第34話 もう一度、君に逢いたい②
白い息がカンテラに照らされる。十月とはいえ、真夜中の気温は既に冬のそれだった。完全なる暗闇に覆われたヴェフルの村は凍えそうなほど寒く、いっそう排他的な雰囲気に満ちている。
先頭を歩くのは灯りを掲げるウィリアム、その後ろにルシュ、芙蓉が続いている。ウィリアムの意志は固く、二人が仮眠を取っていた宿屋まで迎えに来たほどだった。何かにつけてすぐに地下へ降りてしまう妻がいる以上、居ても立っても居られなかったのだろう。
グラシュティンの方も相変わらずで、目を離せない御者は魔獣車の中で眠るという。若い彼はあまり経験豊富でないため、手紙を飛ばして先輩に連絡を取るのだそうだ。
「ここだ」
厳かな声が響いた。
カンテラの光が『愛するフヴィリー、我々の心の中に永遠に』の文字を反射する。まだ風化していない、四角い鈍色の真新しい墓石。周囲には子供用の服や靴、木の食器が多く並べられていた。
ウィリアムはカンテラを置き、深く呼吸した。
「……やるぞ」
彼の全身は絶え間なく震えていた。眼だけがギラギラと粘っこく、狩りの前の動物のように底光りしている。墓暴きという罪深き所業に対する並々ならぬ決心を感じ、芙蓉とルシュも改めて気合を入れた。
「棺があるのはこの辺りでしょうか? 私、魔力で土を掘るので──」
言葉が途切れた。掌で場所の見当をつけていた芙蓉が、触れた部分を凝視している。ウィリアムが光源を引き寄せると、彼女は絶望した声音で呟いた。
「……あ、な……開いてる……」
するりと手中からカンテラが滑り落ちる。地面に叩きつけられた金属の派手な音が闇をつんざいた。
ウィリアムは額を擦りつけんばかりに突っ伏した。焦点の合わない瞳孔を激しく収縮させ、荒い呼吸を繰り返しながら、脇目も振らず墓の下を掘る。素手で掘り進められるほどに土は崩れていた。
芙蓉とルシュも加わり、棺はあっという間に現れた。指先が粗末な木の肌を引っ掻き、男手がそれぞれ両端から棺を持ち上げた瞬間、閉まっているはずの蓋がずれた。ずず、と移動した隙間から中の空間の一部が顔を覗かせる。
「…………フヴィリー、眠っているところ本当にすまない。母さんを助けなければならないんだ。父さんを許してくれ……」
祈るようにウィリアムは両目を閉じた。そうして数秒待った後、一つ息を吐いてそっと蓋に手をかける。
「…………ああ…………」
──そこにあるはずのものはなかった。棺の中身は空っぽで、代わりに土が山を成している。まるで、内側から無理にこじ開けたせいで流入したみたいだった。
「ああ……ああ……!」
ウィリアムが髪を掻きむしり、爪の間に入り込んだ土が汗に混じって伝う。それは黒い涙のようにこけた頬を流れた。
彼は棺に両手を叩きつけ、がむしゃらに喚きながら走り出した。
「誰だ! 誰がフヴィリーの墓を暴いた! 誰がベアトリスをおかしくさせた! くそったれ! 出てこい悪魔め!」
「ウィリアムさん……」
「恨みがあるならオレに言えよ! どうしてこんなっ……ちくしょお……!」
吐き出される呪詛が端から闇夜に吸い込まれていく。叫び、もがき、見えない敵を殴りつけても、時はみだりに過ぎるばかり。
延々と壁打ちしていたウィリアムはやがて、電池が切れたように停止した。光を失った双眸で虚空を眺めるその様は、彼の息子に瓜二つ。芙蓉の背筋がぞくりと粟立った。
フヴィリー。子供の名前を一言呼んだかと思うと、男はふらりと来た道を引き返す。
「……今度こそ眠らせてやらなきゃな……」
その足取りは、あちら側から幽鬼に掴まれているように覚束なかった。
◆ ◆ ◆
とく、とく、と赤い心臓が鼓動している。汚泥に塗れ、常時空気に晒されていても尚、それは一片たりとも止まる素振りを見せない。むしろ、刻一刻と脈動が力強さを増しているような気がする。外側の腐敗は進んでいるのに、なぜ。
