第35話 もう一度、君に逢いたい③

「ニドメマシテってやつだな、代闘士神官見習い。会いたかったぜ」

「ウィリアムさん……じゃない……」


 語尾が震えた。目の前のウィリアムは瞳の色も口調も、雰囲気さえも違う。それに彼は芙蓉が神官見習いであることは知らないはずだ。


「い、いつ、から……?」

「さあな、いつからだと思う?」

「じゃあ、あなたは誰……?」

「さあな、誰だと思う?」


 芙蓉は、鏡に向かって延々独り言を垂れ流している気分に襲われた。中身のない応酬を楽しんでいたらしいウィリアム誰かは、黙り込んでしまった彼女に苦笑する。


「おっと。悪い悪い、一仕事終えてちょっと興奮しててさ。オレはロルダーク、今はとある事情でコイツの中身をやってる」


 その爪先が何かを小突く。芙蓉はそこでようやく、足元にあったものに気づいた。

 反動でぶらぶら揺れていたのは、だらりと折れ曲がった人間の腕だった。ハムみたいにむっちり膨らんだそれは中途半端に埋まる棺からはみ出している。

 見覚えのある薬指の指輪に全身が総毛立った。


「ウィリアム、さん……?」

「本物の、な」


 パチン、と闇に軽快な音が響く。一瞬地面が揺れたかと思うと、土がもぞもぞと盛り上がり、あっという間に腕ごと棺を飲み込んでしまった。次いで、何事もなかったように均された場所に「よいしょ」と墓石が置かれる。そこにフヴィリーの名はなく、『永遠に』とだけ彫られていた。


に寂しい想いをさせたんだ。代わりにお前が誰にも知られず、寂しく永遠にそこにいるといいぜ」


 壮絶な笑みに歪んだ双眸がゆらりと輝く。漣のように空気が揺れて、寝静まっているはずの村内に木々のざわめきや飛び立つ鳥の羽音が木霊した。

 次の瞬間、突如として発生した漆黒の竜巻がロルダークを取り囲んだ。嵐の前触れのように不吉な黒渦。時折光る鋭い稲妻の切れ端が眩しく、よろめいた芙蓉を少年の掌が支えた。

 ──やがて、解けた渦が黒い霧となって消えたそこには、一人の男が立っていた。

 灰と濃紺が混ざり合った髪にきめ細やかな白い肌、わずかに垂れた甘やかな目元。贅を尽くして整えられたかの如き上品な美貌に妖しく心を乱す蠱惑的な微笑を湛えた、凄まじくセクシーな色男だった。

 けれど、何よりも内から滲み出ている比倫を絶する風格が、それらの素晴らしいもの全てを凌駕していた。溢れるような神々しさがある一方で、常に一抹の不安が付き纏い、気を抜けば平伏したくなるようなオーラがある。神秘の塊である妖精フェリアドールを遥かに超え、これまで出会った誰よりも存在感のある人物だった。

 伏せられていた瞼がゆっくりと持ち上げられる。紫眼の中央で針のような瞳孔を目の当たりにした刹那、芙蓉の視界がぐるりと回転した。


「っ!?」


 突然のことに声も出なかった。掬われた足がぶらんと宙に浮いて、側頭部が硬いものにぶつかる。

 反射的に瞑っていた目を開く。神の化身のような男はおらず、芙蓉はいつの間にか、とある家の屋根の上にいた。驚愕する彼女を横抱きにしているのはルシュである。

 護衛の少年は短剣片手に男のいた方角を睨みつけ、浅い呼吸を繰り返していた。耳に流れ込んでくる異様に速い心音。初めて目にする彼の只ならぬ様子に触発され、芙蓉自身もざわざわと焦燥を掻き立てられていく。


「る、ルシュくん? どうし──」

「おいおい、別に取って喰おうってんじゃないから落ち着いてくれよ」


 背後の気配に血の気が引いた。喉を引きつらせたルシュが瞬時に腕を振り抜く。

 夜空に乾いた音が響き渡った。狙ったもののことごとくを仕留めてきた剣はロルダークを切り裂く──こと叶わず、少年の手首に絡みついた長い五指によって制されていた。力を入れているようには見えないのに、ルシュがいくら腕を捩じっても刃先が多少痙攣するだけ。それもついには動かせなくなった。

 圧迫された手首が軋む。骨同士が擦れ合い、割けて砕かれていく痛みが体内を走り、ルシュは呻き声を漏らした。どっと噴き出した脂汗が強張った顎を伝っていく。

 噛み締められた彼の口端から血が滴る様を見て、芙蓉は咄嗟に掴まれている箇所へ手を伸ばした。


「、っだめだ近寄るなッ!」


 ギクッ、と身が竦んだ。芙蓉の肩に回されたルシュのもう片方の腕が力一杯彼女を引き戻す。全神経をロルダークの一挙一動に集中させているあまり、加減ができないほど少年は必死だった。血管がぶわりと膨張し、芙蓉の身体に半獣人の握力がギリギリと食い込んでいく。


(どうしたの、どうしたのルシュくん、ああ、手が──)


 締め上げられたルシュの手中から短剣が零れた。そこでロルダークはふっと微笑み、ぽいっと腕を放る。そのまま踵を返し、勾配部分に腰を下ろした。

 力の入らなくなった右手を慌てて受け取り、芙蓉が魔力を流し始めた。あわあわする彼女を庇うように覆い、少年はロルダークから視線を逸らさない。

 オレの正体を知らないくせに本能的に警戒してやがる。男は喉の奥でくつくつ笑った。


「お前に会いたかったのは本当だけど、用は特にないよ。オレの今回の目的はコレとアイツらだけ」


 そう告げて、ロルダークはどこからか赤みを帯びた物体を取り出した。どく、どく、と脈動する臓器。フヴィリーの内側で蠢いていた彼の心臓は、身体から切り離されても尚止まっていなかった。


「ひでえ話だよなあ。せっかく産ませてやったのに身体ガワぶっ壊しちまうんだもん。母体が人間だと一番オレに近いけど、ヤワなのが瑕だなあ」


 ロルダークは感情のない声で呟いた。月の光に照らされるそれは、今までで一番規則正しく拍を刻んでいる。

 ややあってから、青白い月色を浴びた端整な横顔が芝居がかった口調で語り出した。


昔々むかーしむかし、あるところに一組の夫婦がいました。二人は幸せでしたが、貧しさから夫は出稼ぎ労働者となり、妻の元を離れることになりました」


 過酷な肉体労働と孤独な単身赴任の中、いつしか夫は道を誤った。ブドウ園の娘である若い女は、溌溂としていて気の強い跳ねっ返り。纏わりつく重石のような妻の愛情に比べ、新鮮で軽やかなごっこ遊びに思えた。

 高を括っていたはずの夫は若い女に夢中になった。家には帰らず、休日は専ら女と過ごす。妻から冷や水のような手紙が届いたのは、そんな生活を一年以上続けていたある日のことだった。

 曰く、子供が産まれたのだという。心当たりのなかった夫は半信半疑で当人に会いに行った。すると息子は確かにいて、妻の髪と瞳の色を受け継いだ、不気味なほど自分にそっくりな人間だった。

 束の間、夫は家族の団欒の温かさに興じ、思い出した。そうだ、自分はこのために働いてきたのだ。溺れそうだった妻の愛も半分は息子に分散されて心地良い。幸せだった──子供が日に日に瓜二つのように似ていくこと以外は。


「自分がいない間、妻がどうやって子供をこしらえたのか夫にはわかりませんでした。第三者の存在を疑えど、生き写しなほど自分に似ている。夫は気味悪がって、再び出稼ぎ先から戻らなくなりました」


 妻は何度も手紙を送った。返事は来ないばかりか、受け取りすら拒否されることもあった。

 そんな折、不慮の事故で息子が怪我を負った。村人達が半狂乱の妻に代わって知らせると、外聞を気にしたのか夫はすぐに帰ってきた。そうして妻を落ち着かせ、息子の世話に勤しんだ。

 妻は悟った。この子が傷つけば周囲の同情が夫に会わせてくれる。負傷の理由等何でもいいのだ、ただこの子が傷つきさえすれば。その間だけは、忌々しいほどくっきり残されるあの女の痕跡を目撃することもない。どす黒い嫉妬は狂気となり、彼女の拳は真っ直ぐ息子に振り下ろされた。

 それからは堂々巡りだった。息子が怪我をする。夫が連れ戻される。息子が怪我をする。夫が連れ戻される。息子が怪我をする。夫が──。


「その度に届く手紙や、欠片も心配しない妻の態度に夫はウンザリ。ますます帰る足が遠のき、打ちどころが悪かった子供はとうとう死んでしまいましたとさ──で、今に至ると」


 ロルダークはおどけたように肩を竦めた。

 言葉が出なかった。ただただ妻の身を案じる善き夫だと思っていた人、夫の所業に精神を壊されて狂った人、そして彼らの業の深さにより命を落とした人。芙蓉達がいるのは煮詰められた邪悪の坩堝るつぼ真っ只中であり、それこそがこの道化のような男の望んだ結末だった。


「好きだの愛してるだのあなただけだの、人間は縛りがあって面倒だよな。まあでも、そういうごちゃごちゃした感情が神にないわけでもなし、結局面倒なものが一番面白いってことか。ほら見てみろよ、始まるぜ」


