第37話 アイの証②

「あちゃあ、またご機嫌ナナメか……どうしたんだよお前達ぃ……」


 ぐるぐる歩き回り、しきりに首を振って何かを振り払う。落ち着かないグラシュティンの挙動に御者は頭を抱えた。

 半日ぶり二度目の『駄々こね』が始まってしまった。ちなみにこの習性の名付け親は彼の先輩である。ベテランのグラシュティンには見られない行動であるため、手紙には「若いからしょうがないね。治まってる間にできるだけ移動したら?」とあった。


「出発、難しそうですか」

「はい……すみません……」


 ひょっこり顔を出したルシュに御者が涙目を向けた。年若い彼の顔面は青褪めており、経験の浅さ故の不安がありありと書かれている。


「生き物は仕方ないと思いますよ。フヨウさんにも知らせてきます」

「あああ足止めさせてごめんなさい~! なんとか機嫌直しますので~!」


 響き渡った涙声は離れたところにいた芙蓉にも届いた。村の外れは閑散としていて遮蔽物がほとんどないのだ。ヨヨヨとグラシュティンに縋りつく御者に、彼女は両腕で丸を返した。


「グラシュティンも大分走ってますもんね。大丈夫かな……」

「草食とはいえ魔物なので、完全に大人しい時ばかりじゃないのが現状ですね。とりあえず、時間はあるので食べましょうか」


 頷いて、芙蓉は包みを開けた。待ちに待った昼食だ。わくわくしながら覗き込めば、薄い黄色の生地に様々な具材が乗せられているガレットが現れた。

 とろとろの半熟卵にベーコンとチーズ、瑞々しいエビとアボカド、ローストされた肉がこれでもかと詰められたものや、たくさんの野菜とサーモンによる彩り豊かなサラダ仕立てのものもある。デザートは甘酸っぱいイチゴとベリー、そしてキャラメリゼされたバナナにチョコレートソースがかけられた二種類のガレット。一見クレープにも見えるそれらに、現代を思い出した芙蓉は人知れず頬を緩めた。

 小型のナイフをそれぞれ取り出した芙蓉とルシュは、全部のガレットを等分し、妖精の前にずらりと並べる。


「まあ……! 素敵ね……朝露みたいにキラキラしてるわ……」

「おいしそうだよね~。じゃ、いただきまーす!」


 二人の挨拶を上目に眺め、妖精も見様見真似で手を合わせた。

 ナイフで黄身を広げ、いっぺんに頬張る。塩気のある具に卵が絡まってまろやかになり、歯触りの良いもちもちした生地と絶妙にマッチしていて、芙蓉の目尻が自然と下がった。肉厚のベーコンの脂がぷりぷりしていたが、上手く中和されてしつこくない。粉雪みたいなチーズは、その肉の旨味が卵に負けないよう邪魔せず支えている。

 次はエビだ。つやつやなピンク色の剥き身の間に、濃淡の鮮やかなアボカドが挟まっている。一口噛めば、新鮮な弾力とねっとりした舌触りが一斉にやって来るのだ。塩とオリーブオイルのみの味付けも各々の素材の味を引き立てている。

 一度に様々なものを食べられるのは得した気分だ。ニコニコと三つ目を取り上げた芙蓉の横では、妖精が真っ赤な顔でガレットに苦戦していた。


「これ、すっごい、むちっと、してるわね……っ! むううううっ!」

「わ、ごめん、大きかったね」


 しっかり焼かれたそば粉は過ぎた反発力だったらしい。芙蓉は残りのガレットを口に放り込み、彼女が懸命に引っ張る生地を切ってやった。

 ようやく咀嚼できた妖精は、白粉みたいに粉チーズを纏って「こんな味だったのね」と瞳をくりくりさせた。


「いつも見てたけど、魔力と違って味がたくさんで面白いわ! 『おいしい』にも種類があるのね!」


 普段彼女が口にしているのは大気中の魔力や森の木の実、朝露等だ。どれも味は一種類で、料理という概念もない。ニシェルを通して人間の生活に慣れているフェリアドールとは違い、妖精には何もかもが未知の体験だった。


「いつも見てたってことは、ここには長くいるの?」

「生まれてからずっといるわ! でも食べたのは今日が初めて! いつか同じものを感じてみたいと思ってたから、それが叶って嬉しいわ!」


 妖精はごくんと喉を鳴らし、宙に舞い踊った。魔術で編み出した水を被ってチーズや生地の欠片を洗い流すと、翅を忙しなく動かして全身を乾かしていく。

 スプーンにハーブウォーターを注ぎながら芙蓉は問うた。


「それは……『あの人』と?」

「……ええ。私にとって彼は特別なの。魔力を全部魔石にして、引っこ抜いて捧げたっていいくらい」


 随分と過激な発言だ。魔力から生まれた存在がそれを失えば消えるしかない。芙蓉はいささか面食らったが、妖精は何でもないように微笑むだけ。


「私、生まれたばっかりの頃は本当に弱かったの。蝶の子供みたいに這いつくばることしかできなくて、でも魔力だけはあったからしょっちゅう魔物に狙われたわ」


 逃げ込んだのはとある男の家だった。人間は魔物同様に大きく、踏み潰されでもしたらどうしようもない。妖精は息を潜めて壁の裏や床下に間借りした。

 男はたった独りで暮らしていた。日がな一日前後する椅子に腰掛け、来る日も来る日もぼうっと壁を見つめていた。一体何をしているのかしら。日を追うごとに警戒心の薄れていた妖精は、ある日ぽろりとそう零してしまった。


「そうしたら彼、とっても驚いてしまって……危うく床に腰を打つところだったわ。うふふ、もうお爺さんなんだから気をつけなくちゃいけないのに、私も当時は人間のことが全然わからなくって。けど、彼とお喋りできるようになったのはそれからなの」


 かくして男と妖精の不思議な逢瀬は始まった。合図は家の窓にノックを三回。互いに背を向けたまま、とりとめのない話を数えきれないくらいした。

 その過程で知ったのは、壁に飾られた一枚の絵と、そこに描かれた夕焼け色の髪の女のこと。


「その人間は彼のコイビトだったの。私は違いがよくわからないけれど、彼はコイビトから番になってほしくて、でも勇気が出なくて、彼女はそのうち魔物に襲われて死んでしまったんですって。そのことを彼はずっと後悔していて、最期まで独りでいることを誓ったと言ったわ」


 あの夜、珍しく酔った男が泣きながら懺悔していた。中でも一等悔やんでいたのは、「結婚してほしい」とたったの一言が言えなかったこと。穏やかだが奥手で自信がなかった彼は、恋人がいる現実でさえ信じきれず、染みついた性根と闘うことをひたすら先延ばしにしてしまったのだ。

 妖精は、その涙を綺麗だと思った。おそらくこの世界のどんなに澄んだ水でも敵わない。そして、そんな代物が無防備に垂れ流されていくのは嫌だと思った。

 水は命である。渇きを癒し、生命を生み出す役割がある。男の流す雫もまた、本来なら恋人と、いつか彼らの間に生まれる生命に捧げられるべきものだったはずだ。

 そのいのちが流され続ければ、いつか男も死に至る。それを止められるのは水魔術の使い手たる自身ではなく、彼の心にいる人物だけなのだと悟った。


「だから私──


 妖精は凛と宣言した。

 少し前、彼女は一人の商人から交換条件を持ちかけられた。一晩だけ姿を変えられる薬を譲り受ける代わりに、その材料の一つである植物を結実させること。そうして渡されたのがあの暗い緑の種だった。


「独りぼっちの私の話相手になってくれたのに、彼はずっと独りのままだなんて悲しいことだわ。でも私じゃだめだから、ふさわしい人間ならどうかと思って」

「そんな……あなたが独りじゃなくなったって思うように、その人も独りのままではなくなったと思うよ……? だめなんてことは──」

「うふふ、ありがとう。そうだったらよかったけど……人間って理屈じゃないでしょう? 心も魔石と一緒、奪われたらもうだめなの」


 人間たる男と触れ合った彼女もまた、とっくに感化されていた。気づいた時には『引っこ抜いて捧げたっていいくらい』魔石こころを奪われてしまっていたのである。

 その理屈なき感情をアイと呼ぶのだと、妖精は幸せそうに笑った。



       ◆ ◆ ◆



「彼、。もう時間がない」


 妖精からそう聞かされた芙蓉は、彼女と種の世話に尽力した。魔力を流した土と水を用意し、鉢に埋めた後も途切れず魔力を送る。発芽に魔力を使いきればすかさず新しい環境を追加して、それらを連綿と繰り返した。

