第31話 這い寄るもの

 ノン集落を後にした一行は、街道へ出るまで一日半、さらにツェルンの街へ到着するのに一日かかった。

 とにかく集落の僻地ぶりを舐めていたのだ。単純な距離の遠さに加え、トーハから連なる山の麓という立地、そして鬱蒼とした森が監獄のように唯一の入り口を塞いでいた。衛兵が頻繁に見回りに来るには遠過ぎるし、集落の人々が救援を求めて脱出しようにも難しい。一方で、元々山岳地帯に住むといわれるサイクロプスにはまさにお誂え向きの場所だった。

 街道をしばらく進み、駅馬車を見かけるようになった頃には疲労が限界だった。乗車するなりお休み三秒、時々大きな揺れに起こされつつ、目を覚ませば巨大な石造りの門が眼前にあった。


「フヨウさん、着きました」

「……すみません……寝ちゃってました……」

「歩き通しだったから仕方ないですよ」


 一足先にニシェルが飛び降り、思考の覚束ない芙蓉はルシュの手を借りた。尻の筋肉が強張って痛かった。

 ぐるっと市壁に囲まれたツェルンは、都市さながらに大きな街だった。詰所と思しき門脇の低い塔や堅固な城郭では、カティア達と同じ胴衣の衛兵が行き来している。

 門番にユフレ神殿のアミュレットと冒険者ギルドのバングルを提示し、二人はニシェルに手を引かれて門を潜る。

 明るく可愛らしい印象を与える街並みだった。入ってすぐの広場には色とりどりのマーケットの屋台が点在し、その周りを柔らかな色合いの薄い橙の建物が所狭しと囲んでいる。青々とした草木は乱れなく剪定され、見事に咲いた様々な花がそれらを彩っていた。

 夕食の時間が近いからか、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。欠伸がてらそれを吸い込んだ芙蓉の背後に、ぬっと影が差した。


「よォ箱入りィ……悠長に欠伸してる場合か……?」

「うえっ!?」


 心臓が飛び出るかと思った。おそるおそる振り返れば、首が痛くなりそうなほどの巨躯で仁王立ちする狼の獣人──ロッドウォルフが青筋を浮かべていた。


「おっ、お久しぶりです……!」

「久しぶりだよなァ、ホントになァ? こちとら大神官にどやされてここまで走らされたっつーのによォ……肝心のオマエが待てど暮らせど来やしねェとはなァ?」

「え……大神官? ということは……」


 ニシェルの迎えに手配されたのはロッドウォルフ達だったらしい。彼の後ろから双子の弟達──ルーインとウェスティンも手を振ってやって来る。


「二人ともやっほー。兄ちゃんはいつも怒りっぽいから気にしなくていいよ」

「昨日からずっと入り口や大通りを捜していたからな。でも怒りっぽいのは本当だから気にしなくていい」

「ぶっ飛ばされてェのかオマエら」


 三兄弟は大神官の依頼を受け、急遽馬車や魔獣車を乗り継ぎ、時にその脚力で激走してここまで来たという。少し離れたところで魔物退治をしていたとはいえ、突発的に要請が飛んできて有無を言わせずだったそう。

 そんな彼らの腕には、ギルドのバングルと共に神殿の紋章が刻印された腕輪が嵌められていた。


「そうだったんですね……すみません、急がせたのにお待たせしてしまい……」

「別に遅れてグチグチ言われるよりかはマシだけどよ。……大神官あの女、獣人使いが荒れェな?」

「ハハハ……」

「でもお金いっぱいくれるよね」

「仕事もよく回ってくる」

「まァな」


 ヘレネサイア達の護送以降、三人は各地の神殿関連施設への荷物の運搬や騎士団との合同任務等に駆り出されているそうだ。芙蓉はこっそり笑みを浮かべた。目論見通り、仕事に対しては真面目なので大神官のお眼鏡にかなったのだろう。手紙で繰り返し推薦した甲斐があったというものだ。

 ロッドウォルフはフンと鼻を鳴らし、芙蓉達に向き直る。


「で、だ。今回はコイツを神殿まで送り届けりゃいいんだろ?」


 精悍な鼻先を向けられたニシェルは、その主を無表情で見上げている。しかし芙蓉には彼女の高揚がわかった。暗海色が控えめに、でも確かにキラキラと輝いている。


「わんちゃん……」

「ンフッ」

「オイ……誰が犬だってェ……?」


 青筋を増やした長男に気づかれないよう、芙蓉は笑いを噛み殺した。そんな彼とは裏腹に、次男と三男は普段寄りつかない人間の子供に興味津々だ。ニシェルの傍にしゃがみ込み、耳や尻尾を好きなように触らせてやっている。

