第14話 私は逃げない

 昔から私は体が弱かった。お父さんは立派な警察官で、お母さんはいつかお父さんみたいに力がつくって励ましてくれてたけど、いつまで経っても私は駄目だった。


 そうやって生きていくうちに自然と明るさってものは消えていって、みんな私を煙たがるようになった。私だってなりたくて弱虫をやってるんじゃない。だけど弱虫だから強い人には逆らえない。そうやって従順に生きていくしかないんだってどこかで諦めをつけていたのに。


 なのに、その人は何食わぬ顔でその強い人を倒して、私に手を差し伸べてくれた。その人にとってはゴミを気まぐれで拾ったってくらいのことでも、その気まぐれが私になりたい自分というものを見せてくれた。私は彼みたいになりたいってずっと彼の背中を追っていた。それでも、いつまで経っても、その人の背中は遠くなるばかりで。


 そんな私はついに悪魔と契約をしてしまった。神なのかもしれないけど間違いなくあの女は悪魔だった。私を力に溺れさせて、理性を奪って、なのに現実を見せてくる。こんなのじゃ彼の横に立てないって分かっていてもブレーキを奪われたんじゃ走り続けるしかない、殺し続けるしかない。血に塗れて汚れていく自分の体と心を見続けるのは発狂するほど辛いものだった。


 そして血を被るたびに、その血の持ち主が絶命する苦痛と彼らの今までの人生の記憶が入ってくる。私は彼らの苦しむ魂を見せつけられて、腐った現実を見て、昔のような純粋な魂じゃなくなってしまった。


 ねえ、先輩……こんな自分でも、まだ先輩の隣に立てるようにその背中を追いかけ続けてもいいんすか? もう人じゃなくなって、いっぱい殺して、汚れきった私でも先輩を愛していいんすか?


 ──いいんだよ。お前はこれからもお前らしく生きればいい。人をやめてから、本当の意味で自分の魂の在り方を見つけることができるんだからさ。


 ……先輩の笑顔が好きだ。先輩の声が好きだ。先輩の全てが大好きだ。だから私はいつまでも先輩についていきます。気高く、そして寂しげに、ぽっかりと開いたその隣へと立てるように。




「……ん……っ」


「おはよう、マキタ」

 

 夢から覚め、ほわほわとした感覚がまだ残っている。心地良い眠りだった。とても温かくてどこまでも微睡んでいけそうな。


 ……あ……先輩の腕、先輩の膝、そうか。私は先輩に抱かえられながら眠っていたんだ。だからこんなにもあったかい。


「……ふふっ」


「? どうした? 偉く嬉しそうじゃねえか」


「……何でもないっすよ。……また……先輩に助けられちゃったんすね、私……」


 ……不甲斐ない。ずっと助けられてばっかりだ、私。


「マキタ……今は休んでろ。詳しいことは後で話してくれればいいから。ほら、おぶってやる。しっかり捕まってろ」


  先輩が背中を向けてしゃがむ。私はぎゅっと先輩の背中にしがみついてその広さを感じ取った。やっぱり、大きいなぁ……先輩の背中。


「こんな地下にいちゃ息も詰まるってもんだ。もう帰ろう」


 先輩は私をおぶったまま空中を軽やかにジャンプして地上へと登っていく。変なのになってからずっと自分をコントロールできなくて、こんなに自分の体を使いこなしている先輩はやっぱりすごい。


「先輩……私、何になっちゃったんすか?」


「……俺たちは人じゃなくなったんだ。エンプティっていう、魂で生きる新人類……まあ幽霊みたいなもんだ。こうやって空を飛んだり、訳の分からない鎧みたいなのが出せたり、もう俺たちは普通じゃなくなったんだよ」


 先輩の横顔は少し怒りのようなものが混じったような表情をしていた。そうか。先輩は気に入らないんだ。こうなってしまったことが。


「……あの女の人、イナンナって人は自分達を『アヌンナキ』と呼んでいました。アヌンナキって確かシュメールの神様の総称だったはず。先輩、あの怪死事件はあの人たちが犯人なんすか?」


