第33話 もう一度、君に逢いたい①

 グラシュティンが足を止める頃には、辺りはすっかり夜になっていた。

 停車するや否や、村中から人が集まってくる。相乗りした男──ウィリアムが下車すると、口々に労いの言葉や心配そうな声が上がった。松明やカンテラに照らされるのは、憂慮と困惑を浮かべた表情ばかりだ。

 その集団が、後方からやって来た老齢の男に道を開ける。


「帰ったか」

「やあケニー、迷惑かけたな」

「そんなことはいい、早くベアトリスのところへ行ってやれ。ずっとお前を呼んでいた」

「そうだな……君達もありがとう。もう遅いから、よかったら泊まっていってくれ」


 ウィリアムは小走りに家へ向かって行った。残された一行はグラシュティンを繋ぎ、酒場と宿屋を兼ねた広間に案内される。

 室内は暖炉やろうそくが灯っているのにかなり薄暗く、どこか寒々しかった。どうやら隙間風が入るようで、所々木の板で壁が塞がれていても尚、口笛のような音が絶えず鳴っている。

 店主がテーブルのガタつきを直そうとしたが、何度動かしても傾いたままだった。そのうち根負けしたのかドスドス立ち去り、愛想よく笑いながら皿を持ってくる。


「そっちがソラ豆とベーコンのスープ、これがサーモンのガーリックバターステーキ、あとはパンと……エール? それとも蜂蜜酒ミード?」

「えっと……」


 御者がちらりと二人を窺った。芙蓉が「お気になさらず」と笑うと、ほっとしたようにエールを注文する。

 ふっくらとした鮭にはきのこソースがたっぷりかかっていた。ニンニクの効いたガツンとくる豪快さがある一方、ワインで煮立たせてあるらしく、しっとりした上品な味わいも感じる。それらを後味すっきりのスープがリセットしてくれるので、飲む度にステーキへの食欲が湧き立ってくる。最高の組み合わせだった。

 夢中でナイフとフォークを動かしていると、離れた席の会話が聞こえてきた。夜の酒場なのに閑散としているせいで、囁き声すら明瞭に届く。


「ウィリアムんとこ大丈夫かね? ベアトリスが暴れるの、もう何回目だ?」

「何かある度に手紙出せ出せって喚くからな……ありゃ仕事になんねえだろ……まあさすがに子供が死んじまうとさ、おかしくもなるんじゃないか?」

「……死ぬっていうか、なあ?」

「……正直、うっかりやり過ぎて──」


 次の瞬間、入り口が乱暴に開け放たれた。

 その場にいた全員の視線が集まる。入ってきたウィリアムは脇目も振らず席の隙間を潜り、真っ直ぐ芙蓉に近づいた。


「食事中にすまない。悪いんだが、ちょっと家に来てくれないか」


 暗い中ではいっそう死人のように見えるほど蒼白な顔色だった。呆ける芙蓉にウィリアムは身を屈める。


「君、魔術師だろう」

「なぜそれを……」

「ビンズの村の祭にワインを届けに行った時、君のことを聞いたんだ。魔術師なら治せるかもしれない」

「治す?」

「上手く説明できる気がしないんだ。とにかく、まずは様子を見に来てほしい」


 早口に言い残して、ウィリアムは踵を返した。閉まりきらない両開きの扉がギイギイ軋んで、その先に不気味なほど真っ黒な闇が鎮座している。外灯はあるのに、この村はどこもかしこも不自然に暗かった。

 芙蓉が口元を拭って席を立ち、ルシュもそれに倣う。二つの背中を真っ赤に出来上がった御者が陽気に見送った。


「こっちだ」


 暗がりにぼんやりと浮かぶ青白い面についていく。村内はしんとしていて、足音が嫌に大きく響いた。

 不意にウィリアムに呼びかけられ、芙蓉は自然と俯いていた頭を上げる。


「……なあ」

「はい」

「死んだ人間って蘇るのか? 魔術師ならそういうことができるのか?」


 温度のない声音だった。無言で首を振った芙蓉に、ウィリアムは「そうだよな」と顔をくしゃくしゃにする。


「確かに心臓は止まってたんだ。身体も冷たくて……


 一体何がどうなってるんだ。萎びた髪を掻きむしったウィリアムが、打ちのめされたようにそう呟いた。



       ◆ ◆ ◆



 ウィリアムの家は住居が立ち並ぶ角の隅にあった。

 玄関の前に立った時、芙蓉は思わず二の足を踏んだ。ひび割れた窓、庭に散乱する欠けた家具、枯れて地面に首を垂れた無数の植物。荒れ果てているのはもちろん、それ以上に無機質で人間が住まう空気を感じられない。家全体が死んでいるような気さえした。

