21 飛龍奮戦
敵の直掩戦闘機による迎撃を無傷で突破したからといって、江草は楽観などしていなかった。
眼下に見える米空母を中心とする輪形陣からは、すでに発砲の閃光が煌めいていた。高度三〇〇〇メートルを目指して上昇を続ける艦爆隊の周囲に敵の高角砲弾が炸裂して、大気を震わせる。
江草機から発せられた「トツレ」の信号により、十二機の九九艦爆は上昇しながら左右へと大きく隊形を広げていった。
江草はちらりと背後を見遣る。編隊を解いたこの状態は、敵戦闘機の襲撃に対して脆弱である。だが、幸いなことに自分たちを追撃してくるグラマンの姿はなかった。
彼は再び視線を前方下方に見える米艦隊に戻す。
高度計はそろそろ高度三〇〇〇を指そうとしていた。
機体を水平に戻しつつ、江草は自らが率いてきた艦爆隊の隊形を確認する。彼自身の九九艦爆を含む十二機の機体は、両翼を前方に広げる「鶴翼の陣」となるようにして眼下の輪形陣を包み込みつつあった。
心なしか、機体の風防を震わせる衝撃の間隔が緩慢になりつつあるのは、敵の対空砲火を分散させようという自分自身の願望からくる錯覚だろうか。
「ト連送、打て」
だが、自身の策が成功しようがしまいが、やるべきことは変わらない。江草は、眼下の米空母への攻撃を開始すべく、後部座席の石井に「全軍突撃セヨ」を意味するト連送の打電を命じた。
すでに艦爆隊は、敵艦隊の直上に達しつつある。
江草機もまた、午前の時と同じように風向きを見極めつつ、目標とした米空母上空へと機体を導いていく。
だが午前中の時と違うのは、各機が個別に目標へと急降下爆撃を敢行するために、後続の機体が存在しないことだ。
本来、隊長機(一番機)の役目は、的艦の速度、針路、風力、風向きなどを計算して目標に対して後続機を導くことである。だが、今回の攻撃では各機がそれぞれに自機と目標、そして風向きを計算して米空母に爆弾を命中させなければならない。
インド洋にて江草率いる二航戦艦爆隊は、命中率八割以上という驚異的な記録を残していたが、それは江草ら優秀な艦爆隊長たちの誘導があってこそだ。
今回は、搭乗員一人一人の真の技量が試される時である。
だが江草は、命中率に関しては何の懸念も抱いていなかった。ここまで自分が率いてきたのは、自らが育て上げ、そして真珠湾以来の戦闘経験を積んだ歴戦の猛者たちである。
たとえ自分の誘導がなくとも、部下たちは米空母に爆弾を命中させてくれるだろう。
そう、確信していた。
眼下の敵艦隊は、依然として激しい対空砲火を撃ち上げている。特に戦艦と思しき大型艦からの対空砲火がより熾烈であった。
不意に、空中の一角に火球が生じる。
「七番機、被弾!」
降下に入る前に、米艦隊の撃ち上げた対空砲火に捉えられてしまったらしい。江草は唇を固く引き結んで、自機と敵空母との位置関係の把握に努め続ける。今は、部下の死を悼んでいる時ではない。
自機の位置取り、敵空母の針路、そして風向き。
爆撃のために必要な情報を瞬時に頭の中で組み立て終えた江草は、静かに操縦桿を倒した。まずは浅い角度で目標上空へと侵入を開始する。
対空砲火が炸裂する轟音も、風防を襲う振動も、機体の横をかすめる火箭も、今は気にならない。
頭の中ではひたすら、自機と的艦の位置関係を計算し続ける。これが、この日最後の爆撃となるだろう。失敗は許されない。
眼下の米空母が、緩く転舵を開始しているように見えた。一度舵を切り始めてしまったら、簡単には反対方向に艦の針路を曲げることは出来ない。
その瞬間を、江草は見逃さなかった。
ダイヴブレーキを展開し、一気に操縦桿を倒す。緩降下していた九九艦爆が、一気に六〇度以上の急角度で降下を開始した。
目指すは、転舵を開始した米空母の未来位置。
急降下を開始したため、視界一杯に米艦隊の輪形陣が映る。その中で、江草は木の葉のように見える米空母の飛行甲板を見つめ続けた。
目の前で対空砲火炸裂の黒煙が生じようとも、彼はただひたすらにこの飛行甲板を凝視していた。
高度計の針が、あっという間に一〇〇〇メートルを切る。照準器の中に見える米空母の艦影が、急速に大きくなっていった。
投下把柄に手を掛け、その瞬間に備える。
高度七〇〇、六〇〇、五〇〇……。
江草は、必中を期するためにさらに高度を下げた。
「用意―――」
四〇〇。
「てっ!」
瞬間、江草は投下把柄を引いた。胴体下の二五〇キロ徹甲爆弾が切り離され、同時に操縦桿を思い切り引く。
急降下を続けていた機体が水平に戻ろうとし、もの凄い遠心力が江草を襲う。座席に背中が押し付けられ、一瞬、目の前が真っ暗になる。
江草が視界を取り戻した時、そこには海面が広がっていた。
その中で上空に向けて対空砲火を撃ち上げる、無数の米艦艇。高角砲は上空に向けてしまったからか、投弾を終えた九九艦爆に向かって機銃を放っている。
「米空母に命中を確認!」
後部座席で石井特務少尉の弾んだ声が聞こえる。どうやら、「艦爆の神様」の面目は保たれたらしい。
江草は海面付近にまで降りた機体を巧みに操って米艦艇の合間をすり抜けながら、輪形陣からの離脱を図った。
◇◇◇
輪形陣を包み込むように展開したジャップの
これでは、対空火器の目標が分散してしまう。唯一の救いは、敵機の数が少数であったことか。
それでも、直掩戦闘機隊が
視界外の敵と相対しなければならない空母戦とは、錯誤の連続だ。今日一日の戦闘を通して、スプルーアンスは強くそう実感していた。
こちらもレキシントンを始めとする第十七任務部隊を壊滅に追いやられたが、ジャップもまた自分たち第十六任務部隊の発見が遅れるという失態を犯している。
だからこそ、この海戦が終盤に差し掛かっていると思われる今現在まで、エンタープライズは合衆国の空母の中で唯一、健在であり続けることが出来た。
この攻撃を受ける前に最後の攻撃隊を放つことが出来たのも、幸運であったろう。
願わくは、この“ビックE”に訪れた幸運が、このまま夜になるまで続くことを、スプルーアンスは神に祈らずにはいられなかった。
エンタープライズの周囲では、ワシントン以下の護衛艦艇が上空に向けて盛んに対空火器を撃ち上げている。
敵機の高度の関係から五インチ両用砲での射撃が中心であったが、連中が降下を開始してくれば四〇ミリ機銃や二〇ミリ機銃による弾幕も加わる。これで何とか、ジャップ攻撃隊による空襲を凌がなければならなかった。
午前中、第十七任務部隊を壊滅に追い込み、先ほどはホーネットを撃沈したジャップ攻撃隊。
エンタープライズがこの海戦で空襲を受けるのは、これが初めてのことであった。そして、ナグモのタスクフォースの攻撃隊と相見えるのもまた、開戦以来、初めてのことであった。
この状況になれば、スプルーアンスを始めとする第十六任務部隊司令部の者たちに出来ることはない。エンタープライズ艦長であるジョージ・D・マレー大佐の操艦技術と、そしてすでにジャップのラスト・ワンに向けて発艦させていた攻撃隊の戦果、そしてここまで続いてきたエンタープライズの幸運を信じるしかないのだ。
「ヴァル、散開しつつ間もなく本艦上空に到達します!」
見張り員の叫びには、切迫したものがありつつもどこか困惑の色があった。
敵が隊長機を先頭に一本棒になって急降下を仕掛けてくれば、まだ対処のしようがあった。だが艦隊上空に現れたヴァルの部隊は、編隊を崩して全周からエンタープライズに襲いかかろうとする態勢をとっている。
各艦では砲術長の指揮の下、ほとんど個別に目標を選定して射撃を行っているような状況であった。
エンタープライズ上空に辿り着く前に、二機のヴァルが爆発四散し、さらに一機が火を噴きながら海面へと激突した。どの艦の戦果かは判らない。
耳を聾するほどの連続した轟音の中、エンタープライズを中心とした輪形陣は最大戦速で駆けていた。
「左舷一三〇度より敵機接近!」
最初にエンタープライズへの降下態勢に入ったらしいヴァルの報告が、艦橋に届けられる。
「
マレー艦長が、間髪を容れずに見張り員の報告に対応する。
左舷後方から接近する敵機に対しあえてその下に入るような形で舵を切ることで、敵に照準を定めにくくさせようというのである。本当に敵機の真下に入ってしまえば、ジャップの搭乗員は自らの機体の翼などが邪魔してこちらを視認しにくくなる。
マレー大佐のそうした思惑は、敵急降下爆撃機が一本棒になって突っ込んでくれば有効であったかもしれない。だが、このヴァル隊は、左舷後方以外からもエンタープライズに襲いかかろうとしていた。
「右舷一七〇度からも敵機!」
「さらに右舷六〇度からも敵機急降下!」
「そのまま舵を切り続けろ!」
多方向からの、同時攻撃。これでは、どちらに舵を切っても敵の急降下爆撃からは逃れられない。
四〇ミリ機銃や二〇ミリ機銃も、急降下してくる敵機に向けて射撃を開始する。だが、それぞれの機銃群指揮官が個別に目標を選定しているのか、統制された射撃にはなっていない。
その射撃音は豪快で頼もしげだが、別々の目標に向けて放たれているためにどこか虚しい。
取り舵に切られたエンタープライズの艦首が、ゆっくりと左に振られ始める。
「……」
「……」
「……」
艦橋の者たちが、固唾を呑んで遠心力で右舷に傾斜するエンタープライズの艦首を見つめていた。
最初の衝撃は、間もなくやってきた。
艦尾方向から、突き上げるような衝撃が走った。同時に、白い水柱が高々と立ち上る。
そして、衝撃がそれだけで済むとは、誰も考えていなかった。
程なくして、二度目の衝撃がエンタープライズの船体を襲う。今度は、水柱などではない。飛行甲板から火柱が立ち上った。
「ダメージ・リポート!」
マレー艦長が叫ぶ。だがその叫びの後半は、三度目の衝撃によってほとんどかき消されてしまった。
その後も、衝撃は続く。
至近弾に命中弾。そのたびに、彼女の船体は悲鳴を上げるような軋みを生じさせていた。
合計八度の衝撃がエンタープライズを揺さぶった後、洋上には黒煙を吐きながら徐々に速力を落としていく彼女の姿があった。
江草隆繁少佐率いる十二機の九九艦爆は、投弾前に四機が対空砲火によって撃墜されながらも、八機がエンタープライズへの爆撃に成功していた。
このうち、命中弾は五発。残りの三発は至近弾となり、投弾後にさらに一機が撃墜された。
五発の命中弾は、エンタープライズから空母としての機能を完全に奪い去った。
最初の命中弾は飛行甲板を貫通して格納庫内で信管を作動させ、傷だらけのまま修理が後回しにされていたTBFアヴェンジャー三機を炎上させた。
二発目の命中弾は、艦橋の後方に命中し、そこにあった複数の機銃座を完全に破壊した。配置についていた機銃員たちは、爆発によって四肢を吹き飛ばされ、断片で全身を切り刻まれた。衛生兵が駆け付けた時、そこには誰ものなのか判らなくなった無数の遺体が折り重なっていたという。
三発目は格納庫に飛び込んだものの、遅動信管のために格納庫内を跳ね回り、最終的に煙路を突き破ってそこで炸裂した。この衝撃と爆風によってエンタープライズの第一、第二、第三ボイラー用の煙路が破壊され、さらに煙路を逆流した爆風によって第一から第六ボイラーの火を消してしまった。
四発目の命中弾は前部エレベーター付近に命中し、爆風によってエレベーターそのものを大きく吹き飛ばしてしまった。さらに前部航空燃料タンク付近に火災を生じさせ、ダメージ・コントロール班はその消火に必死になった。
最後の二五〇キロ爆弾は、エンタープライズの飛行甲板を貫通した後、格納庫も突き破って艦底近くでその信管を作動させた。
これが、エンタープライズにとって致命的な結果となった。先ほどの命中弾は煙路を破壊して、ボイラーの火を消してしまっただけであるが、この命中弾は二基のボイラーと一基のタービンを完全に破壊してしまったのである。
ヨークタウン級は四軸推進艦であり、タービンが一基破壊されたことによって三軸運転しか出来なくなってしまった。その上、ボイラーが破壊されたことによって、たとえ火の消えたボイラーが復旧出来たとしても、最大速力の発揮が不可能となってしまったのである。
機関損傷により、エンタープライズは洋上に停止することを余儀なくされた。九基の内、六基のボイラーが停止ないし破壊されてしまったので、艦内の電力も不足し始めた。
マレー艦長は、ダメージ・コントロールに必要な消火装置や機関部の排煙装置などに優先的に電力を回すよう指示。
エンタープライズが無事に真珠湾に帰還出来るかは、この時点では誰にも判らなかった。
それでも、スプルーアンスたち第十六任務部隊の者たちには一縷の希望があった。
「本艦の攻撃隊およびホーネットの攻撃隊が、まもなくジャップのラスト・ワンを捕捉するはずです」
様々な装置の電源が切れた艦橋で、ブローニング参謀長は強気な発言を行っていた。
エンタープライズが戦闘不能となったことが明らかな今、彼のみでなく合衆国海軍の誰もが、その二つの攻撃隊に希望を託しているはずであった。
「ああ、そうだな」
スプルーアンスもまた、エンタープライズの被害に打ちのめされつつある周囲の者たちに聞こえるように、極力楽観的な声で参謀長に同意した。
だがこの時、彼らは飛龍が放った最後の攻撃隊が接近しつつあることを知らなかった。
時刻は現地時間七月四日一七〇〇時(日本時間:五日一四〇〇時)を回りつつあった。
七月初旬のミッドウェー近海の日没時間は、一九五〇時(日本時間:一六五〇時)前後。日が沈むまで、あと三時間近くあった。
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