 植物はとにかく強情だった。魔術で成長を促進させられているにも関わらず、ナメクジが這うような鈍さで以て、おちょくるように頭をちょこんと出す。やっと芽吹いても太陽が眩しいとばかりに身を捩り、魔力を存分に使い潰すのだ。

 まるで手のかかる赤子そのものだ。ハイになった彼女達は眼を血走らせ、高笑いしてますます奮起する。ルシュは魔獣車の様子を確認しつつ、食糧や水を握らせては二人を度々現実に引き戻してやった。


「………………で」


 とはいえ、赤子の気紛れ等そう長くは続かない。魔力補給が五回目を過ぎた頃──ついに一つの実が生った。


「できた~~~~~~!」

「やったわ~~~~~!」


 うつ伏せたまま、芙蓉と妖精は歓声を上げた。苦節半日、補給のための普段の倍以上の食事量のことはさておき、やっとのことで条件が達成された。夕方の冷えた地表が火照った頬に心地いい。

 植物は姫リンゴに似ていて、リンゴとサクランボの中間のような実を頼りなくぶら下げている。種そのままの色が少々毒々しく、芙蓉はあまり食欲をそそられなかった。つるんとした外皮は光っていて飴玉みたいなのだけれど。


「ありがとう、フヨウ! ルシュもお世話ありがとう! 助かったわ、あなた達のおかげよ!」

「ううん、こちらこそ私一人じゃ無理だったよ。一応暗くなる前にはできたけど……普通の植物じゃないみたいだから、ちゃんと実が生ってるうちにお薬もらいに行った方がいいかも」

「そうね、そうするわ! またこの子の気紛れが出てきちゃうと困るものね!」


 果梗をぷちっと切り離した妖精は、鉢の淵に降りて果実をそっと土の上に置き、右半身にあるポケットのようなところを探った。引っ張り出した種の残りを「あら違うわ」と戻し、今度は左側に手を突っ込む。


「これ、お礼よ! 何かの役に立つといいけれど!」


 両の掌に輝く青い石の欠片。内包する魔力を感じ取った芙蓉は仰天して飛び起きた。


「魔石の欠片っ!?」

「ええ! 私、魔力これしかないから!」

「い、いいよいいよ、私もいい経験になったし、そんな大事なもの──」

「大事だからよ。だからあげるの」


 子供のように瞠目する芙蓉に、妖精は眦を和らげて語りかけた。


「私が視える上に協力してくれる人間と出会えた。きっとこれ以上の奇跡なんてないわ。間に合わないと思っていたから本当に嬉しかったの。私、あの人と同じくらいあなたをアイしてる。だから私の魔石こころを半分。ね、受け取って」

「ウ、ウン……ありがとう……」


 あまりに直接的な好意の数々だった。照れて真顔になった芙蓉は幼い返事しかできず、おそるおそる魔石を摘まむ。小指の爪くらいのそれは、確かな感触と温かい魔力を伝えてきた。

 石を撫でる彼女の虹彩に青い煌めきが映っている。そのことが何だかこそばゆくて、妖精はぎゅっと果実を抱き締めた。


「じゃあ私、行ってくるわね!」

「っあ、暗いから気をつけてね! 行ってらっしゃい!」


 妖精が飛び立つとキラキラした粒子が周囲を舞った。それは天の川のように軌跡を残し、村とは逆方向の森へ続いていく。

 肉眼では捉えきれなくなってしまった彼女へ、芙蓉は立ち上がって叫んだ。


「……あの! 絶対上手くいくよ! 頑張って!」


 応えるように、景色のある一点が花火のように瞬いた。星々の如き光の粒は妖精の魔力そのもの。曇りなく透明で、愛する者への想いに満ちたもの。芙蓉からすれば切ないくらい一方通行だけれど、彼女の選んだ道ならば応援するだけだ。


「フヨウさん、グラシュティンが落ち着いたそうです。今のうちだと」

「あ……はい」


 一瞬まごついて、芙蓉はギクシャクと踵を返した。

 できれば結果を聞いてみたかった。だがしかし、彼女のあの気持ちさえあれば上手くいくだろう。残念ではあるが、別れの挨拶は手紙に残しておく他ない。

 そう考えて羊皮紙に走らせた羽ペンが、ふと止まる。


「名前、聞きそびれちゃったな……」



       ◆ ◆ ◆



 女の華奢なものでも人間の足は限りなく重かった。足だけじゃない、腰も腕も頭も、どこもひたすらにずっしりのしかかってくる。翅がないだけでこんなにも違うのかと、妖精は息を荒げて外壁にもたれた。