 家の中もまた外観の雰囲気そのままだった。これだけ暗いのに光源はウィリアムの持つカンテラたった一つ。そのためルシュに手を引かれ、転がる額縁や何かの破片を踏み越えながら進む。彼の妻──ベアトリスは地下の物置にいるという。


「うっ……」


 地下への出入り口に差し掛かった刹那、芙蓉は思わず鼻を覆った。

 得も言われぬ臭いだった。生ごみやチーズを酷く腐らせたような、耐え難い刺激臭に涙が浮かぶ。口を開けば胃の中身を丸ごと吐き出しそうで、歯の隙間から少しずつ酸素を取り入れるしかなかった。

 何度も唾液を飲み下す芙蓉に代わり、ルシュがウィリアムの後に続いた。その横顔に一切の苦痛は見当たらない。半獣人は人間に比べて五感が鋭いはずなのに、少年は困ったように目尻を下げるだけだった。


「るひゅしゅん」

「こういう臭いには慣れてます。俺が見てきますから、フヨウさんは外にいた方が……」

「いえ、じょ


 意を決して腐りかけの木の段差を下りていくと、ウィリアムの掲げたカンテラの先に、横向きに腰掛ける女が一人。冷たく湿った石壁に囲まれた寒い場所なのに、薄手の長いワンピースのみの体躯は枝切れのように細かった。


「ベアトリス」


 ピクリと薄い肩が反応した。長い髪の間から現れたのは、下がり眉とぽってりした唇が特徴的な、怠惰な色気のある細面の美人だった。


「ウィル……どこに行ってたの……? せっかく久しぶりに三人揃ったっていうのに……」

「悪かったよ。この二人を家に招待してて」

「あら、どなた……?」


 おっとりした動きでベアトリスは微笑む。芙蓉もかじかむ筋肉を精一杯持ち上げ、にっこりと笑顔の形に曲げた。


「初めまして、芙蓉と申します。こちらはルシュくん。旅の途中でここの宿にお世話になっています」

「まあ……そうだったのね。まったくウィルってば、こんな若い子達にちょっかい出して。わたしじゃ不満なの?」

「おいおい、冗談はよしてくれ。オレには君が一番さ」

「うふふ、懐かしいわねそれ。最近めっきり聞かなくなったと思ったのに、どういう風の吹き回し?」

「離れていると恋しくて仕方ないんだ。この世のどんな花よりも美しい君が、誰かに言い寄られてるんじゃないかって」

「そんなおべっか使っても牡蠣のグラタン焼きしか出ないわよ、旦那様?」

「オレの大好物じゃないか! 君は本当に最高の妻だ!」


 『仲の良い夫婦』と調べたら辞書に載っていそうなほど完璧なやり取りだった。先程の悲壮な顔つきはどこへやら、ウィリアムは深い笑い皺を刻んでいる。そんな夫の頬を幸せそうにくすぐり、ベアトリスはスカートの端をちょこんと摘まんだ。


「こちらこそ初めまして、かわいいお客様方。わたしはベアトリスよ。こっちは息子のフヴィリー」


 彼女の脇には小さなベッドがあった。盛り上がっている毛布を撫で、ベアトリスは砂糖で煮詰めたような声色を出す。


「フヴィリー、ご挨拶なさい。フヴィリー?」

「っあ、大丈夫です、すみません夜遅くに。そのまま寝かせてあげてください」


 ベアトリスは瞳をまん丸にして「そう?」と手を止めた。隣でウィリアムの喉がゴクッと上下する。


「ベアトリス、彼らにも君の作るご馳走を是非味わってほしいんだ。用意を頼めるかい」

「ええ、もちろん。ここは寒いから上がってきてちょうだい」

「ああ、すぐに行くよ」


 ウィリアムは妻を先に行かせ、小声で芙蓉に耳打ちした。


「魔術師から見てどうだ。彼女におかしいところはないか?」

「特には。受け答えもしっかりされてますし……」

「ならあっちを視てくれ」


 顎でしゃくられた方角には、彼らの息子が寝ているという寝台。四隅に蜘蛛の巣が張られ、埃を被った棚や壺が置かれた地下室で、それはおぞましいほどの存在感を放っている。


「臭いの元はあれです」


 囁くルシュの指先は武器に触れている。毛布に手をかけた少年の後ろから、芙蓉はおそるおそる首を伸ばした。


「…………っ!」


 ──そこにいたのは、人間であって人間ではないものだった。

 目の前には齢三歳にも満たないような幼子が横たわっている。見てくれは人型だがしかし、紫色の斑点が身体中に点在し、そこが熟し過ぎた果実のように溶け落ちている。一段と腐敗が酷く、ぽっかり開いた胸元からは内部が露呈し、かすかに鼓動する臓器が黒っぽい欠片に埋もれていた。

