第29話 怪物たち⑤
『かたいけどうんまいなあ~~~! やいたらうるさくないし、ぱりっとするぞお~~~』
誰も敵わなかった。火は手下と化した鳥の魔物にかき消され、渾身の刃はその皮膚に阻まれた。まず男達が犠牲になった。
『おっ? おんなのほうがうまいじゃねえか~~~! えへへえ、ちょっとあぶってみるか~~~』
次に女達が喰われた。柔らかさを損なうまいと、生きたまま少しずつ焼かれた。
『もうにんげんがいない~~? ならつれてこいよお~~~!』
集落は狂った。恐怖と絶望に支配され、保身のために次々と人間を差し出した。通りすがりの旅人、見回りに来た衛兵、果ては恋人や家族まで。用意できなければ産んだ。ここに住むのは生きるためではなく、喰われるための人間だった。
だって誰も来てくれないから。外部への救援は届けられず、常に猛禽の眼が見張っていた。山々に囲まれた閉鎖的な立地に加え、人が消える噂が流れ始め、彼らはいよいよ追い込まれた。
その直後、近くの村が丸ごと喰われた。では今度はトーハを捧げよう。魔物の大群が向かっていく様を見て、彼らは歪にほくそ笑んだ。
これでまた少し寿命が保証された。その間にどうにか生贄を準備しなくては。最近、あの御方は塩を揉み込んだ女を丸呑みするのがお気に入りだから、またアンナと元衛兵の男を番わせよう──。
しかし、その後いくら待っても魔物達は帰ってこなかった。焦った面々の前に現れたのは、久々の衛兵達と似つかない三人
──まさに今、人食い巨人の巣から生還した救世主達である。
「……あ、あいつは……?」
山から下りてきた一行へ、まとめ役の女が弱々しく尋ねた。立ち止まった彼らの先頭へカティアが進み出る。
「一つ目の巨人及びハーピーは彼らの功績で退治された。これからは誰も喰われることはない。君達も自由だ」
早朝の澄んだ空気に溶け込む穏やかな声音だった。ぺたりと地面に膝をついた人々が呆然と涙を流す。途方もない安堵だった。解放された衝動が大き過ぎたのか、必死に胸を抑えて泣き崩れる者もいた。
嘘みたいだった。悪夢は呆気なく始まり、そしてまた前触れなく終わる。だから、不意の幕切れを容易に受け入れられない者がいるのもまた事実だった。
「……なの」
空っぽな表情の少女が呟いた。その声に芙蓉の瞼がぴくりと震え、ゆっくりと持ち上がっていく。
「なんで、今なの……」
「アンナ、」
「なんでもっと早く来なかったのよ!!」
呼ばれたことが合図だったかのようにアンナは叫んだ。その瞳に深い怨恨を宿し、強く芙蓉達を睨みつける。
「もう少しっ、もう少し早く来てくれればお父さんとお母さんは死なずに済んだのに! アイツを倒せるならなんでもっと早く来なかったの? 途中から見回りにも来なくなったよね? ねえ!?」
「…………」
「魔術師がいたら生贄も減ったのに! お父さんも、お母さんも、わたしの赤ちゃんも、あの子がいたら死ななくてよかったじゃない! なんでよ! なんでよお……っ!」
悲痛な慟哭が集落内に響き渡った。しゃくり上げるアンナは肩を抱かれ、激しくむせび泣いている。
身内を捧げさせられたのか。彼女の境遇をおおよそ察した芙蓉は、担がれていたルシュの背から降りようとした。けれどそれは幼い掌によって制止される。
「納得いかないわね」
顎をついと上げてフェリアドールは吐き捨てた。細められたエメラルドグリーンが戦闘時同様に光っている。
「あんた達が犠牲にした旅人や衛兵だって家族がいたかもしれないじゃない。もちろんこの子達にもね。運が悪いとは思うけど、一方的に被害者面されても困るわよ」
「……っ!」
「いや、責任の一端はこちらにもある」
そう告げるや否や、折り目正しく両手を地につけたカティアが頭を下げる。その姿にスタニクの身体はぎくりと強張った。
「我々が近年見回りを怠っていたのは事実だ。衛兵の任に就いた者としてふさわしくない振る舞いだった、大変申し訳ない。……ただ、どうか三人を責めないでほしい。今回の件は彼らがいなければ解決できなかった。あなた方に長年恐怖政治を強いてきたあの巨人に、最後まで諦めず立ち向かってくれたのは彼らだけなんだ」
