第38話 友達①
「ではお二人とも、お元気で」
「ありがとうございました!」
手を振る御者に礼を述べ、芙蓉とルシュは魔獣車乗り場を後にする。
到着したエフランは、どことなく洗練された雰囲気を持つ都市だった。今までの街とは比較にならないほど建物が密集しているのに、乱雑な佇まいはない。どれもニンジン色の屋根と白亜の外壁で統一されているためだろう。
隙間なく並び立つそれらの間を、北と南東から流れ込む二本の川が合流して中央で分断している。川の西側には旧市街、東側には新興の住宅地。二つの歴史が混在しているエフランは、観光客にも人気の場所だった。
「そこのお姉さん! ブリオッシュ、弟さんとどう? 美味しいよ~!」
「あーちょっとちょっと! こっちのパイ包みも見てって! 中のパテ、自信作だから!」
「えっ、何だろう、おいしそう……」
時刻は昼前。忘れていた空腹が、大通りに連なる露店の匂いで呼び覚まされた。勧められるまま、芙蓉は隣り合う二軒の店先にふらふらと近づく。
「これね、パンだけどすっごく食べ応えあるの。この赤いのはプラリネって言って、キャラメリゼしたナッツに色をつけてるんだ。甘いのが好きなら是非食べてってほしいな」
「そっちはデザートにして、うちのパイ包みをメインにどうだい? 中は豚肉と仔牛のパテで、ピスタチオとチーズも入ってるよ!」
「わーい、両方ください!」
「まいどありィ!」と二色の声が揃う。温かい木の皮の包みを受け取った芙蓉は、香り立つ湯気に頬を緩めた。
「ルシュくん、苦手なものなかったら半分こしませんか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「いいえ~」
芙蓉はニコニコして昼食を割った。「出来立ての美味しいものはかわいい妹にも分け与えるべき」と当然のように掌を出す本来の妹とは大違いだ。そもそもルシュだって弟ではないのだけれど。
(懐かしいな……元気にしてるかな)
詰め込まれたパテはねっとりと濃厚な味わいで、サクサクしたパイの食感と相反して楽しい。冷めないうちにとかぶりついたブリオッシュもしっとりしていて柔らかかった。シンプルだが飽きの来ない上品な甘味が癖になりそうだ。
(『フヨウ』さんのこと、助けてあげてほしいな)
この世界で目覚めたあの日、芙蓉は不安で不安で堪らなかった。常に薄氷を踏んでいるような心許なさが付き纏い、それを払拭してくれたのがジニアとエリカ、そしてベンだった。今こうして何かを美味しいと感じられる気持ちの余白があるのは、彼女達のおかげなのだ。
きっと自分の身体にいる『フヨウ』も戸惑っていることだろう。どうか彼女を疑わず、そのままに受け入れてほしいと願う。
「フヨウさん?」
「っあ、いや、お腹いっぱいになったらぼーっとしちゃって! へへ、すみません」
「いえ、疲れもあると思いますよ。早めに宿を取りましょう」
「そうですね、ついでに買い物も済ませちゃいます」
何があるかわからない旅では、ポーションの材料や種の補充が不可欠だ。今一度気合を入れ直し、芙蓉はルシュと共に都市の中心部へと繰り出した。
◆ ◆ ◆
「ポーション、ポーション……」
人差し指で薬品棚を順に辿り、ラベルの細かな文字に目を凝らす。
大抵の場合、ポーションを冒険者ギルドに卸すのは同一の街中にある薬屋だ。薬師によって調合されたものがギルドと薬屋両方で売られる。だからこの店にもあるはずなのだが、如何せん見当たらない。
「……あ!」
「え?」
ようやく最後の一本を探し当てた瞬間、高い声音がすぐ傍で聞こえた。振り向けば、一人の少年が口をぽかんと開けている。