 呼吸のための鼻や口は腐って混ざり合い、最早判別がつかない。蠢く蛆が這い回っても眼球はぼんやりと虚空を眺めたまま。必要な身体機能のほぼ全てが失われているのに、彼の心臓はまだ脈打っていた。


「ぐぶっ」

「フヨウさん!」


 呻いて身体をくの字にした芙蓉を下がらせ、ルシュは背を擦った。固く目を瞑った彼女は胃の痙攣を必死に抑え込んでいる。無理もない、掘り返した墓の下を目の当たりにしているようなものだ。慣れているルシュでさえ眉を顰めるほど、この子供には死者の影が濃く取り憑いている。

 生死も不明の、初めて遭遇する存在だった。果たしてこれは人間なのだろうか。


「……もう、フヴィリーは死んでいるだろう?」


 背後から、掠れた声でウィリアムが問うた。答えを求めるというより、自身に言い聞かせているようだった。


「先週のことだ……オレが出稼ぎ先で手紙を受け取った時には、フヴィリーはもう死んでいた。頭がパックリ割れててな……打ちどころが悪かったんだろうって、村の皆が埋葬を手伝ってくれた。ちゃんとこの手で、確かに棺に入れたんだ……オレが……ものすごく軽いフヴィリーを抱いて……!」


 父親は膝をついて嗚咽した。胸を締めつけられるすすり泣きが静かな空間に木霊する。


「なのに、フヴィリーが昨日帰ってきたって……また三人で暮らそうってベアトリスは言うんだ! でもこんなっ……こんなの、生きてる人間じゃありえない……! 一体何がどうなってるんだ!!」


 絶叫がわんわんと反響した。かろうじて吐き気を突っぱねた芙蓉は、水分の多い視界でうずくまるウィリアムを捉える。

 愛する我が子の死に目に会えなかったばかりか、その息子は生者とも死者とも言い難い存在となり、妻も現実を正しく認識できなくなってしまった。発狂しそうな境で、彼は懸命に自我を保っているのだろう。家族のために一人遠い地で頑張ってきたのに、あんまりな仕打ちだと芙蓉は唇を噛み締めた。


「何をしているの?」


 ビクッと全身が揺れた。

 地上への階段の麓に、ミトンをはめたベアトリスが立っていた。型に押し込めているのかと錯覚するくらい、変わりない満面の笑みを貼りつけている。


「もう、上がってきてって言ったのに。せっかくのお料理が冷めちゃうわ」

「……ああ、ごめんよ。今行くから」


 ぶくっと頬を膨らませた妻にウィリアムが苦笑する。彼はぷりぷり怒るベアトリスを追いかけながら、密やかにまくし立てた。


「オレにはもうわからない。魔術師の君だけが頼りだ。今夜フヴィリーの墓を調べるから一緒に来てくれ。一応だ、一応な。もしもそこにフヴィリーがいなければ、誰かの悪趣味な嫌がらせだってことがわかる。なあ、きっとそうだ。死んだ人間は生き返らないんだ、だから自力で土を掘り返せるはずがない。そうだよな?」

「……はい」

「あとはベアトリスだ。オレが何度説明しても彼女は聞く耳を持たない。『そこにいるでしょ』って言うばかりで……もう息子はいないんだって、何とか彼女にわからせてくれないか。何か……そうだな、軽い魔術くらいなら使ってもらって構わない。重要なのは意識改革なんだ」


 ウィリアムの茶色の眼は興奮からか血走っていた。口角を泡立たせる彼とは対照的に、その息子は最後まで一言たりとも言葉を発しなかった。



       ◆ ◆ ◆



 すっかり食欲の失せてしまった芙蓉達は、ベアトリスの歓待を丁寧かつ丁重に辞退し、家から逃げるように脱出した。

 ただし災難は終わらない。げっそりした彼らを次に待ち受けていたのは、何かを振り払うように暴れるグラシュティンと、どうにかそれを宥めようと四苦八苦する御者の姿だった。


「すみません、餌の最中に急に落ち着かなくなって……今までこんなことはなかったんですが……」


 二頭の魔物はほんのわずかな一時でも大人しくならず、すっかり酔いの覚めた御者は途方に暮れていた。訓練の際ですらこのような兆候は見られなかったという。このままグラシュティン及び御者に休息を取らせることができなければ、明日の出発は難しくなる。

 この先に待ち受けている、相当に滅入るであろう未来を想像して芙蓉は肩を落とした。真夜中の墓暴きに正気を失った人間の説得、不調を訴える魔獣車の修復。ほんの数時間前まではあんなに楽しかったのにと、ルシュと顔を見合わせて力なく笑う。

 ──その光景を、屋根の上から一人の人物が見つめていた。

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