 ロルダークが顎をしゃくる。おそるおそる屋根から見下ろせば、ウィリアムの家周辺が何やら騒がしい。

 女が一人、玄関の扉の前でヒステリックに怒鳴っていた。寒空の下、最低限の防寒で急いで来たという恰好だ。細腕で何度も戸を殴る彼女を、村人が腫れ物に触るようにとりなしている。

 何度目かの殴打の後、不意にギィ、と扉が開いた。女がチャンスとばかりに突進し、真っ暗な室内へ消える。残された村人達は互いに顔を見合わせ、へっぴり腰で中を覗き込み──刹那のうちに「ギャッ!」と飛び上がった。


「ベ、ベ、ベアトリスっ」

「おま、お前さん、何を……」


 じり、と後ずさりしていく村人達。家の中から現れたのは、女の髪を鷲掴んで引き摺るベアトリスだった。表情の抜け落ちた彼女はふらりとよろめき、拍子に女がごろりと玄関前に投げ出される。

 その肢体は事切れていた。致命傷は夥しい量の血液が噴出している腹部のようだが、それ以外にも至るところに傷があり、特に上半身はこれでもかというくらいめった刺しにされていた。口をあんぐりと大きく開けて、何が起こったのかわかっていないような面持ちで大の字になっている彼女は、先日『バラ窓』の前で見かけた若者だった。

 喧騒を聞きつけ、あちこちから人が集まってくる。てらてらと黒光りする包丁を握ったままのベアトリスは、騒々しい近隣には目もくれず、億劫そうに首をもたげた。

 その焦点は屋根の上──悠々と腰掛けている男に向けられている。


「あなた」


 ひび割れた唇がそう模るや否や、パチンという合図でベアトリスの頭が弾けた。


「ぎゃああ!」

「うわあ、ベアトリスぅ!」


 爆発した肉片が撒き散らされ、瞬く間にそこは阿鼻叫喚の地獄となった。口に入ったと懸命にえずく者や執拗に服をはたく者を尻目に、ロルダークは「よっこいしょ」と立ち上がる。


「んはは、ベアトリスが勝ったな。母は強し~ってやつか。ま、でも喧嘩両成敗ってことで、みんな仲良く死ななきゃな」


 からころ笑った男が横目で芙蓉達を見やる。あーあ、震えてら。いとも容易く引き起こされた惨劇に青褪めた二人が初心うぶで微笑ましくて、口角がチェシャ猫のように弧を描く。


「オレとしてはさあ、子供が産まれればよかったんだよ。あの女ベアトリス、見た目が結構好みだったし、どうせならそういう女と作りたいだろ? なのにこれからって時に息子は仮死状態になるし、ちょっと目離したらオカーサンオカーサンって墓抜け出すし。いやまあ根性はオレに似てて良いんだけどさ。子育てって大変だな」


 何を──何を、言っているのか。ロルダークの紡ぐ話は荒唐無稽で、突拍子もなく、芙蓉にとっては空想みたいなこの世界でもとびきりの絵空事のようだった。断片的な情報を繋ぎ合わせれば、フヴィリーはウィリアムに化けたロルダークとベアトリスの子供であり、彼はウィリアムを殺し、最後にはベアトリスとウィリアムの浮気相手による泥沼の決闘を楽しんだということだ。

 執念深くその時を待ち、一度でも脇道へ逸れた人間を取り返しのつかない奈落へ叩き落す。悪魔みたいだと慄く芙蓉の脳裏に、いつかエウリヤナが吐き捨てた『邪神』の一言が過ぎった。


「な、オレの息子かわいいだろ? 今度会ったら遊んでやってくれよ。母親、もういないからさ」


 ドクドク元気な心臓をちょいと突いてロルダークはにっこりする。呼応するようにぎゅぎゅっと伸縮する動きは、彼の言う通り子供のような仕草だった。

 「じゃあな」と手を振った男がふと止まる。瞬きの合間にその背は跡形もなくなり、後方から芙蓉の耳元へ低い囁きが落とされた。


がお前を捜してるぜ。近いうちにまた会うかもな」


 閃いた銀の切っ先はまたしても標的を捉え損ねた。ぺろりと舌なめずりしたロルダークは黒い霧となって夜に溶けたが、ルシュは芙蓉を抱えたまま、ピンと獣耳を立たせて警戒を解かずにいた。芙蓉はそんな少年の圧に呑まれ、せめて邪魔にならないようにと身を固くして息を潜める。

 まるで大海に転がり落ちた小舟のようだった。ことわりから逸脱した超魔的存在に翻弄される二人を、嘲笑うかのように湾曲した三日月だけが見ている。それは悪夢を体現するあの男の口元にそっくりだった。

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