 ロッドウォルフは後頭部をガリガリ掻いてため息を吐いた。


「それで?」

「?」

「この前の女も魔術師だったが……どーせこのガキも普通の人間じゃねェんだろ? 面倒なことになる前に聞くだけ聞いといてやる」

「あ、その節はありがとうございました。でも、面倒なこととは?」

「…………」

「ロッドさん?」


 ロッドウォルフは腕を組み、ごにょごにょと言い淀んだ。立派な獣耳が忙しなく動いている。芙蓉が促すと、観念したようにシルバーグレーが眇められた。


「…………前回間違われたんだよ。あの女ヘレネサイアと母親、売り飛ばす気じゃねェかって」

「ぶふっ!」

「オマエなァ……!」

「ごめ、ごめんなさ、んふふ、うふ」


 なんと、護送を人攫いと取り違えられたという。ヘレネサイア達が本調子でないこともあり、余計に誤解されたらしい。神殿の関係者を示す腕輪をつけているのはそういう経緯があったようだ。

 芙蓉は涙の滲む目尻を擦り、声を潜めて「あの子はニシェルちゃんとフェリアドールです」と告げた。


「あ? どっちが何……どこにもう一匹いんだ」

「彼女、少し特殊な体質でして。身体はニシェルちゃんという女の子のものですが、体内に魔石があります。その持ち主がフェリアドールという妖精で、彼女には今、ニシェルちゃんとフェリアの二人分の精神が共存してるんです」

「なンだそりゃ……」

「ニシェルちゃんの身体は魔石で動いています。つまり、魔物の人間版ということです。だから彼女は魔術が使えるし、そういう時はフェリアの精神が表に出てきます。目の色が変わるのでわかりやすいですよ、エメラルドグリーンです。それと、大神官曰く細心の注意を払って保護してほしいとのことですので、このことはルーインさん・ウェスティンさん以外には内密にお願いします」

「…………」


 ロッドウォルフは耳をぺたりと伏せ、とうとう頭を抱えた。怒涛の情報量かつ内容が突飛過ぎる。なのに平然としている芙蓉を、獣人は胡乱げに見やった。


「オマエ……何でそう的確に複雑なのと遭遇すんだ……? いくら魔力があるからって訳アリなモン引き寄せ過ぎだろ……」

「えっ。……そうですかね?」

「ハッ、大方そこの半端野郎が腑抜けて──」

「ルシュくんです。あと腑抜けてもいないです」

「……半」

「ルシュくん!」

「あー、またフヨウちゃんと掛け合いしてる~」

「兄さんそれ好きだな」

「好きじゃねェよ!」


 ニシェルを肩車したルーインとウェスティンが笑っている。担がれた少女は毛並みが心地いいのか、背を丸めてすりすりと頬を寄せていた。「くすぐったいよー」と次男がくつくつ喉を鳴らす。


「ねー、ちょっと早いけどメシ食わない? この子さっきからすごいお腹鳴ってるよ」

「えっ、それは大変だ! あ、ロッドさん追加ですみません、ニシェルちゃんすごくたくさん食べます。魔石が心臓の代わりと魔術両方に使われてるので、燃費が良くないみたいで」

「……もう考えるのもめんどくせェ。とにかくめいっぱい食わせて神殿に連れてきゃいいんだな?」

「そうですそうです。よろしくお願いします!」


 軽快に親指を上げた芙蓉に、ロッドウォルフは再び深々と嘆息した。大神官のみならず、この神官見習いにも振り回される未来しか想像できなかった。

 広場に吊るされているガラスのランプが点灯し始める。ウェスティンによれば、これからナイトマーケットなるものが開かれるという。地元の生産者による料理や工芸品が販売される他、音楽会や演劇も楽しめる、ちょっとした秋の催しである。

 方々から続々と人が集まってきていた。鉄板を滑る脂の音や、ガヤガヤと笑い合う声が弾ける。その陽気さに誘われるように、一行は祭へと繰り出した。



       ◆ ◆ ◆



 芙蓉達はナイトマーケットを大いに満喫した。

 チーズたっぷりのライスコロッケやほのかに甘いカボチャスープ、ぷりっとした薪焼ソーセージ、熱々のタルティフレット、こんもり盛られたヒツジの煮込み、そして揚げたてのタラと具の食感があるタルタルソース。食後にはチョコレートと果物がこれでもかと添えられたワッフルやカヌレ、アイスクリームを皆で分けて平らげた。大の大人達が突っ伏す中でもニシェルは満腹になれず、宿にたくさんお菓子を持って帰った。

 屋台では人形や絡繰りのある玩具、装飾品等の雑貨も多数売られていた。芙蓉はそこで、ジニアとエリカに小花の飾りが散りばめられた揃いの髪紐ダイアデムを、神殿には今年一番のワインを買い、ニシェルには小振りの羽ペンと羊皮紙のセットを贈った。眠る直前まで大変に喜ばれていたのが面映ゆかった。

 あちこちに手紙を書く芙蓉を真似て、時折妖精に茶々を入れられながらも、ニシェルは何かを完成させたらしい。翌朝、駅馬車乗り場の前で差し出されたのは一枚の羊皮紙だった。


「もしかしてお手紙書いてくれたの? ありがとう!」


 受け取った四つ折りの皮紙を丁重に広げると、そこに描かれていたのは絵だった。左から順にセミロングの髪型の芙蓉、フードを被っているルシュ、一回り小さなニシェル、そして──羽を生やし、ふわふわの長いロングヘアを持つ人物。


「……これ、フェリア?」

「うん」

「やっぱり! ニシェルちゃん、絵上手だねえ……ちなみにフェリアの髪は何色なの?」

「えっと……きいろとちゃいろの、すっごくうすいの」

「ベージュっぽい感じかな? 妖精だから羽もあるんだね、かわいいね」

「うん。フェリア、かわいい」

「……私のことはどうでもいいでしょ。全く、いつものことだけどノンビリしてるわね」

「フェリア」


 手紙から顔を上げると、フェリアドールが呆れた風に腰に手を当てていた。顎をツンと上げた彼女は、ずいっと拳を突き出してくる。


「ん」

「ありがとう……? え、これ──」


 芙蓉の手に乗せられたのは、翠玉の瞳の色そのままの透き通る小さな石だった。じわりと感じる魔力の気配に息を飲む。故郷のハイマで神父が携帯していたものにそっくりだった。


「魔石……?」

「そ。私とニシェルの中にあるものの一部よ。ま、餞別みたいなものね。攻撃でも治癒でも魔力の補充でも、好きに使いなさい」

「で、で、でもこれ、心臓の代わりなんじゃ……!?」


 寿命を削り取ったのか。そう言いたげに口をパクパクさせる芙蓉を、妖精は内心でくすりと笑った。相変わらずこの人間は他人のことばかりだ。


「保証された分よ。私がいればニシェルこの子は一人でも生きていけるけど、表立った後ろ盾が得られるならより安全でしょうし。私達の総意なんだから文句は言わせないわよ、の神官見習い」


 不敵な笑みで言い切ったフェリアドールは、「じゃあね」と瞼を下ろした。芙蓉は畳み直した手紙と魔石を掲げ、少女のブルーブラックと視線を合わせる。ゆらゆらと光が上下する様が冬の海そのものだった。


「……お手紙と魔石、ありがとう。大切にする」

「……うん」

「……ここから神殿まで、わんちゃんのお兄さん達が一緒に行ってくれるから。たくさん馬車に乗ったり歩いたりして長くかかると思うけど、お兄さん達は強くて優しいから大丈夫だよ。何か不安なことがあったら相談してね」

「…………っ」

「……手紙、書くからね……元気でいてね……っ!」


 震える語尾を聞いてしまったらもうだめだった。ニシェルは声にならない呻きを上げ、目の前の細い首に飛びつく。薄い胸板や温かい掌全部が母親と瓜二つで、自覚すればするほどしょっぱい水が溢れた。

 別れは二度目だった。けれどあの時の絶望的な、足元が崩れ落ちそうな感覚はない。居場所ができ、自分の境遇の全てを知る人がいる安堵か。思いきって寄りかかっても、しっかりと受け止められた気がした。


「うううううう」

「うああああん」

「どっちがガキかわかりゃしねェ……」


 ずびずび洟を啜りながら、やっとのことで二人は抱擁を解いた。ニシェルは芙蓉に顔を拭われつつ、傍にいたルシュに手を伸ばす。己の半身と互角なほど強いのに、どこか臆病なこの人ともきっとまた会える。空咳をすれば恐々背を擦ってくれる少年にぎゅっと腕を回した。

 離れるのは寂しくとも、今度は縁が切れるわけではない。幼心にそれを理解しているニシェルは、絵のような手紙を書く傍ら、再会するその日を静かに数えて待つのだろう。人間の文字を覚えた方がいいかもと、フェリアドールは人知れず肩を竦めた。



       ◆ ◆ ◆



「お二人さん!」


 ニシェル達の馬車が粒になるまで見送っていた芙蓉達は、不意にかけられた聞き覚えのある声に反応した。すれ違い様に門外からやってきた衛兵隊の馬車から、金髪の青年が焦ったように飛び出してくる。


「ちょうどよかったっす、入れ違いになるとこだった」

「スタニクさん! お戻りだったんですね」

「荷物持ってとんぼ返りっすけどね。時間ないんで、こっちこっち」


 スタニクの横顔は埃塗れで、全体的に薄汚れていた。頭から砂をぶち撒けられたような様相だ。転んだのだろうか。

 疑問符を浮かべる二人を城郭の影に引っ張ったスタニクは、懐から羊皮紙の破片を取り出し、早口で芙蓉に押しつけた。


「出発できるなら、コレ持って反対側の魔獣車乗り場まで行ってください。隊長のサインソレ見せれば優先して乗せてもらえるんで」

「え、あ、ありがとうございます……あの、何かあったんですか……?」

「出たんすよ、『火の獣』が」

「──!」


 耳を疑った。忘れ難くて、無理矢理記憶の彼方に押しやっていたあの夜の出来事が鎌首をもたげ始める。

 身体中から轟々と火炎を噴き上げる獣。天を突き破るような巨躯から涎を垂らし、獲物を狙っていた魔的生物。魔術や武勇に長けた大神官達でさえ酷い火傷を負わされた、規格外の怪物だった。


「集落で事後調査してたら突然火の手が上がって、山が燃えてたんすよ。で、そこからヤツが下りてきて、集落の人間片っ端から匂い嗅いじゃー噛み殺したり燃やしたりで、超暴れまくって」


 獣は炎に包まれた山を巨大な足で踏み荒らし、跡形もなく消し去った後、集落に標的を移した。ただし、全員が被害を受けたわけではない。カティアやスタニクを含む一部はなぜか手出しされず、獣は自身の影に溶けるように消えたという。ちなみにスタニクが汚れているのは、カティアの前に立ちはだかったところ、興味なしとばかりに後ろ脚で砂をかけられたからだそうだ。


「よかった……お二人は無事だったんですね」

「オレは砂かけられたの若干納得いってねえっすけどね。とにかく、今はもう何もいないんすけど、下手したら門閉められて移動できなくなるかもしれないから、旅してんなら急いだ方がいいんじゃないかって隊長が」


 既にギルドへも通達されているため、集落へ人員が派遣されたり外出が制限されるのは時間の問題だった。現地では埋葬やツェルンへの護送の必要もある。スタニクも衛兵や道具の補充をするついでに伝言を持ってきてくれたのだ。


「スタニク! 荷物積んだから出るぞ!」

「りょーかい! ……んじゃ、確かに伝えたんで。お元気で」


 いつもの澄まし顔に片頬だけを上げて、スタニクは門前の馬車へ戻っていった。

 その場に残された芙蓉は、手中の羊皮紙に視線を落とす。なぜあれ以来音沙汰のなかった存在が、沈黙を破って突然現れたのか。なぜ集落を攻撃したのか。躊躇なく殺す一方で、なぜ生かしたのか。ざわざわと胸が落ち着かず、皮紙にきゅっと皺が寄った。


「フヨウさん」


 穏やかな声色がぽつりと落とされる。隣を見れば、ルシュがキトンブルーを和らげて芙蓉を見つめていた。


「あの獣は前からユニアを徘徊しています。逆に他の国では目撃されていないそうなので、今はとにかく次の街に急ぎましょう。一緒に行きます、何があっても」

「……はい、ありがとうございます」


 この上なく頼もしい言葉だった。じんと気持ちを動かされて、芙蓉の口角が自然と緩む。

 呆けている場合じゃない。危険が迫っていて、それに立ち向かう力がないのなら、遭遇を回避しなければならない。他人の身体で無茶はできないのだから。

 そのために目指すは都市エフラン、次の魔獣車到着場所である。勢いよく頬を叩いた芙蓉はルシュと共に踵を返した。その眼光は、獣への恐れを振り払うように鋭く底光りしていた。

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