 されど、これこそが薬が本物である証拠だ。全身をすっぽり覆い隠した怪しい商人ではあれど、取引においては誠実だったと、人間の女の指先が銀の輪っかをなぞる。納めた緑の実を丸ごと入れた小瓶の液体に加え、祝いだと装飾具までもらったのだ。人間同士が番になる儀式には指輪これが必要なのだという。

 妖精は汗を拭い、男の家に足を踏み入れた。木靴を引きずる音が室内に木霊し、ロッキングチェアが軋む。

 「誰だ?」と振り向いた老人の萎れた瞼が、信じられないものを見るように持ち上げられた。


「ミレイユ……?」


 そこに立っていたのは、絵画から抜け出してきたように昔のままの恋人だった。下がり気味の肩にかかる夕焼け色の髪、えくぼのできる笑顔。勇気の出ない己をいつも辛抱強く待ってくれた彼女が目の前にいた。


「夢か……?」


 ミレイユが笑みを深めた。よろよろと踏み出す男に向かって、静かに歩み寄っていく。


「ミレイユ……ミレイユ……」


 老いた腕が伸ばされる。男の痙攣する手を取ると、ミレイユは真っ白な指先で包み込んだ。

 視界が水っぽくなった。しっとりした肌も桃色の爪も間違いなく彼女のもの。感極まった男は、老化した筋肉を千切る勢いで恋人に縋りついた。


「ごめんな……ごめんなあ……間に合わなくてごめんなあ……! 痛かったよなあ……苦しかったよなあ……い、一緒にいたら、俺も君と逝けたのになあっ……!」


 無残に喰い殺された遺体を何度も夢に見た。その度自己嫌悪に陥りながらも、こうして惨めに生き延びている。それでもミレイユは責めるでも悲しむでもなく、ただ口元を綻ばせて何かを差し出した。


「……これは……」


 男は慄いた。ざらざらとひび割れた掌に乗せられた、冷たく硬質な銀の輪。宝石や彫りのないシンプルなものでも、それは覚悟を問うように存在感を主張している。


「用意……してくれてたのか……なのに、俺は……」


 はらはらと溢れる涙が顎下まで伸びた髭を伝う。男はずずっと洟を啜り、指輪を取った。

 向き合う時だ、と強く自覚した。弱虫な自分と、それでも愛してくれた彼女に。夢でも構わない、これは一度きりの神の恩寵なのだ。


「待たせてごめんな、ミレイユ……こんな俺に愛想を尽かさないで、傍にいてくれた君には感謝しても足りないくらいだ。俺の残りの人生、全て君に捧げたい。今度こそ最期まで君と一緒に生きたいから……け、結婚してください……!」


 上擦った声色で、男はミレイユの薬指に指輪を嵌めた。充血した眼でびっしょりと汗をかき、噴火直前の火山みたいに赤らんでいる。恋人と過ごした当時の青年そのままの男がそこにいた。

 身体を突き破って飛んで行きそうな心臓が痛い。前のめりに返答を待つ男に、ミレイユはうるりと涙ぐみ──「はい」と音のない声で告げた。


「…………っ!」


 男は深く息を吸った。多幸感や安堵やその他諸々、数多の感情の奔流に呼吸が追いつかず──頬がベゴッとへこんだ。


「あ、エ゛ッ?」


 突然の両側からの圧力に男はぎょっとした。上下の歯列の間に粘膜が入り込んで口が閉じられない。目を白黒させているうちに、気道がぎゅっと狭まった。


「か、かっ、ひっ、かひゅっ、」


 息ができない。咄嗟に喉を掻いた五指がみるみる萎びて、枯れ枝のようにぽっきり折れた。ぶらん、と逆向きに曲がった指は力なく垂れている。

 何だ、これは。徐々に鈍る思考の片隅で男は呻く。植物が栄養を吸収して成長するように、四肢の末端から生気が失われていくのがわかった。

 脆くなった骨が砕け、どうと倒れて打ちつけられた。視野が黒く塗り潰されていく。何も見えず、何も聞こえない。生命維持の危機から逃れようと、もぞもぞ身動ぎする様は芋虫のそれだった。