「……! イナンナ……エルゼが言ってたパンテオンの一人か。ああ、そのアヌンナキっていう宇宙人が人を殺して回ってる。俺はそいつらを倒すために数ヶ月前から戦い続けてたんだ。……お前には隠していたがな」


「……気づいてたっすよ。先輩が前までの先輩じゃないってことくらい。もっと遠いところに先輩が行ってしまったみたいで、私、寂しかったんすから……」

 

 顔を先輩の背中に埋める。ほんのりと香る先輩の優しい匂い。一体どんな顔をしてるんだろう。少しでもいいから、この想いに気づいてほしいなぁ……。


「……すまなかった。心配かけさせて。それに……俺は、お前を守れなかった」


 ……やっぱり先輩は謝るよね。何も謝ることなんてないのに。私が自分から首を突っ込んで、その結果、殺されたっていうだけなのに。


「そういえば私の体、傷ひとつないんですけど、先輩が治してくれたんすか?」


 何度も殴られたはずなのに私の体には痣一つない。人の体じゃないのだろうから、もしかして傷つかないのかもしれないけど。


「分かんねえ。でも俺にはどうやら自己再生能力が備わってるらしい。もしかしたら俺がお前に触れたことで、その力が俺の知らぬ間にお前の体も回復させたのかもな」


 きっと先輩が私を治してくれたんだ。私たちが魂の存在で、その魂の性質が現れているというのなら、先輩の優しい面が溢れ出しているに違いない。その優しさに私は何度も救われてきたから。



◆◆◆



 地上に着いた。部屋の中には血生臭い惨状が広がっていた。思わず目を逸らしそうになったけど、私はしっかりと部屋の中を見渡した。だってこんな酷いことをしたのは私。私が逃げることなんて許されるはずがない。


「……マキタ。辛かったら目を閉じても──」

「いえ、閉じません。だって全部私がやったことっすから。それにもう、大丈夫です。1人で……歩けます」


 私は床に足をつける。ビチャっ、という血の音が生々しくてとても不快だった。その不快感も全て自分の責任で、背負った罪の重さを私は思い知らされた。


「先輩……夢の中の先輩は私を肯定してくれました。だけど……私は、こんな惨状を生み出した私を到底許すことはできません。……罪を償います。これからも私は戦って、本来あるべきであった日常を奪ったアヌンナキを倒します。だから……その時だけは……私をそばに置いてくれますか?」


 それは卑怯な問いだったのかもしれない。だって先輩は優しいけど、同時に厳しい人でもある。それは自分にも、他の人にも。だから自分をコントロール出来ずに殺し回った私が、罪悪感を持つことを理解しているのだろうし、同時に私を救えなかった罪悪感を先輩は持っている。逃げ道のない問いかけは、頷くか道を外すしか回答はないんだ。


「……ああ」


 俯き、血の海に映る自分自身を眺めながら先輩は低い声を出した。私も同じように血の海に映った自分を眺める。不思議にも、この暗い気持ちとは裏腹に、私の顔は嬉しそうにしている気がした。



 目を逸らすことなく私は屍の道を通って教会の聖堂へと戻った。教会という神聖な場所が見るに耐えない惨劇の現場になったということが眩暈のするような落差を感じさせる。


「……さ、帰ろう。こんな場所にいたら救世主メシアから天罰を下されそうだ」


「……はい。私たちはこれからも戦い続けるんです。血で血を洗い流すような人間がいていい場所じゃないっすよ」


「だな……あ、そういや前のカフェ代、足りて──」


 ……あ──れ? 何で先輩、離れていくの──?


 凄まじい爆発音と共に、胸に穴が空いたような感覚。とても大きい。まるでその穴が浮力を生み出して、持ち上げれ、空に向かうよう。それを止めるようにまた先輩が私を抱きしめてくれる。


「マキタ! 何でこんなものが……!? おい、しっかりしろ! マキタ……! マキタアアァ!!」


  何でそんなに叫んでるの。わからない。だって私は助けてもらったばかりで、戦おうって決意したところじゃない。何でこんな早くに、──。

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