くるくるとした癖毛が印象的な男の子だった。芙蓉の視線に気づくと、はっとして丸みを帯びた顔つきを強張らせる。
「あ、
「い、いえっ、お先にどうぞ! ぼくは後から来たので……!」
「いえいえ、私も必ずしも必要ってわけじゃないんです。あったらいいな~くらいだったので、お気になさらず」
首を振る彼に芙蓉は笑いかけた。基剤を用意する手間を省ければと考えただけなので、欲しい人の手に行き渡る方がいい。なければ一から作るだけだ。
何度も頭を下げる少年に微笑ましさを感じながら、そっとその場を譲った途端──脇から伸びてきた太い腕が、むんずと小瓶を掴んだ。
「あっぶねー、最後の一本!」
「それで足りるか?」
「何とかなるっしょ。早く行こうぜ、門が閉まっちまう」
慌ただしく会計を終え、男達は薬屋を出て行った。嵐のような騒々しさが過ぎ去ったそこに、何ともいえない沈黙が落ちる。
「だ、大丈夫ですか……?」
「あ、あはは、はい、いえ……」
ずんと落ち込んだ空気が目に見えるようだった。少年を気の毒に思った芙蓉は店員に在庫の有無を尋ねたが、「そこになければないですねー」と無慈悲な笑顔を贈られる。
そこへ、隣の鍛冶屋に手入れ道具を見に行っていたルシュが帰ってきた。
「フヨウさん、戻りました」
「あ、おかえりなさい! ルシュくんすみません、ギルドと薬屋以外でポーション売ってるところってありましたっけ?」
「ポーションは……そこだけですね。売り切れちゃってましたか?」
「はい……私は大丈夫なんですが、この方がないと困るそうで……」
キトンブルーがぱちぱちと芙蓉の横を窺う。少年は居たたまれないといった様子で肩を窄め、曖昧な笑みを浮かべた。
「大丈夫です、西側の薬屋に行ってみます……」
「あ、ウチ以外ももう売り切れですってよー。近くで魔物がウジャウジャ湧いてるそうでー」
店員から間延びした忠告が入り、少年は今度こそうなだれてしまった。
「俺も聞きました。もう少ししたらしばらく門が閉められるそうです」
「そういえばさっきの人達もそう言ってたような」
「……どうしよう……」
少年は悲惨な顔色で呟いた。彼は犬や猫をペットとして育てるブリーダー業を生業とする近くの集落出身で、今日も仕事のためにエフランに来たという。いつも通り日帰りの予定だったので、宿泊代は所持していないらしい。
事情を聞いた芙蓉とルシュは顔を見合わせ、「よしっ」と頷く。
「今から出れば門が閉まる前に帰れると思うので、お家までお送りしましょうか? その代わり、もし泊まれるところがあればご紹介いただけるとありがたいんですが」
「え……」
「あと、一応こちらでポーションも作れます。よければお渡しできますけど、どうでしょう?」
まさに渡りに船である。藁にも縋る勢いで、少年は店中に裏返った大声を響かせた。
「あっ、ありがとうございます! 是非ぼくの家に泊まってください!」
◆ ◆ ◆
ゴブリンやブラック・ドッグ、初めて見かける大きなミミズやゲル状の軟体生物。時間の経過と共に、付近に生息する魔物が続々と集まってきていた。
一行は、早々に閉じられかけた分厚い石門の隙間を縫うように外へ出た。城壁に沿って仁王立ちするギルド員や衛兵達の背後をそそくさと通り抜け、街道を進む。
幸い、少年──トリムの暮らすアイルズという集落は徒歩圏内だという。
「
目の前で事切れた黒犬にトリムが委縮する。普段、随時人が往来する街道に魔物が近づくことはあまりない。極限の空腹等の切羽詰まった状況でもなければ、退治される危険性があるところへは寄りつかないものだ。