しかし、その疑問はベアトリスの頭からすぐにかき消えた。実に些末なことだからだ。どんな様子であれ、息子がこの家にいれば彼女はそれで構わない。そうすれば──。
「…………?」
ふ、とベアトリスは首をもたげた。地上が騒がしい。乱暴な扉の開閉音や引きずるような足音が頭上から聞こえてくる。
それが愛する夫のものだと察知した彼女は、すぐさま立ち上がって身を翻した。自然と頬が綻ぶ。何に対しても精力のある彼のことだ、腹を空かせてしまったのかもしれない。自分が必要とされるであろうことがただ嬉しかった。
案の定、地下に下りてきたのはウィリアムだった。ただし鬼気迫るような見幕で、首に刃物でも突きつけられているかの如き緊張を孕んでいた。
ウィリアムは近づいてきたベアトリスに一瞥もくれず、真っ直ぐに寝台を目指した。
「フヴィリー、無理に起きてつらかったな。次は夢も見ないくらい眠るんだぞ」
「ウィル……? 何してるの……ねえ!」
甘やかした声をかけながら息子を担ぎ上げるウィリアム。慌てたベアトリスがその太い腕にしがみつくと、弾みで幼い腕が宙ぶらりんになり、蛆がぼたぼた床に落ちた。
そこへ、ウィリアムを追いかけてきた芙蓉とルシュが到着する。息を荒げて地下へ突入した瞬間、甲高い金切り声が二人の鼓膜を突き破った。
「やめて! 連れて行かないで! せっかく帰って来てくれたのよ! フヴィリーは
「いいや、違う。全身こんなに腐ってるんだ、フヴィリーは一人じゃ歩けない。誰かが君にそう思わせるよう、墓を掘り返してこの子を
「そんなっ……だって、誰がそんなひどいことをするの!?」
「わからない、でも今はフヴィリーをきちんと埋めてやらなきゃ。犯人捜しはその後だ」
「待って、ウィル! お願いやめて! この子はまだ生きて──」
「フヴィリーは死んだッ!!」
地下室がたわむような怒号が轟いた。間近で浴びたベアトリスの髪が逆立ち、次いで芯をなくしたように垂れ下がる。彼女は肩で息をする夫の迫力に放心していた。
ウィリアムは口を半開きにした妻を痛ましげに見つめながら、ぐず、と鼻の奥を鳴らした。
「……もう、この子は死んでるんだ……牧師も言ってただろう……あの時心音も脈もなくて、身体も冷たかった……フヴィリーは完全に息をしていなかったんだ……なのに今は……身体は腐る一方なのに心臓だけが動いてる。これはなんだ……? こんなの、ちゃんと生きてる人間だって言えるか……?」
「うう……」
「オレ達のフヴィリーはあの時いなくなった……もしかしたらこれは、悪魔にでも取り憑かれたのかもしれない。もう一度丁重に弔ってくる。君はつらいだろうから家にいてくれ」
「いやよ……いや……」
「ベアトリス……」
泣き崩れた妻が、弱りきった夫においおいと縋った。
「家族のためだってわかってる……でもウィルは滅多に帰ってこなくて、今度はフヴィリーもいなくなるなんて……わたし、独りきりなんて耐えられない……!」
「寂しい思いをさせて悪かったよ、ベアトリス……まだ話してなかったが、ケニーに掛け合って、これからは村の仕事をする予定なんだ。フヴィリーの代わりにオレがいるから、どうか元気を出してくれないか」
「ああ、ウィル……!」
感極まったベアトリスがぶつけんばかりに頬ずりした。ウィリアムは深く頷いてそれを受け止め、妻と子供を強く抱え込む。
「あなたの分まで精一杯生きていくわ」
「どうか安らかに、フヴィリー」
寄り添い合う夫婦は、さながら一枚の絵画のようだった。子を亡くした不幸を乗り越え、誓った愛の下に再び歩み出す番同士。どこかうすら寒いほど完璧な理想の男女の在り方だった。
芙蓉とルシュは何ともいえない表情を浮かべ、そろりと顔を見合わせた。どうやら考えていることは同じらしかった。
◆ ◆ ◆
その後、ウィリアムはフヴィリーを抱えて出て行った。神父や村の衆は呼ばず、己一人で息子を埋葬するのだという。意地でも彼を死者として扱う強硬な姿勢を貫く理由は、ウィリアムの中で一連の戦犯が村内におり、気を緩めることができないためだった。
芙蓉は、そんなウィリアムに正直に伝えた。魔術師として経験が浅いことを前提に、それでもフヴィリーが亡くなったとは思えないこと。そして、もっと高位の魔術師に相談する時間をもらえないかということ。結果は言わずもがな、「ベアトリスを頼む」の一言だけ。実の親である彼にそう押し切られてしまっては、部外者は黙る他ない。
(でも、この村に入ってから常に違和感がついて回る……)
酒場での村人達の会話、落ち着かないグラシュティン、外と内に異なる時間が流れる人間。いまいち釈然としないことだらけだ。このまま傍観していてよいのかとは思案するものの、芙蓉達はベアトリスのことを頼まれている。彼女はまだ地下室に囚われたままかもしれないから、折を見て地上に連れ出してほしいと。
そんなわけで、芙蓉とルシュはお茶の準備をするベアトリスを手伝っていた。彼女は家事が得意なようで、動作がてきぱきと淀みない。少しも狂わない手元は、あれだけ泣いていたのが幻のように感じるほどだ。
(頑張って無理してるのかもしれない)
とうとう鼻歌まで歌い出した彼女に、芙蓉はためらいがちに呼びかけた。
「この度はお悔やみ申し上げます……あの、大丈夫ですか……? よかったら私、代わり──」
「え?」
ベアトリスが手を止めた。振り向いた彼女の手には鈍く光る包丁が握られている。
「何が?」
芙蓉は二の句が継げなかった。向けられる深淵のように黒々とした眼差しと、裂けたように吊り上げられた口角。そこでようやく、密かに感じていたうすら寒さの正体に思い至った。演技染みた会話と同じく、彼女の顔つきは人間を真似たように作り物めいている。
ベアトリスは心底不思議だという風に刃をケーキに滑らせた。
「これであの人が家にいてくれる」
ガリ、とタルト生地が悲鳴を上げる。
「出先の女と終わってくれる」
ガン、ガン、と拳が柄に振り下ろされる。
「また子供を作らなくちゃ」
バキン、とケーキが割れた。
我に返った時にはルシュと二人、その場を飛び出していた。深夜の村を縦断し、足音荒く走り抜ける。
「もしかしてっ……もしかして、あの痣……っ!」
脳裏に過ぎる酒場の光景とフヴィリーの身体中についた斑点、そして叫んでいた若い女。ウィリアムが出稼ぎから戻ったのは息子が亡くなったから。ではその原因は──。
嫌な想像ばかりが手を繋いで浮かんでくる。冷気に痛む肺の訴えを押しやり、二人はウィリアムの後を追った。彼の妻は確信犯で、その狂気の源は彼自身の行いにある。フヴィリーは彼らの身勝手な振る舞いに巻き込まれただけだ。もしもこれが続けば、次に子供が生まれてもフヴィリーと同じ運命を辿ることになるかもしれない。
「ウィリアムさんッ!」
墓所にはウィリアムがただ一人、こちらに背を向けて突っ立っていた。芙蓉は冷えて乾いた喉をつかえさせながら近づく。
「息子さんが、げほっ、亡くなったのは……事故じゃないかもしれません……! まだ憶測ですけど、原因は──」
「
その声色が耳朶に流れ込んできた瞬間、足が凍りついたように動かなくなった。周辺によく通る、芝居がかった男のそれ。真っ赤な炎の記憶が不意に蘇る。
(私、この声知ってる──)
ウィリアムの姿をした人間がゆっくりと振り返る。
かち合ったのは、ウィリアムの茶とは異なる鮮やかな紫眼だった。神秘的で、どこか高貴さを漂わせる珠玉の色。その視線は芙蓉を捉えるなり、いたく面白そうに細められた。
「ニドメマシテってやつだな、
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