長い沈黙が落ちた。痛いところを突かれているのはお互い様である。集落の人々はアンナの口を塞ぎ、愛想笑いを浮かべて引っ込んだ。
恭しく上げられたカティアの額は土で汚れていた。決して緩まない彼女の凛とした姿勢を、スタニクが苦い顔で見つめていた。
◆ ◆ ◆
「仮眠、取ってきたらどうすか」
「ん? ああいや、わたしは大丈夫だ。できるだけ
木陰にいたカティアの手元には羊皮紙の束があった。スタニクはインクの乾きを待っているうちの一枚をめくり、簡潔で整理されたその内容に舌を巻いた。彼女は昔から優秀なのだ。しかしながら、何事も率先して行動し、こういった雑務を部下に任せないところが「デキるのを鼻にかけている」と陰口を叩かれやすかった。
自分がデキない言い訳だろ。スタニクはその度に舌を打ち、心の中で毒づいていた。
──オレは知っている。新米の彼女が暴漢や魔物にも挫けず、血の滲むような努力で這い上がろうとしていたことを。
「フヨウ達の様子はどうだ?」
「ちっこいお嬢さんが魔力分けてるっす。落ち着いたら出発するって」
「そうか。……彼らには本当に世話になった。我々だけでは到底勝てなかっただろう」
伏せられた睫毛の長さが眩しい。彼女の騎士然とした仕草の隙間に懐かしい記憶を見つけると、スタニクは安心した。
──変わっていない。初めて言葉を交わした時から何一つ。皆がどうこうじゃない、本当はオレこそアンタみたいに力が及ばなくて、知られてしまった情けなさを誤魔化したくて、八つ当たりのように接することしかできないのに。
「こうして生きていられるのは奇跡に近い。特にわたしなんて、本来なら捕まった時点で死んでいてもおかしくなかった。だから本当によかった。わたしだけならまだしも、君を死なせてしまうのは忍びなかったから」
「はっ……?」
出し抜けに指名され、思考を飛ばしていたスタニクは意図せず掠れた息を漏らした。いつも斜に構えている部下の無防備な様が微笑ましくて、カティアは目尻を下げる。
「前任の隊長に最後まで直談判していたのは君だろう? 行方不明者がこれ以上増える前に見回りを再開させてほしい、事の詳細を洗い直したい、と。そのせいで大分謹慎をくらったそうだな。君の扱いについて丁寧に引継ぎを受けたよ」
スタニクは怨嗟の念を飛ばした。あのおしゃべり風見鶏野郎、いつか鶏冠を引き千切ってやる。
「それを聞いて嬉しかった。表面上は周りに合わせていても、君は衛兵の名に恥じない人間だ。中身はあの頃と同じ、真面目で優しい君のままだ」
「あの頃、って……」
「昔、観光客に絡まれた女の子を庇っただろう。君が衛兵になる前のことだ」
ドキッと鼓動が跳ねた。まさか十年近くも前のことを、それもたった一度きりの邂逅を、彼女も覚えているというのか。
「数は相手の方が多かったのに、君は幼くても一人で冷静に事を収めた。彼女に悪影響を残さないよう、罵声や暴力を振るうでもなく。入隊したばかりのわたしよりよっぽど衛兵らしかった。そんな君が今もツェルンにいて、しかもわたしの部下になったという。ユフレ神の思し召しに感謝したよ」
「わたしはとても恵まれている」と、世界で一番素敵な贈り物をもらったようにカティアは笑った。スタニクは咄嗟に俯いて唇を噛む。ドクドクドクドク、心臓がはち切れそうなほどうるさかった。
──覚えていてもらえた。オレだけの一方通行じゃなかった。これはもしかして、ひょっとして。
「だから今回、君が着いてきてくれることになって百人力だと思った。まあ、君には災難だっただろうが」
「……べつに、ンなことないっすよ」
「ふふ、いいさ。一気飲みで負けたんだろう?」
「いや……それは……嘘、っていうか……」
「?」
「っあーもう!」
ギシ、と背後の木が軋んだ。カティアが顔を上げると、覆い被さるように幹に手をついた部下が目の前にいた。前髪同士が絡み合いそうな距離。その額についたままの土に気づいて、スタニクはふっと眦を緩めた。
──あの日、揉め事に首を突っ込んだことに大した理由はない。余所者の無礼で大人げない絡み方が目に余ると、単に癪に障っただけだ。
ところが彼女にとっては、感動に胸を打たれる素晴らしい行いだったらしい。騒ぎに駆けつけたカティアは少年のスタニクに膝をつき、これでもかと言葉を尽くして褒め称えてくれた。自分がこの世の何よりも優れていると錯覚するような賛辞、そして屈託のない華やかな笑顔は、思春期の心に多大な影響を与えるには充分過ぎた。