しかし、と芙蓉は眉をひそめた。進行方向から新たに駆けてくる複数のゴブリン。嬉々として錆びた刃物を掲げ、一心不乱に街道のど真ん中を走っている。まるで何かに取り憑かれたような有様だ。
芙蓉は息を止め、ぐっと全身に力を入れた。
「……!」
ボロの布靴が蹴った地面に亀裂が入る。次の瞬間、地を割った岩槍がゴブリンを串刺しにした。討ち漏らした一体が驚いたように背後を振り返り、その後頭部に銀の短剣が突き刺さる。
「お二人とも、すっごく強いですね! 一緒に来てくれてよかったあ……ぼく一人じゃ絶対に帰れなかったです」
「こちらこそ一緒に行けてよかったよ~! 本当、ひっきりなしに来るもんね。思ってたよりずっと多いし……なんでだろう」
「…………」
ルシュは難しい顔で剣を払った。どの魔物も特段強いわけではない、至って普通の個体。むしろエフランの方角に向かうことのみが目的のように隙だらけだった。堂々と街道を行き、自分達は眼中になかったようにさえ感じられるほど。
不意に後方の茂みが揺れ、一匹のスライムがぬたりと這い出した。咄嗟に構えたルシュに見向きもせず、移動しながらプツプツ体躯を切り離し、身軽になって足早にエフランを目指していく。
まただ。フードの下できゅっと眇められた眼差しに芙蓉が首を傾げた。
「ルシュくん?」
「いえ……何かおかしい気がして。特にエフランに何かがあるわけじゃないのに、魔物がこぞって行く理由がわからないんです」
「あ……言われてみれば確かに。うーん、魔物が集まる理由……」
腕を組んだ芙蓉が唸り、しばしの熟考の後にポンと手を叩いた。
「近くにすっごく濃い魔力溜まりができたとか! いやエフランにはなかったと思いますけど、でもこれだけ色んな種族が同じような行動してると、共通点はそれくらいしか見当つかなくて」
「魔力溜まり……」
なるほど、合点がいった。魔力は魔物達の生命線、偶発的に発生したそれを取り込もうと一直線だったのかもしれない。彼らの理は弱肉強食なので、急いでいた辻褄も合う。
ならこの騒動もすぐに収まるな、とルシュは武器から指を離した。手に負えなくなる前に空の魔石に回収されるはずだ。
見上げれば、エフランの城壁が夕陽に照らされている。それはさながら血のように、胸をざわつかせるほど紅い色をしていた。
◆ ◆ ◆
トリムの生まれ故郷であるアイルズに辿り着いたのは、それから半刻程度歩いた頃だった。
案内された、なだらかな丘の麓に広がる小さな共同体。簡素な家々の間に畑が敷かれ、その脇を多くの犬や猫が走り回っていた。彼らのための小屋や訓練所らしき施設も所々に設置されている。
物珍しさにきょろきょろしていると、集落の奥から突然ウルフグレーの塊が飛び出してきた。
「ワンッ!」
甲高い鳴き声と共にやって来たのは、ポメラニアンを大きくしたような中型犬だった。黒や焦げ茶の混じった被毛が綺麗なグラデーションになっていて、全身のみならず首回りをたてがみのように飾るくらい多い。ふさふさした毛量に埋もれた顔はあどけなくて可愛らしかった。
「エンリル! ただいまー!」
「ワウ、キャンッ!」
呼ばれた犬がトリムの腕の中に飛び込んだ。丸い瞳をウルウルさせて、すりすりと少年の肩に額を寄せる。耳をぺったりと伏せて安心しきった表情だった。
他人にもわかるほど懐いた仕草だ。芙蓉の口角がゆるりと綻ぶ。
「すごく嬉しそう! トリムくんが大好きなんだねえ」
「えへへ、ぼくの、あの……かぞくでともだち、なんです」
気恥ずかしそうに告げたトリムの真っ赤な頬をエンリルが鼻先で突く。お返しにと存分に撫でられ、犬はますます嬉しそうに飛び跳ねた。
「エンリル、フヨウさんとルシュくんに挨拶できる? 今日家に泊まってもらうから失礼のないようにね」
「ワン!」
エンリルが相槌のように一声鳴いて、二人の周りを八の字に回った。尻尾を振りながらスンスン匂いを嗅ぎ、トリムの元でも同様に円を描くと、小走りに駆け出していった。
「あの一連の動作、よくやるんです。たぶん、ぼく達からお互いの匂いがするのを感じ取ってるのかなって」
「なるほど、トリムくんの敵じゃないか確かめてるのかな? 賢いね、すごいなあ」
再び少年の耳がわかりやすく染まった。
芙蓉はふとベンを思い出した。彼もまた非常に賢く、感情の機微に聡い犬だった。触り心地の良い毛並みと温かい体温に癒された日々が昨日の記憶のように蘇る。
(会いたいなあ……時々、無性に逃げ出したくなる)
答えはいつも教科書やマニュアルに書いてあったから、手探りで正解を探すのがこんなにも苦しいことだと知らなかった。これから先どうなるのか、それまでこの身体を損なうことなく生きていられるのか。そんな心配がなくなったらどんなに楽になれるだろう。課せられた大役の重圧に息が詰まりそうで、でも『フヨウ』だから放棄なんてできなくて。全てを打ち明けてぶち壊してしまいたくなる衝動に駆られても、同時に余波の行方を考えては、またぎゅうぎゅうに押さえつけて仕舞い込むのだ。
ふかふかの毛布にくるまって、心のままに泣いて、夢を見る暇もなく眠ったらけろっと起きて。あんなに悩んで馬鹿みたいだと笑い飛ばしたかった。けれどそれを実現するには魔術師として大成し、想像を絶する茨の道を突き進まねばならない。当たり前だった元の世界での生活には、使命を果たさなければ戻れないのだから。
(あああだめだめだめ、今日すごく感傷的になってるや……動物セラピー恐るべし!)
自戒の意を込め、ぐいっと片頬を引っ張った。痛みで滲んだ涙に少しだけ留飲を下げれば、切り替えて何とか立ち直れる。もう幾度となく繰り返してきたことだ。泣いてもどうにもならないことは自分が一番よくわかっていた。
「ぼくの家ここですー!」
「はーい!」
明るい返事をした芙蓉がトリムを追いかけていく。その後ろ姿に伸ばされかけていた手が静かに下ろされた。
崩れ落ちそうになる度、固く身を縮めて懸命にやり過ごす華奢な背中。瞼の裏に焼きつくほど目にしていながら、ただの護衛には眺めることしかできない光景だった。
「……っ」
いつまで気づかない振りをしていくのだろう。いくら眼前の敵を倒したとて、彼女が真の意味で救われることはない。事情は話さなくていい、と格好つけた自分を殴りたかった。
あのロルダークという得体の知れない男も厄介だ。愉快犯的側面が牙を剥き、いつかどこかで衝突しそうな燻る懸念があった。
それでももう、ルシュには抗えない終わりが来る。レイドラに着けば、遥か海の上の魔術学院まで彼女を送り届ける次の護衛に引き継ぐのだ。その人物が、比較にならないほど長い道中で彼女の心の内を解きほぐすかもしれない。そうなれば全幅の信頼を託された者として、名実ともに半身を名乗ることができ──。
「…………俺は、捜さないと」
思考を無理矢理打ち切って、言い聞かせるように短剣に触れた。
その時が来たら、彼女が目的を果たせるよう身を引かなければならない。思い出せ、忘れるな。契約ありきの関係で、互いに目指す先は違う。「ずっと一緒に」なんてありえない夢なのだと。
──同じ望みを抱えながらも、どうしたって交わらない旅路。彼らの苦悩を知るべくもなく、また一つ夜は更けていく。
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