はいないということになる。部屋の扉を開けるたび、いつも思う。姉がひょっこり帰ってきているのではないかと。無造作に脱ぎ捨てられた靴を見て、ああよかったと安堵するのだ。ただ、どういう訳か、その未来がやって来ないようにも感じている自分がいるのだ。ぱちりと明かりを点けた。


「ふぅ……」


 今日、宗介に迷惑はかけなかっただろうか。いや、これはもしかして探偵に依頼をしているとも取れるのだから、然るべき代償としてお金を払った方がいいのでは? いやいやしかし、宗介と自分がお金の関係などと、それは何だか違う気もする。それに、宗介の性格からして、お金を受け取ることはないだろう。今朝は勢い余って宗介の申し出に甘えてしまったが、何かお返しを用意した方がいいような気がしてきた。無論、宗介はそのようなことを気にする性格ではないが……逆に気を使わせてしまうだろうか。

 スクールコートを脱いだ陽世は、ともすれば何時間も思考を占有する彼のことを、頭を振って追い払い、ソファに腰を下ろした。テーブルにはA4の白紙が数枚広がり、四色ボールペンが転がっている。


 事件をまとめよう。


 十一月二十九日、午後十六時三十分頃。姉は一人で事務所を出て、そこから行方が分からなくなった。その際、自身が近いうちに死ぬようなことをほのめかしていたという。それは、もしかすれば犯人のことを知っていて、何らかの弱みを握られて、その犯人と会わなければならない状態だったのかも知れない。何にしろ、姉はこれから起こり得ることを知っているような風だったという。その日の夜十時頃、帰りが遅く、また、メッセージの返信が来ないことを心配したわたしは、姉に電話をかけた。


『おかけになった番号は、電波が届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』


 このときには、既に連絡手段が途絶えていたことになる。一抹の不安はあったが、姉はもう立派な大人だ。今日は金曜日だし、どこかの居酒屋で呑んでいるのかも知れないと思い、そのときには誰にも相談しなかった。翌日の夜になって、さすがに帰ってくるものと思っていたが、やはり姉は帰ってこない。一度、高山事務所に電話をかけた。そのとき宗介から、どうせいつものことだ、気にしなくていい、身の回りのことで何かあったら遠慮なく連絡して欲しいという旨を告げられる。

 翌々日、都内の裏路地で女性の変死体が発見される。ニュースで報道されている遺体の特徴と姉のものが似ていたため、まさかと思い、毛髪や顔写真を持って警察署に向かう。その結果、警察から同一人物ではないということが知らされる。万が一のことを考えて、その日、捜索願を出した。しかし、驚くべきことに、これは。捜索願不受理届が姉の手によって出されていたからである。それが、姉の真の意思なのか、誰かに強要された結果なのか、それは分からない。

 以降、特に進展はなく、今に至る。そのかん、都内を騒がせる連続殺人事件の数は日に日に増えていき、犠牲者の数は二十人を超えた。三日に一回程度のペースで犯行に及んでいる計算になる。姉は私立探偵として、この凶悪犯を追っていたのであろうか……。その可能性は高い。桐子は飄々としているが、自分ができることは率先してこなす性格なのだから。であるなら、犯人の足跡を追うことが、姉を見つけるための、一つの大きな手がかりになるのだろう。


 今日は宗介と一緒に、遺体が発見された現場を、時間の許すかぎり一つ一つ見ていった。その際、姉の写真を持っていき、現場近くの住人に、この写真の人物を知らないかと尋ね回った。結論として、姉を見かけた人物は一人もいなかった。


「ここに、遺体があったんですね……」


 線路下の、短いトンネルの中。赤いプラスチックのゴミが散乱するそこが、第七人目の犠牲者が発見された場所らしい。遺体の発見現場が防犯カメラの死角になっていることは常であった。


「どう思う?」

「どう、ですか? そう、ですね。…………その、きれいだと、思いました」

「きれい?」


 宗介は眉を上げた。


「ここに遺体があったなんて、言われてみないと分からないですよね。血が飛び散って、シミになっている訳でもないし……。まあ、死体から血がごっそり抜き取られているんですから、それも当然なんでしょうけど」


 犯人は、なぜ血を奪うのだろうか? 血を売って儲けるため? 単なる愉快犯? 遺体をこれ見よがしに遺棄しているなら、その線が高いと見るべきだろうか。あるいはその両方――?


 できるだけの情報を紙に書き出した陽世は、ボールペンをノックしてペン先をしまった。


「ふぅ……」


 今日は、少し歩き疲れてしまったみたいだ。普段は学校の席に座っているぐらいなものだから。夕食を作る前に、先に風呂に入ってしまおうか……。

 陽世はソファから立ち上がった。広い部屋だ。一人で住むには広すぎる。ふと見た暗い窓には、自分の姿が映っていた。


「……」


 彼女は、急に心細い気分になった。

 もし……もしもの話だ。もし、万が一――姉は犯人を知っていて、犯人も姉を知っていて。その犯人が姉の口封じをしたというのなら。いや、でも、普通に、常識的に考えれば、次に狙われるのは――


 ダンッ!! ダンダンッ!!


「ひっ!」


 ――――――――――――な……なに……?


 鳴った? 何が鳴った? 玄関扉だ。誰かが力任せに叩いたような音だった。隣人? 音がうるさかった? そんなことない。物音なんて一つも立ててはいなかった。じゃ、じゃあ……? いったい、誰が……?


「はぁ……っ、はぁ……っ」


 思考が回らない。心臓だけが激しく動いている。

 助け……そう、助けを呼ばないと……!


「っ……っ……」


 上手くスマートフォンが操作できない。指が震えている。電話……電話のアイコンの場所が分からない。どこ? どこなの? 早く……早くしなくちゃいけないのに。なんで、なんでこんなこと――


 ダンダンッ!! ガチャ! ガチャガチャガチャッ!!


「ぁ……ぁ……っ」

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