 やがて、男はぱったりと動かなくなった。


「ヤン? ねえ、どうしたの? お顔の色が変だわ、ねえ」


 ミレイユ──妖精は膝をついて揺さぶった。はずみで、落ち窪んだ眼孔から呆気なく眼球が転がり落ちた。

 男は痩せ衰え、異様に軽い肢体となっていた。蓄えられていた髭は塵となり、晒された顎がぽろぽろ崩れる。乾いた皮膚はどす黒く濁り、かろうじて骨に貼りついている始末。それは魂を吸い取られたような、まさにミイラに他ならないものだった。


「…………ヤン」


 ──心音がない。そのことに気づいた妖精は、一も二もなく魔力を送り込んだ。紅い髪がぶわりと逆立ち、辺りに粒子が散らばる。

 最早コントロール不能な量の魔力だった。彼を生き返らせる、ただそれに尽きる。半分欠けた魔石が焼け爛れたように熱かった。

 男の死期は確かに近かった。だがこの死に様は明らかに不自然だ。持病もない彼が老衰以外で死ぬならば不慮の事故によるが、妖精は意図的なものを感じたのである。しかし、刹那──。


「ヤン、大丈夫よ、私が助けるわ。大丈夫、あなたは必ずかのジョ、ニ゛ッ」


 ミレイユの頬が不快な音を立てて陥没した。身体中が抉られたようにへこんでいき、ごっそりなくなった肉の代わりに皮膚が骨に纏わりついていく。妖精は、どこかに突っ込まれた蝶の口のようなものから中身を吸われているように錯覚した。

 何かが魔力を吸い取っている。ふと、妖精の目がチカッと反射したものに留まった。それが嵌まる薬指は錆色の骨と化し、隣の指にも浸食を広げている。あんなに綺麗だったミレイユの白磁の手は影も形もなかった。


「あ……ああ……!」


 ──隠さなきゃ。魔力を注がなきゃ。ミレイユコイビトにならなきゃ。彼を生き返らせなきゃ。

 撹拌されているような脳漿を絞り、妖精は本能的にあらゆるところから魔力を取り込んだ。大気、森林、遠くで吠える魔物。指輪の力に負ければ己は消え、男もまた死ぬのだと、底を尽きそうな魔石に意識を集中させる。


「うう、う……っ!」


 煮え滾る魔石しんぞうの熱。妖精は残されたミレイユのもう一方の手で胸を押さえた。恐ろしくてどうにかなってしまいそうだった。

 ──フヨウ、フヨウ、お願い助けて、どうしたらいいかわからないの!

 霞みがかる脳裏で幾度もその名を呼んだ。魔術師たるあの人間なら男を治せるかもしれない。ハーブの入ったあの水で、この枯渇していく魔力を補充してくれるかもしれない。そうすればもう一度、始めからやり直せるかもしれない。


「……フヨウ……!」


 その時、干上がっていく妖精の内で何かが蠢いた。渦巻く魔力の気配にぱっくり裂けた暗い緑の殻を破り、餌を求めて這い出していく。

 それは商人に返しそびれた種の山だった。発芽できずにいたもの達は、外界から押し寄せる大量の魔力に歓喜し、我先にと喰い荒らす。そうして妖精の体内で存分に栄養を蓄え、萎んだ皮膚を突き破った。


「……フ……ヨウ……」


 腹から、腕から、顔から。身体の表面を覆い尽くさんばかりに生えた芽は、瞬時に若木となって結合し、伸びて伸びて巨大な樹となった。茂った葉に隠れた鈴生りの実が夜風に煽られ、さわさわと鳴く。

 大樹はのっそりと移動を始めた。吸い上げた魔力で木を増やして束ね、足のように一歩振り下ろす。大地が震動し、息絶えていた魔物がわずかに浮いた。

 その死体を踏みつけて樹は進む。最早妖精の自我はなく、最後に強く刻まれた命令のようなものが巨体を無機質に突き動かす。


「……ヨ……ウ……」


 地響きが轟く。衝撃は散開し、離れたところにある切り株をも揺らした。重石がころりと落ち、風に攫われた羊皮紙の破片──妖精へと宛てた芙蓉の手紙は、人知れず闇に消えていった。

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