それ以降、スタニクの視線はカティアの姿を、耳朶は声を追った。職務に勤しむ彼女は、何度怒鳴りつけられ、何度心身を損なおうとも、死に物狂いで踏ん張っていた。その様子を純粋に応援していた当初の気持ちはいつしか変化していた。話すきっかけもなく、もどかしさが拍車をかけたのかもしれない。スタニクは日々膨らむ想いを持て余すばかりだった。
そんな折、昇進に伴うカティアの異動を風の噂で知った。何年も機を逃し続けてきた十九歳のスタニクは、ここでもまた遠くから見送ることしかできなかった。己の未熟さと追いかけられない
「……本当は、アンタが行くっていうから手を上げた。入隊したのも、……アンタがいるから」
低い声が押し殺したように紡ぐ。ぱちぱちと目を瞬かせていたカティアは、それを聞いて花が綻ぶように破顔した。
「そうか……それは嬉しいことだ、スタニク……わたしは君にとって──」
──今か。今なのか。オレの十年は今この時のためにあったのか。
ゴクリと喉が上下する。スタニクの双眸はギラギラと殺気立ち、血色の良い唇に釘付けになって──。
「──憧れるような衛兵になれていたということだな!? ありがとうスタニク! 最高の褒め言葉だ!」
死んだ。紛うことなき純然たる死だった。墓などいらぬ、オレの遺骨は砕いてこの女の枕に詰めてくれ。ハーピーよりかは寝心地が良いはずだ。
「がむしゃらにやってきたが、見ていてくれる人はいるんだな。ああ、とても嬉しい……君に言われるなら尚更だ。これからも衛兵として、そして誇れる上官でいられるよう頑張るからな!」
「マジでなんでそうなんの? いや志が立派なのはわかるんすけど、そうじゃなくてオレのこと絶賛してたっすよね? 今の流れは絶対そうだろ、なあ?」
「スタニク? どうした、眉間の皺がすごいぞ? 腹痛か?」
「ハアァァ……アンタはこういう人だよ……へーへー、期待したオレがバカですよ……」
「ブふんッ」
「!」
スタニクの首がギュンッと回転した。振り向いた先には肩を震わせるフェリアドールと、居心地悪そうにもぞもぞしている芙蓉とルシュ。血管の切れる音が嫌に大きく聞こえた。
「ぐっふ……ぜ、ぜんぜん、ぶふ、あいてにされてないじゃない……くふふふふ」
「フェリア、フェリアやばい抑えて、スタニクさん来てる来てる来てる」
「口の減らないお嬢さァ~ん、ちょおっとお話できませんかねえ~?」
「うふふ~、お断りよ意気地なし~」
追いかけっこに離脱した二人を余所に、カティアが立ち上がって両手を広げた。
「二人とも、具合は? 立って大丈夫なのか?」
「はい、おかげ様で。そろそろ出発しようかとご挨拶に」
「馬車が無事ならツェルンまで送れたんだが……世話になったのにろくに礼もできなくてすまない」
「いいえ、こちらこそお世話になりましたから。でも、カティアさん達はどうするんですか?」
カティアとスタニクが乗ってきた馬車は破壊されていた。馬の行方も知れないため、追加の衛兵の派遣を待つという。
「二日経って戻らなければ迎えを寄越すよう言付けてある。それまできちんと彼らを見張っておくさ」
「じゃあ……これを。お二人だけなので念のため」
「結界も追加しといてあげるわ」
芙蓉がポーションの小瓶を渡し、フェリアドールがちょちょいと指を振った。かすかに光るそよ風にふわりと身体を包まれて、カティアとスタニクは透明なショールを纏ったような心地になった。
次の瞬間、猛烈な勢いで芙蓉はかき抱かれた。広く見えたカティアの肩は肉が薄く、存外華奢だった。
彼女はぎゅうぎゅうに芙蓉とフェリアドールを抱き締めて、振り絞るように言った。
「ありがとう、何から何まで……っ! 君達に会えてよかった……旅の無事を、心から祈っている……!」
「ありがとうございます。お二人もお元気、で……」
カティアの肩越しにスタニクと目が合い、芙蓉は顔を引きつらせた。告白未遂現場の一部始終を目撃してしまった今ならわかる。あの半目は彼の嫉妬だったのだ、と。
