第30話 約束
「ねえ、あの子すごく落ち込んでるけど」
「……すみません……」
「私に謝ってどうするのよ。フヨウはあっちよ」
ビシッと指差してみせるが、切り株に腰を下ろしたまま、ルシュは重そうに頭を垂れて動かない。フェリアドールは「ハァ~~~」と巨大なため息を吐いた。
人間の面倒なところの一つがこれだ。一時の感情に振り回されて自我を見失い、後悔する。ニシェルの発育のために日々観察しているが、心なるものは生まれ持つ人間でさえ上手く操れないらしい。
「一応結界は張ったけど、あんまり一人にするもんじゃないわよ。護衛なんでしょう?」
「……はい、でも、もう外されると思います」
「どうして?」
「……雇い主に、意見したから」
蚊の鳴くような声でルシュが絞り出す。フェリアドールは腕を組んで首を捻った。
「意見? したらいけないの?」
「……傭兵は、雇われの身だから。身分が低いので雇い主に意見できる立場にないんです」
「フヨウがそう言ったの?」
「……いえ」
「じゃ、その身分が低いっていうのは傭兵の共通認識なの? あんた以外の傭兵も皆奴隷みたいなの?」
「……いい、え」
──奴隷。その言葉にはっとした。人格を否認され、他者に隷属し、道具のように使役される存在。かつての自分はそうさせられようとして、すんでのところで逃げ
ルシュは目を覆った。彼女こそ、そういう自分を一個人に引き戻そうとしてくれていたじゃないか。
「あんたが何を気にしてるかわからないけど、フヨウはそういうの嫌がらないでしょ。いつも意見聞いてくるじゃない、アレどうですかコレどう思いますかって」
「……誰にでも気を遣う人なんですよ。それで利用されて嫌な目に遭ったりするのに……」
おそらくだが、神殿関係者である彼女には何か大事な、それこそ使命みたいなものがあるのだろう。それも大々的な巡礼等ではなく、秘密裏に国々を渡らなければならないような。でなければ、狭き門を潜り抜けたはずの神官見習いをたった一人の護衛のみで旅立たせるはずがない。
「俺……フヨウさんがそうやっていいように使われたり、他人に責められたりするの、嫌だ……何でいつもあの人ばっかり……」
きっとルシュの想像なんて遠く及ばないほど大変な事情を抱えているだろうに、当の本人は拒まないから。負わなくていい怪我も理不尽な暴言もまともに受けてしまうから。庇いきれない、成人すらしていない己の力不足も相まって、ルシュにはそれが酷く歯痒かった。
「確かに、あんたがいくら気をつけててもフヨウがフラフラしてたら意味ないのは同意するけど。でもそれもひっくるめて護衛でしょ。守りきる自信がないならやめたら? あんたと同じ、あるいはそれ以上のことができる人間なんて世の中にごまんといるんだし。ああ、私でもいいわね。魔術も教えられるし、ニシェルも懐いてる」
「……っ!」
弾かれたようにルシュが立ち上がった。見開かれた目の中央で黒々とした瞳孔が開いている。さながら子猫の威嚇だと、フェリアドールは片頬で笑う。
「嫌ならちゃんと話し合ってきなさい。見てて思うけど、あんた達お互いに気を遣い過ぎよね。なのに肝心なことは話してないんだもの、それじゃ誤解も進むわよ」
「ぶっ!?」
「ほら行った行った!」
突風が真正面からぶつかってきて、フードが引き千切れる勢いで脱げた。開けた視界にルシュはぱちくりと瞬いていたが、やがてまくり上げられた前髪をそよがせつつ、会釈して踵を返した。
本当、人間って手がかかる。小柄な背中を見送るフェリアドールに幼い声が耳打ちした。
「……いいのよニシェル、内緒ね」
ルシュの覚悟はきちんとあった。それがわかってよかったから、少しだけ本気だったことは黙っておこう。当て馬みたいで悔しいので。
◆ ◆ ◆
「はあぁぁ……」
芙蓉は何度目かの深い息を吐いた。抱える膝に顔を埋めては同様のことを繰り返している。
根が生えたように足が動かなかった。ルシュの吊り上がった目尻を思い出しては踏み出そうとした一歩が引っ込み、ずるずるとその場にしゃがみ込んでいる。胸のモヤモヤは晴れず、彼に対する後ろめたさが溢れ出すばかりだった。
今になって芙蓉はやっと少年の立場を理解した。一生懸命護衛している傍から離れていかれたら、守れるはずのものも守れない。だから愛想を尽かされてしまったのだ。
(あっさり誘拐されるくせに、一丁前に「一人でも大丈夫」なんて。そのくせあちこち捜させて……思えばそういうことばっかりだったな……こんなの呆れられて当然だ……)
謝ろう。受け入れてもらえなくても、とにかく謝罪の意思は示すべきだ。そう決心して、芙蓉は土踏まずに力を入れた。途端、ビキッと身体に走る電流。姿勢が固定されていたせいで足が痺れていた。
慌てて手をつこうとした付近の幹には黒い影。そのドでかい毛むくじゃらの蜘蛛を避けた瞬間、芙蓉は体勢を崩した。
(やばい、転ぶ……!)
ドン、と重い音が響いた。
──眼前に細いグレーの髪が揺れている。肩に感じる力強い掌の感触に、芙蓉は目を白黒させて息を飲んだ。
「……大丈夫ですか?」
「、っはい! 大丈夫です……」
蜘蛛は銀の短剣に穿たれていた。改めてその仕事人振りに感じ入りながら、ぎこちなくルシュに向き直る。初めて彼の前に立つのが怖いと思った。
「あ……ありがとうございます……いつも、本当に……」
震えそうな喉を引き絞る。あの美しいキトンブルーに晒されると全てが暴かれてしまいそうで、芙蓉はルシュと目を合わせられないまま頭を下げた。
「ごめんなさい……私、ルシュくんが何も言わないのをいいことに、ずっと甘えてました。あの時ルシュくんはついてきてくれようとしたのに、私が余計な気を回したせいであんなことになって……今までも、たくさん迷惑かけてごめんなさい……な、何もできないなら大人しくしとけって話ですよね……本当にごめ──」
「っ違います! 違います……」
吠えたルシュの獣の耳が屹立する。固く握り込んだ拳が鈍い音を立てた。
◆ ◆ ◆
見ていられなかったのだ。意識すら覚束ない時でさえ、彼女は彼女以外の何かに心を割いている。それが後々取り返しのつかないことを引き起こしそうでルシュは恐ろしかった。
現実は非情である。魔術師の才能故に何かと狙われやすい上、物分かりが良く、物腰も丁寧な彼女自身がそもそもつけ込まれやすい。生まれつきの才覚はどうにもできないなら、せめてもう少し自分を大事にしてほしかった。
だって、気を失った彼女はこの世のものとは思えないくらいの儚さだったから。常よりどことなく浮世離れしている芙蓉がまるで本当に魂を飛ばしてしまったようで、ルシュは愕然とした。ここにいる実感を得たくて、風魔術を断ってわざわざ背負ってきたほどに。
──このままでは、いつか彼女があっさりいなくなってしまう気がした。ルシュを置いて、ある日忽然と。
「フヨウさんのせいじゃない、悪いのはどう考えても集落の人達です。でも、俺に気を遣って危険な目に遭うくらいなら自分を優先してほしい。俺は人間じゃないから、多少何かがあっても耐えられます。そんなに人に接するようにしなくていいんです」
いなくなってほしくない。死なせたくない。できるだけ痛い思いもしないでほしい。目に映るものに遍く興味を示し、何の心配もなくにこにこと微笑んで、彼女がただ旅を楽しめればどんなにいいか。時折零す不安そうな、心許なさそうな表情の理由がわからないだけに、ルシュはもどかしくそう願っていた。
そのためならいくらでも力を振るう。人間にはできないことも、半獣人の能力が可能にするかもしれない。ならば自分がこの血を持つ意味はある。
「……ふ、ふ」
ゆるりと、強張っていた芙蓉の口角が解けた。ようやくかち合った視線は泣き出しそうに揺れている。
「……確かに、人と違うところはありますね。ルシュくんは、人よりずっと優しい」
「優しいのはフヨウさんですよ。俺の耳を見てもカティアさん達は何も言わなかった。いつもフヨウさんが俺を一個人として扱ってくれるから、周りの人もそういう風にしてくれるんです。フヨウさんのおかげです」
ルシュは饒舌に訴えた。まだ気持ちが高ぶっているのかもしれない、でも耳を傾けてほしかった。旅を始めてからだんだんと周囲の目線が気にならなくなったこと、時々人間になったみたいに錯覚すること、全部あなたのおかげなのだと。
けれども、芙蓉の顔からはみるみる表情がなくなっていった。眉を下げ、何か告げようとして──結局諦めたようにへらりとされる。
「フヨウさん……?」
「……私、そんな人間じゃないですよ……」
自嘲気味な笑みを貼りつけた芙蓉は罪悪感に苛まれているようだった。ああ、これも使命のせいなのだろうか。ルシュはそんな彼女を宥めるように、そっと言葉をかける。
「怖かったり悲しかったりしたら、無理に笑わなくていいと思います。理由もいりません。その代わり原因を教えてください。フヨウさんが望むなら俺が倒します。それが
ルシュは彼女がそんな顔をする事情を知らない。打ち明けられなくとも構わなかった。ただ護衛として彼女を守り、立ちはだかる敵を排除するだけだ。雇われた傭兵だからではなく、自分がそうしたいからだ。
その覚悟は芙蓉にも届いたらしい。彼女はやっと笑うのをやめて、小さな声で白状した。
「今……後ろに立たれるの、ちょっと怖いです……」
「わかりました。隣にいます」
「あと、あの……神官としての役割を期待されたら、これからも引き受けることはあると思います。神殿とか、大神官の名前に傷をつけられないので……それで面倒なことになる可能性もあります……」
「はい、当然のことだと思います。気にしないでください」
「それと、最後に……」
おそるおそる差し出される掌。芙蓉は真っ赤に充血した瞳をルシュに向け、拙く口を開いた。
「まだ……まだ、ルシュくんがよければ……一緒に行ってほしいです、レイドラまで……」
「フヨウさんこそ、俺でよければ。……レイドラまで」
ルシュは力強く頷き、人間程度の力で芙蓉の手を取った。
当初の契約通り随行は国境都市まで、それ以上は望めない。その代わり、必ず無事に送り届けようと誓う。
「へへ……ありがとうございます……」
芙蓉が恥ずかしそうに面持ちを崩した。今度は建前のない、彼女の心のままの表情なのだろう。ルシュは心中でほっとして、それから、『かの短剣の持ち主』にひっそり謝罪した。
「話はついた? 使い魔が来てるんだけど」
「うわあっ!?」
茂みから、肩に半透明のリスを乗せた妖精がひょっこり現れた。フェリアドールから芙蓉に飛び移った大神官の使い魔は、短い腕いっぱいに抱えた羊皮紙をヨイショと突き出す。顎に押しつけられた当人は、急いで目元を拭ってから受け取った。
「ありがとう。もう戻ってもらって大丈夫だよ。後で返事を出しますって伝えておいてくれる?」
「心得た!」と両手を広げ、リスが帰っていく。相変わらずフローラルで上質な手紙を広げた芙蓉は、高速でその内容を確認するなり、ぱっと虹彩を輝かせた。
「フェリア! ニシェルちゃん!」
「な、なによ。代わるから待って」
フェリアドールは芙蓉の満面の笑顔にたじろいだ。つい先程まで半泣きだったのは誰なのか、人間への理解はやはり難しい。
瞼を閉じてニシェルを呼ぶ。随分長い間占領してしまっていたが、この身体は彼女のものなのだ。両者が呼ばれたということなら、本来の持ち主が主導権を握るべきだろう。
突然呼び出された少女は、暗海色の双眸を眠たげに細めながら芙蓉を見上げる。
「あのね、私、二人のことを大神官に相談したんだ。強いのはわかってるけど、やっぱり小っちゃい子が一人でうろうろするのは危ないと思って。そしたらね、二人さえよければ神殿にお部屋を用意してくれるって」
「おへや……」
「うん、そう、お部屋! いつでも好きな時に帰っていいって! ……二人がどこか遠くで、誰にも見つからずに生きたいっていうんなら、寂しいけど私は止められない。でもそうじゃないなら、何かあった時のために後ろ盾は必要だと思うんだ」
芙蓉は手紙を見せながら、風に煽られたさらさらの髪を耳にかけてやった。
齢二桁にも満たない子供であり、その身に魔石を宿す特異な生態。大神官も非常に驚き、同時にかなり危惧していた。
曰く、魔的生物と人間が結びついている例は途方もなく希少だという。大抵の場合、いきなり魔力の塊をぶち込まれれば人間の肉体は耐えきれず崩壊する。魔力適性のある魔術師でさえも完璧な受容は困難であるため、彼女達の噂が流布すれば良からぬ輩に目をつけられかねないそうだ。
「今すぐじゃなくていいから、フェリアとよく相談して、二人で決めてほしいな」
「……フヨーちゃん、いる?」
「私?」
「うん……シンデン、いる?」
「……私は、えーと……た、たぶん顔は出すよ! おうちが別にあって、これから学校にも行くから、しばらく会えなくなっちゃうとは思うけど……でも、手紙も書くし!」
「じゃあ、いく」
「い、いいの? フェリアは大丈夫?」
「うん。いま、『すきにして』って」
ニシェルが胸の辺りをぽんぽん叩いて言った。芙蓉はすんなり決まって拍子抜けしていたが、これでヘレネサイア同様に居場所は保証された。良からぬ輩とやらについても、神殿には頼もしい彼らがいるし、悪目立ちしなければ大丈夫だろう。
すぐさま返事を書こうとして、ふと尋ねる。
「このこと、ニシェルちゃんのお母さんにも知らせていいかな……? 少しだけ離れちゃうけど、居場所はお互いにわかりますよって」
「……おかあさん……」
「うん……お母さんね、渡したお花飾ってくれてたよ。少し混乱しちゃってるけど、ニシェルちゃんのことを考えてるのはずっと変わらないと思う」
「おかあさんに、おてがみだせる……?」
「もちろん出せるよ。かわいい羽根ペン買おうか」
落とし物の回収と称して最後に村に立ち寄った芙蓉は、束の間ニシェルと旅することを話した。そして、その後の行先についても。件の母親は複雑そうではありながらも、最終的にこれからの関わりを「是」としたのだ。
夫の死や娘の変異。立て続けに色々なことが起こり、つい直情的な言葉や行動が先行してしまったこともあっただろう。褒められたことではないが、彼女はまだニシェルを忘れたわけでもない。距離と時間が解決してくれることもあると芙蓉は思う。
「神殿に行ってもいいよってなったら、迎えに来てくれるって書いてあるのね? だからこれからツェルンに行って、おいしいもの食べていっぱい遊んで、たくさん思い出作ろうね」
「うん!」
右手をニシェルと繋ぐと、左側にスッとルシュが立った。両目を丸くする芙蓉に口の端を綻ばせ、少年はフードを被り直す。その至情に胸を打たれ、気を引き締めなければ泣きそうになってしまい、芙蓉は懸命に深呼吸した。
導くように馬の嘶きが森に木霊する。歩き出した三人の影が夕陽に長く伸びていた。
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