彼女に触れる者の一挙一動を監視されるため、ルシュもやりにくそうに握手する。とうとう呆れたフェリアドールに再び尻を蹴られ、スタニクの絶叫が虚しく木霊した。
◆ ◆ ◆
「はあーあ! つっかれた!」
「ほんとにね。色々あったねえ……」
伸びをしたフェリアドールがさくさくと草を踏んでいく。芙蓉は広げていた地図を仕舞い、少女の後に続いた。
(駅馬車と会えたら拾ってもらって……うん、やっぱりツェルンでちょっと休憩しよう。手紙の返事を待って、目途がついたら魔獣車に乗って──)
指折り数えながら今後の算段をつける芙蓉に、「そういえば」とフェリアドールが振り返る。
「フヨウはどうして山にいたの? 自分の意志じゃないわよね?」
「あ、うん、実は捕まっちゃってて……畑を案内してくれた人に鍬で頭ゴンッてされて、気がついたら洞窟の中にある檻みたいなところにいたんだ。カティアさんも一緒だったから、二人で脱出したらあの山で……」
「なるほどね。驚いたわよ、あんた突然いなくなるんだもの」
「そうだよね、ごめんね。いやー私もびっくりしたなー、あはは。振り返ったらもう鍬が目の前だったもん」
とはいえ過ぎたことである。衝撃は一瞬のことだったし、身体にも傷は残っていない。私は無傷だ、と芙蓉は言い聞かせる。
(『フヨウ』さんは明るくてカラッとした性格だった。だから終わったことなんて引きずらないはずなんだ)
本当は、後ろに立たれるのが少し怖い。それでも対外的に自分は『フヨウ』なのだ。『芙蓉』としての心情は身の内に留め、『フヨウ』でいれば否が応でも風化していくだろう。
この器は借り物であることを忘れない。それはこの世界にいる間、第一にと誓ったことだった。
──なのに。
「……笑い事じゃないと思います」
「え……」
足が止まった。
吊り上がったキトンブルー。隣にいた少年がフードの下で芙蓉を苦々しく見つめていた。そんな眼差しを受けたのは初めてで、面食らった芙蓉は言葉を失う。
「いつもいつも人のことばっかりで、自分の方が危ないのにあれこれ気を遣って……さっきだってあの子に謝ろうとしましたよね。フヨウさんは悪くないのにどうしてそんなことするんですか。捕まって怪我して怖い思いして、何がそんなに笑えるんですか」
まん丸に見開かれた芙蓉の瞳に、子猫のようにキャンキャン喚く自分が映っている。ああ、とルシュは思考の片隅でうなだれた。越権行為そのものだ。彼女がどう振る舞おうが自由で、雇われる側に口を出す権利なんてないのに。
されど相反する感情に理性は引き裂かれ、止められずに少年は畳みかける。
「そんなことしてたらすぐ食い物にされる。旅をしてるなら、目的があるなら、もっと自分のことを考えてください、じゃなきゃいつか死にますよ……!」
二の句が継げなかった。あの表情の理由はこれだったのかと、芙蓉は今更ながらに思い当たる。落ち込んでいるような苦しんでいるようなルシュのあの雰囲気は、他でもない自分のせいだったのだ。
「ちょっと、どうしたのよ」
「……すみません、出過ぎた真似でした。頭冷やしてきます」
フェリアドールが間に入るも、ルシュはフードを引っ張って背を向けた。芙蓉は呆けた頭でその後ろ姿を追う。遠ざかっていく足音が耳鳴りのようにガンガン響いた。
(ずっと……ずっと我慢させてたんだ……私が色々と首突っ込んで手間かけても、ルシュくんなら許してくれるだろうって。無意識にそうやって優しさに胡坐をかいて、ヘラヘラ反省せずに面倒かけ続けてたら爆発して当然だ)
今までどれだけ助けてもらったことだろう。それなのに、今回は特に強引に離れて、結果厄介なことになった。まともに戦えない芙蓉の尻拭いをするのはいつだってルシュで、もし依頼人が死ねば彼の評価も下がってしまうのに。毎度これだけのことを積み重ね、迷惑をかけておいて「責任感じることない」なんて。そういう浅はかで傲慢な考えがとうとう彼に伝わってしまったのだ。
同じリスクを負うなら誰だって、困難に巻き込まれず、平穏で楽な依頼人の方がいいに決まっている。言いづらいことを言わせてしまったことがひたすらに申し訳なくて、芙蓉は放心したように立ち尽くしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます